ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

頑張るのすら言い訳が必要だからな

やろう。
やりましょう。
気になるものを見て、薦められたことに取り組み、そのうえで更に自分の好きを探そう。

できないことが増えていく。ライフステージの変化と見せかけて、実際は全然そんなことないと思う。

しかしどうしても本が読めないんですとか、薬のせいで起きれないんですとか、そう言われると返す言葉も無いので強い言葉はどんどん使えなくなっていく。
世界は努力を隠す方向に動いている。努力は暴力的だからだ。暴力的なものは怖いし、それにそもそも全然自分の力じゃないものを勘違いしているケースも多いからだ。
だが、努力をしなくていいという世論になっているというのは、その実で分断を産んでいるに過ぎない。
努力をする人間の一部は生まれながらにして努力をするし、一定以上のラインを超えると、そこには信じられない努力をする人間しかいない。
凡人がその頂に達することができないのは構わない。でも頂を見なかったことにしていいと言うのとは違うと思う。努力できない自分を認められない弱さに、向き合わないままではいけない。
黙って笑われる勇気が無いのは、駄目だ。いや、別に努力する人間は下を見ることも無いので、実際は笑われていると思い込んでいるのはやらない人間だけだけど…。
とにかく、やり方次第のやり方の部分を、しっかりやっていこうよ、という話をしないと。しないと自分が狂ってしまう。

一億総精神疾患時代。睡眠薬なんか猫も杓子も飲んでいる。
寝れない、本が読めない、起きれない、ゲームがクリアできない、家事ができない、できないことは個々の疾患と個性に紐づけられて、冒されない聖域として説明がついている。
私たち(健常者)は、彼らに常に末に寄り添い続ける必要がある。何かができない人間をバカにしないことが求められている。本質的に寄り添わなければならない。
それは必要なことだ。人間を、人間として認知し続けるために。人権は守りたい顔をしていないが、守りたい顔をしていないということ忘れてしまうよりは、まだ見つめたほうがいいだろう。心の破綻しない距離で。
それは過酷なことだ。あえて、過酷なことであると言い切ろう。
狂っている人の不安や苦しみ、無い焦燥感や無い孤独と、それをあるものだと心から信じて寄り添おうとする姿勢を持とうとすることの、どちらが苦しいかなんて、比べられるものではない。
ある種の脅迫観念もあると思う。すぐ間違えてしまう。間違えたいと思う。全人類にワンピースを全巻読んでいてほしいと思ってしまう。ワンピースを全巻読んでいない人間がのうのうと息をしていることが信じられない、怖い、理解しがたい、おかしい。
そんなの、変だよ。変な人だ。線引きをしたいと思ってしまう。すぐに逃げてしまう。これを逃げだと思うのはおかしいだろうか?今おれは精神疾患の話を理解しにくいもの一般とごちゃ混ぜにして話した。

俺にはおれのスタンスがあり、それはけっして当然のものでも楽にできることでもない、ということを、己のために書いておこう。
寄り添う必要のないマイノリティに寄り添って自分が狂う必要は一切ない。この辺はマジョリティとして声を大にして言いたいが、できないお前らに寄り添うことのメリットは、万に一つもない。
だとしたらなぜ、関わるのか。やっぱり、それが人間だということだからだとしか言えない。業の肯定、という言葉をこんな場面で使うのは全方位に失礼だろうか。しかし業だろう。
普通に生きるということの異常性は、普通に生きられない人間によって明確になる。ときには、その差を見極めることが、人とは何か、ひいてはグラデーションの中間にいる自分自身を考える契機にもなる。ダブスタへの開き直り。20歳の俺には無かったものかもしれない。
当然マイノリティは怒り狂うべきで、暴力などを用いて徹底的に立ち向かうべきだ。そのなかで、共存だの、妥協だのと言った言葉が生まれてくるのであり、しっかりとマジョリティを腐し続けるべきだ。

