ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

(続)どうしようもなく生きる以上は

 

はじめて文章を誉められたとき、死んでもいいと思えた。

その声を一生忘れまいと心に決めた。今だって、目を閉じればすぐに思い出せる。枷のように、福音のように。

 

これは、これの続編です

https://iriwopposite.hatenablog.com/entry/2019/06/19/003507

 


あいつはすごいんだぜ。あいつはすごいんだ。遠くで子供が大きな声を上げた。
満開のツツジにさえぎられて、少年の顔は見えなかった。
声は純粋な称賛だった。いいんだ、それでいい。人のことを貶すより、褒められた方がいい。悪いところを見るより、いいところを見た方がいい。そんなのは机上の空論だ。でも、言葉は人を動かすのだ。空論が空を飛ぶのなら、その色はきっと、青い方がいい。

 

あなたは、自分が思っているよりずっとすごいのに。


いつしか、夜に特別な意味などなくなっていた。

風呂上がりにアイスを食べた次の朝も、会社に行かないといけない。
桜が散ったからといって、仕事が減るわけではない。
徐々に日は短くなっていき、コートをおろした。自分を守るために周囲に頭を下げる。寝て、起きて、満員電車に乗る。
桜が散っても、セミが鳴きだしても、生活は続いていく。いつコートを脱いだかも忘れているうちに、次の冬が来る。

人生に特別な意味など、最初からなかった。それでもやっていかないといけない。やっていかないといけない僕のために、やっていけなかった全ての僕の墓標が立ち並ぶ。

 

人生に特別な意味などないのだから、もう、誰のことも馬鹿にできなかった。

 

 ずっと喪失の話をしてきた。喪失から逃げないための話を。
その実、失うのは簡単だ。簡単というより、わかりやすいといった方がいい。なぜって失ったときのことばかり、人は覚えているからだ。喪失は人を孤独にする。となりに人がいるときは、ひとつも思わなかったようなことでさえ、失ったあとは思い出すのが、世の常で、世界の法則だ。

喪失は必ず起こる。僕たちは何度だって人と出会い、いつか崩れる砂の城を建て続けるし、今度こそ失うまいと思いながら、同じことを繰り返す。それはひどく愚かで、無価値な行為のように見える。結局は同じように孤独になり、無意味な努力は無意味だったと、嗤う人がいるかもしれない。嗤う人は、自分自身かもしれない。

だけど築き上げるたびに、自分だけは、それが別のものだと知っている。築く相手も、城の形も違うことを、自分だけが知っているのだ。失うことなどとっくにわかっていても、虚勢を張るのだ。まるで怖いことなど何一つないかのように、過去の自分に胸を張る。──失うことに抵抗を失っていくことより、怖いことなどあってたまるか。

いいですか、僕の主観です。孤独と虚無に抗っていこう。そういう話だ。

それは他人を、馬鹿にしないことから始まる。難しいことは言っていない。ただ、他人のいいところを探して褒めようという、そういう話を懸命に書こうと思う。

 

人を馬鹿にしないとは、他者の夢と生き様に、できうる限りの敬意を持つということだ。それがあなたが建て続ける砂の城に、何度だって色褪せない、唯一無二の輝きを与えてくれる。

 

他人のいいところを意識して探すようになったのは大学に入ってからだと思う。

知らない人間と話す機会が増えるなかで、これは悪いところ探すよりいいところ探した方が健康にいいなと思った。逃げるのもありだったが、人と全く関わらずにこの先生きていくことはできないとわかっていた。(逃げれるところまで逃げるのもありだとは思うけれど、凡人はどこかで社会に追い付かれてしまいます)感じのいいやつの真似をするのは凡人にとって決して悪いことではない。流行りものには流行るだけの理由があり、それを馬鹿にするのはやめたほうがいい。形から入った心構えだって、続ければいつかは板についてくる。

 

人と仲良くするのに最も楽で効果的なのは、とにかく褒めることだ。褒めるのはタダで、金も要らない。かといって、嘘をつくのは苦手だった。人に気に入られるためにわざわざ嘘をつくほどの意欲も、調子のよさも持ち合わせていなかった。

そうすると、人のいいところを探す必要がある。人気者のような、そういうのが本当に上手なやつは、ぜんぜん意識してやってはいない。ときに適当に、ときに感覚で人の欠点や美点を見つけ出し、上手に場を料理してみせる。しかたがない、ぜんぜん人付き合いが得意ではないから、一生懸命他人のいいところを探した。いいところってなんなんだそもそも。自分にとって好ましいところだとすれば、それは他人に向き合うと言うよりは自分との腹の探りあいだった。なんだかわからないが、そういうものを伝える、言葉にするのはどうやら比較的得意なほうらしかった。なるほど、得手不得手というのはわからないものだ。面白いほどにみんな自分のいいところに無自覚で、それが腹立たしくておかしかった。

 

意味があるとは思わなかった。人のいいところをいくつ見つけたところで自分が立派な人間になれるわけではない。

なんとなく、人の悪口を言うだけのダサい人間にはなりたくないなというくらいの気持ちだった。

でもまわりの人を認められると、世界が明るくなった。周囲の人間を敬意をもって認めるということは、拡張した自分自身の世界を受け入れることに繋がるのだと、知った。

 

人を知るというのは、自分自身を知ることだ。

 

