ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

多様性チャレンジ_20220921

 

他人と喋ることで、得られるものは多い。ありがたいことだ。本当に。

できるだけそのときの感覚を正直に書いて、定期的にアウトプットできたらいいな~とおもう。

 

ワンピースの映画を観た

 

スピンオフ映画特有の全員に見せ場を作る演出や、プロット上都合のいい能力を持つ端役が急に出てくるやつとか苦手なんだけど、それを余りあってAdoが強いのと、ウタの演技がメチャクチャよかった。

 

端的に言うとウタがエッチだったので全部オッケーになった。

 

ワンピースFilmREDにはワンピースをほとんど読んでいない人間も観に来ていて、そういう人たちは何を感じるんだろうと思った。そこから原作を読む人が一人でもいれば成功なのかもしれないし、そもそも原作を読んでいない人が映画なら観に行こうと思うような力を持っている時点で作品が勝っているなーって思った。

 

知り合いに序の序しか読んでなくて何一つわかっていないままカイドウ以降の本誌を追ってツイッターの漫画オタクの言を読むのを楽しいと言い放つ狂人がいるんだけど、本当に怖い。少なくない層なのかもしれないけれど、俺は自分の友達にそのような人間が極めて少ないので怖くて怖くて仕方がない。

 

漫画を途中から読むとか、最新刊だけ買うとか全然わからないけど、これは高速化する世界で普遍化していくようにも思う。
物語を摂取することについて、大きな認識の相違がある。非常に断片的になんとなく脳に刺激を与えるためのものとして消費する層がいる。洋楽のサビだけ聴くとかに近い?バラエティ番組と同じ速度感で積み重ねられた世界を消費するという概念がある。

俺はそれを殺人と同等の、尊厳への冒涜だと強く思うけれど、この感覚はおかしいのだろうか。今こうやって書いていて初めて自覚したけれど、俺はこれを犯罪だと認識しているみたいで、だからこんなにもやもやするんだね。

 

しかし、そういう形でしか物語と向き合えない層もあるということに、思いを馳せる必要もある。(※1)文章が読める人は文章が読めないことに理解が及ばない。そして文章が読めることと物語が読めることにも、小さくて深い谷がある。
最近になって、国語の授業で論説文と物語文が分けられていることには結構意味があるのかもなと思った。俺にとっては水を飲むかコーヒーを飲むかの違いでしかなくても、カフェインが無理な人には一方は毒薬だ。

また、強度のある作品は切り取られた断片ですら十分なパワーを持つこともある。多くの、本当に多くの人が、煉獄さんと炭治郎のことしか名前知らないのに鬼滅は素晴らしい作品だと確信に満ちた口調で言っている。彼らは炭治郎が生殺与奪の権を誰に握らせようとしたかすら、知らない。

 

物語を読まずに十分生きていける人。物語を読めないまま現実ですり減る人。
最近はこれを考えていて、体調が悪かった。

 

俺は本もゲームも映画も漫画も、どの媒体であれ物語を理解し、楽しめる(と思う)
敢えて言えば邦画は苦手だけど食べれないこともないし味付け次第ではおいしくも感じる。画面酔いもしないから3Dゲームを何時間もやれる。
恵まれている。それはそうとしてできればそういう人としか付き合いたくない。できることなら。全く、ままならない。


(※1)…もちろん、物語が読めても途中からしか読まない人もいる。俺たちは誰一人分かり合うことはできない。

 

異国日記の話を人とした

 

上手な漫画だーと思い、思った。んだけど、たまたま複数人と意見を交わせる機会があってとてもためになった。


俺は作品に対して、「私の言いたかったことを代弁してくれて感動した、これは私のための物語だ」というタイプの受け入れ方が、あんまり無いな、と思った。

なんなら上手いこと言われるとムカつくかもしれない。それは俺が自分で見つけたかった言葉だと思うかもしれない。テスト勉強で人のノートを見ることは欠片も気にしなかったのに、自分の感情、感性を他者に説明されると、たとえそれが当たっていたとしてもまず先に悔しさが先行するような気がする。

あるいは、孤独に興味が無いのかもしれない。槇尾さんの言葉は常時そうだよね、としか思わなかったし、他の人々の気づきは他の人々の気づきでしかなくて、ああ、わかった。俺はあの手の作品に対して、他人の私生活をのぞき見しているような、悪いことをしているような気分の悪さがあるのだ。

 

さらに言えば、内心を常に詩的な言葉で独白している奴と仲良くなりたくない、という気持ちもちょっとあるかもしれない。
このように俺は内省が得意だけど、内省って時間のある暇人のやる高等遊戯だろみたいなコンプレックスがある。本当にすごい人って、ただ淡々とdoだけを進めていく印象がありませんか?あるんだよ。自分がそう思うからこそ、作品における現実での動きと内心描写のバランスは結構気になるのかも。


葬送のフリーレンが好きなのは、お互いに確かめたり、自分の中で言葉で納得させないからかもしれない。

星野源の「意味なんてないさ暮らしがあるだけ」というフレーズも妙に好きなんだけど、このあたりの感情をまとめて言ってくれているような気がする。不思議なことに歌だと自分もこういう共感は働くのだ。キャラクターへの寄り添い方が違うのだろうと思う。キャラクターが何かを言った場合、その背後の作者と、物語全体の方向性について絶対に意識してしまうから、「このキャラって私だ」というタイプの読み方をしたことが一度もない。

また、感情に名前をつけるのはダサいと思う一方で、説明のつかない感情、みたいなものも正直よくわかっていない。
自分の心に対して、言葉にしようという努力を他人はそんなにしないんだよ、という話だったら、そうなのかもしれない。俺は自分が思っている以上に自分の心に興味津々で、たまたま比較的違和感なく説明できていることが多いのかもしれない。純粋に鈍感なのかもしれない。

 

槇尾さんがヘテロの女性だから笠松くんを許せるんだよという話についてはまた今度しようね。