ここまで、言い訳を固めた。
何の話か?つまり、御託は良いから好きなことを一個ずつ消化していけという話です。そこに固有の事情なんか関係ない。躁鬱だろうが、バキバキのツーブロックだろうが、同じように扱うべき時がある。
これだけの言い訳をしないと、本を読みたかったら読めよバカ、という一言すら出せない。気を遣っている。
いいですか、これはおれの主観です。


朝起きることができるのは、決して簡単なことではないのだ。
本だって放置していれば放置したままになってしまう。仕事は強制されるから何とかやれている。

それでも、本を読むのだ。


ただでさえ普通に生きていても徐々に気力がなくなっていくアラサー。気軽にご飯を食べすぎることもできやしない。
労働は苦しい。残業は嫌だし、時間が純粋に削られていく。それでもだよ。やろう。やりましょう。本を読もう。漫画を読もう。
知らない世界へ出かけよう。
趣味というのは休みではない。ゆっくり休んで、好きなことでもして。という時、果たしてゲームが仕事より疲れないかというと微妙だろう。
好きなことをやるにも体力がいる、こんなことすらわかっていない人も多いと思う。
それでもやろう。できるだろ?やってみよう。やりたいことがたまっていて何もできない?まずは一番上に積んだそれを、やってみよう。


自分の管理がへたで、運動神経が悪いと、体力の要る活動はやりにくい。でもやろう。運動神経というのは、呼吸の仕方や、姿勢の話だ。体調が悪くなるタイミングを把握しろ。
自分が右側に体重をかけて歩くなら、気持ち左にかしいでいるくらいの心で歩いてみよう。けっこうこのあたりがダメな人は多く、自分のバランスが悪い時に「バランスが悪いんだ!」と自覚すれば治るかの如く考えていることが多い。
実際のところ、自覚はたいして役に立たない。結果というか、行動の後ろから初めて過去の自覚というのはついて来ることが多い。というか、自覚と同時にさまざまなことを治せる人間は全般的にバランスが良いやつだろう。
やろう。自分にとってどの出力がどれだけ続けば倒れるのか、それを感覚で把握できないなら活動を記録しろ。記録が上手にできないなら、できる仕方を考えろ。やる気で何かができるのは天才だけだ。客観的に、機械的に、分析しろ。

それをしないのを、努力が足りてないというんだ。

できないならやり口を考えろ。考えろ、考えろ、考えろ、考えろ。
これでいいと割り切る、これ以上はダメだを把握するのは、才能ではない。努力が足りていないだけだ。これは伸ばせるものだ。
自分一人ではできないなら誰かに言って管理してもらえ!褒めてもらえ!叱ってもらえ!環境の整備は、まぎれもない工夫だ。
考え抜いて、相談をして、全力でやれ。気合で何かができるのは天才だけだ。何かができないと思ったことがあるのなら、あなたはすでに天才ではない。そして天才でないのであれば、前を向ける余地がある。

深呼吸をしろ。

趣味?趣味というのは、全力でやらないとできなくなるものだ。人は社会的な生き物だから、強制されずに、誰かを介さずに何かをすることは本来極めて難しいのだ。だから、真剣に、適切な努力をする必要がある。
したほうがいい?しなければいけない。なんとなくで楽しめるほど、趣味は簡単なものではない。そうしないと、一生ツイッターをだらだら見ているだけになる。それが嫌だと思うなら、自分にとっての取り組み方を考えないといけない。
考えないといけないんだよ。

多くの人の何かができなくなった、は、諦めと納得だろう。やりたいけどできなかった、それなら本当にやりたかったわけではないんだろう、出来なくても仕方ないんだろう。そういう大人の妥協だろう。
本当にそうか?本当の本当に、そう信じて、確信をもってやらなかったのかよ。

何かに取り組んだ結果が無い人間は、できないことへの諦めが早い。信じろ。できないのはやり方が悪い。信じろ。いつだってお前は、お前が思っているよりすごい。小さな、小さな一歩から進め。

大丈夫、大丈夫だ。一歩足が出たら、十歩足を出すだけだ。十歩足を出せたなら、遥か先まで行ける。


必ず行ける。