思えば小さいころあまり褒められた記憶がない。大切なのは結果ではなく過程だという、教育方針だった。さらにいえば、適切な努力を積んでいれば結果も出るはずだと、そういう理窟なので、結果のでない努力は努力ではなかったし、結果が出る頃には努力フェーズは終っているので、とくに誉められるタイミングというものがなかった。とはいえまあ今となっては親の言い分もよく分かるし感謝しており、正直ガキを調子に乗らせていいことはあまりない。とくに俺なんか調子に乗りやすいガキなので下手におだてりゃ手のつけられない傲慢なクソガキになっていたことだろう。都内には学習塾に通って多少計算速度が上がったことで調子に乗ってしまうガキというカテゴリが存在するのだ。他山の石はちらほら見ていたから、重々気を付けていた。小学校はイジメもはびこっていたし、窓ガラスもよく割れた。出る杭がこの世界でどのような扱いを受けるのか、学ぶに十分なものだった。

 

だけど妙なのだ。俺の知識は虫に詳しい高田くんの足元にも及ばないのに、高田くんのほうがバカだと笑われるのだ。

横断歩道で馬鹿正直に手をあげる朝倉さんのことを俺は好ましく思っていたが、彼女は運動ができないから虐められていた。

 

ああこれは、運なのだ。

はっきりと自覚したのは小学校4年生くらいだったと思う。ファンタジーが好きだったから、魔法が使える使えないも、王族に生まれるのも世界を救う勇者になるのも、運命だと知っていた。現実だって同じだと気づいたとき、最悪だと思った。どこまで考えたかはもう覚えていないが、とにかく悲しかったのだけ覚えている。世界はあるようにあるだけで、そこで生きる人たちはだれも平等ではないのだとわかった。そう考えると理不尽の都合がついたし、そうじゃないと説明がつかなかった。突き詰めれば努力できるかどうかも運なのだから、過剰に自分の努力を誇ってはいけないし、同時に謙遜しすぎるのも他人に失礼だと思うようになった。なにかができる環境にいて、適切な努力を踏めば、ある程度のことは達成できる。自分を嫌うのも、他人を嫌うのもナンセンスだと思った。そんな世界のことは、大嫌いだった。

 

もう少し成長すると、もっと色々な人に出会う。

恵まれた環境にいるのになんの努力もしない人、その逆もしかりだ。自分だってなにかしら頑張ったりした経験ができてくる。全部が全部運だったら、今ここにいる自分は救われないだろうと、そう思ったのが10代後半か。

成功は努力からしか生まれない。その努力はほとんどが孤独から生まれ、多くはただ、自分が自分でいるために努力をするのだ。そういう、当たり前のことに気づく。環境と運を超えた先に、個人の意思が必要であることを、ようやく認められるようになる。

そのころまで、できるやつは畢竟できるからやっているんであって、それを褒めたりするのはナンセンスだと思っていた。結果に対してすごいね、という称賛はもちろんあるけれど、やろうと決めたことを、やったということでしかないと、そういう考え方があった。それは一面では正しいが、正解ではなかった。環境は世界の領分だ。でも、意思は個人の領分なのだ。もちろん環境によってできたものの見方というものはある。それでも、意思は環境よりもずっと、個人で変えられるものだ。

 

あなたは、自分が思っているよりずっとすごいのだ。

 

そして人を褒められる人間になろうと決めた。

人間は自分の好きなことや得意なことが、ぜんぜん自分ではわかってないんだと気づくようになった。

そのころだ。あなたのお陰で頑張れたという、声を聞くようになった。

それは身近な人間から、ネット上で知り合った人までさまざまだった。自分は大したことをしたつもりは毛頭なかったのに、結果的にすごい業績をあげるような人から、あのときの声で~という話を聞いた。そういう話は得てして忘れた頃にやってきて、そのたびに嬉しい驚きとして心に残った。

人を褒め、他者の夢と生き様に、できうる限りの敬意を払うということ、これが喪失による孤独と虚無に、抗うための手段だった。変容する価値観と、繰り返す出会いと別れのなかに、小さな祈りだけが厳然と屹立するのがわかった。それは運と環境がつくる世界にあらがって、最初から出会わ無ければ良かったという声を、何遍だって否定する。だってそうだろ?人生に特別な意味など無くたって、自分だけの大切な出会いを無かったことにしていいはずがない。

 

とどのつまり、自分を形作るのは自分であると同時に、あの日あの時の他者の声なのだ。ときにそれが意思決定の大きなきっかけにすらなり、胸のなかで生き続ける。

こんな自己満足なブログひとつとったって、続けられているのは結局、他人が褒めてくれたからというのは大きい。いつかのだれかがこれを読んで、何かが変わるかもしれない。もしくはそのだれかは、未来の自分かもしれない。

 

努力は孤独のなかに存在する。これは真理で、なにも行動しない人間がなにかを成すことはありえない。環境は大きすぎる決定要因として機能する。でもそれは、個人の意思を否定することには繋がらない。

そして言葉は人を動かすのだ。あなたを肯定してくれた人の声が、いつかあなたをあなたにするのだ。

 

どうしようもなく生きていくのだ。

やっていくというのが、やっていくしかないというのがどういうことか、そういう話をしている。

だから当たり前の話を何度だって、繰り返す。

桜が咲いて散るように、君が生きて、死ぬまでに何度となく、繰り返されるすべてのように。

──そしていつか、繰り返す祈りが円ではなく、螺旋なのだと気づくのだ。

 

 


あなたは、いつだって、自分が思っているよりずっとすごいのだ。