ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

竿竹で星を打てると、氷を叩いて火を求められると

 

 秋になる。夏の話をずっとしている。いや、夏なんて季節があったのかさえすぐにわからなくなってしまう。たまたま少し暑い日に、そういえば少し前にもこんな日があったような、くらいの気持ちになって、それを思い出すこともできずにベッドに倒れ伏すような日々を送っている。ずっと春のような気持ちで夏を越え……春?冬の間違いなんじゃないのか?’お前はその間、自分の感性を変えようとしたことがあったのか?’
さあ。それを知りたくて書いてんだよ。


 数か月前の話だ。反ワクチン派の人とSNSで出会ってしまい、いろいろと話した。
イベルメクチンは効果があるとは言えない。もちろん、効果が無いかどうかはまだわからない。
ワクチン打って死ぬ人も報道されたりしているが、治験の数が何百万人といて、たくさんの専門家が認めたエビデンスがある。交通事故にあうのと大して変わらんなら、なんもしないでかかるよりは打っといたほうがいい。何十年後かに実は…みたいな話が出てくると怖い、くらいの話になってくると揺らいでくるけど、少なくとも今コロナに対して確実に効果があるものであるのは事実だ。

まあ誰とも一切会話せず家から一歩も出ないなら別になにしようが構わないと思うし、若者の重症化がどうとか言ったとこで大して死んでないし、全般的にジジイの余命が学生の数年間に匹敵する輝きをもつとは思ってないし、近所の焼き鳥屋が潰れたとき自粛とかしてる奴は全員クソだと思った。そもそも病弱自慢をすると38℃は稼働可能範囲だし、なんかインフルエンザかかったことないみたいなそれだけで何百万円分人生得してるくせに自分の幸運に無自覚な人たちが比較的平等に死を意識して怯えてるのウケるから全然コロナやっててくれみたいな屈折した気持ちもある。(これは豆なんですが、普段健康な奴らって意外とちょっとの熱ですぐ動けなくなるんすよ、不良状態の身体の動かし方には”コツ”があるから(みっともないのでもうこの話はしません))


 だから、そこから先は信条の問題だと思うんですよ。「俺は絶対かからねえ」って思うならワクチン打たないのも仕方ないし、高齢の親が家にいて、リスクを取りたくないなら自粛をしっかりするのもそれは頑張らなきゃねという話だからよくて、ここまでのリスクは許容する、という線引きができてるなら自由にやればいい。


 問題は、狂った知識で狂った行動になってる場合で。自粛して!って言いながらウレタンマスクしてる学生とか、家族を心底心配しながら、ワクチンだけは受けないように啓蒙活動を行ってる主婦とか、そういうのにどう向き合うのが正解なんだ。

正解は「向き合わない」です。間違いない。理解の及ばない倫理を振りかざす人間にまじめに取り合っていたら自分の気が狂うから。

向き合わないほうがいい。間違った知識を信奉している狂信者とは。向き合わないほうがいい。間違った知識にアクセスしてしまうような情弱とは。向き合わないほうがいい。大半の人間が疑問も持たず取り組んでる事柄に違和感を覚えるような人間とは。皆ができることができない人間とは。自分とは違う人間とは。

 

こうして僕たちはまた、盲目になっていく。欠けた視野を正しい世界と呼んで、存在しない普通を作り出す。

さすがにオリンピック廃止になるでしょって言ってたみんな、元気にしているか。俺のことです。元気だよ。まあオリンピックはさすがに国が悪いだろうけどさあ。
政治がおかしいっていうのはみんな政治はおかしいと思っているので簡単で、頭のおかしいとしか思えない政策をじゃあなんで人が支持しているのかという話になると、途端に目を背けだす。


 夫婦で経営してる定食屋が、命よりも大切な店を売り払うほど追い込まれて、これは誰かの陰謀に巻き込まれているのではないかと"真実"に辿り着くことを誰が責められる。

ふだん息子のお弁当や家族の幸せをぽつぽつと投稿するようなやわらかな主婦アカウントが、ワクチンに関してだけ異常な理解をしていたんだ。やんわりと公的機関の情報にも目を向けてはとオブラート5重くらいにして伝えたら、「考え方は人それぞれですもんね」と返ってきたんだ。悲しかったのは彼女が、「自分の考えを無理に人に押し付けたりしてはいけないし、無知な人を頭ごなしに否定したり、バカにしたりしてはいけない」とわかっている、至って思いやりのある誠実な方だったであろうことが伝わったからだ。誰が責められるよ。

 

 誰が責められるんだよ。

 

 人が努力して身につけた価値感をたとえその努力の方向性がおかしかったとして、それはですね(笑)と鼻で笑いながら否定することの、どこに正義がある。誤った知識を土台にした認知のゆがみに対して、勉強不足とか、ちゃんと調べればわかるはずとかいうのが、どれほど傲慢な指摘なのか、そういう話をしている。価値観のアップデート、本題としてはそう言い換えてもいい。価値観のアップデートという言葉は実現不可能という意味の慣用句としてしか使ったことは無いけれど、タイトルとしてはそのほうがわかりやすかったかもしれない。

でも俺は、氷を叩いて火を求めることを、それがどんなに愚かな行為だとしても、馬鹿にしたくないんだ。

 

この話は、これで終わりだ。

 

 

Ex:余談


 人に話を聞いてもらうにはどうすればいいんだろう。人の話を聞けるようになるには、どうすればいいんだろう。
どうすればもっと優しくなれるんだろう。
ふだん僕たちは権威のある言葉を聞いて、親しい人々の言葉を聞いて、自分の考えを巡らせている。実在する権威のことを信じられないなら、隣にいる人の言うことを信じられなくなってしまったら、どこまで行けばいいんだろう。

ここに至ってすらいつものように僕は、物語を信じている。幼稚なまでに信じている。僕の手が届くきっかけがそこにしかないからだ。もしも僕が、誰かにとって優しい人間ならば、それはこの世界に物語があったからだからだ。何が呪いだ。これは俺に与えられた祝福だ。縋るべきよすがだ。

問題を解決しない無駄な雑談が、今この現実と遠く離れた世界の危機が、僕らとよく似た、どこにもいない人たちが織りなす物語が、心のどこかに入り込んで隙間を広げる可能性を信じてやまない。まったく関係のない言葉が、ふいに狭まった視野に疑問を投げかけるんだ。嘘の世界の物語だから、本当はみんな同じ人間の話だとわかるんだ。その奇跡を願ってやまない。

 

 ときに、どこにも行けない人のために物語は存在することがある。

遠く遠く、ここではないどこかで、その言葉を信じなくても自分が脅かされることのない場所で、誰かの声を聴いて、景色に触れる、きっとその瞬間のために。