ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

どうしようもなく生きる以上は

 見つけられなかったんだよな、と言いながら子どもが歩いていった。ああ、見つからなかったんだなと思いながらその横を通り過ぎた。もう春はとっくに終わるし、夏も近い。

 

喪失を確信する瞬間というものがある。

 

散りゆく桜、蝉時雨、手放した日記、シャッターの鳴り響く瞬間。

 

この思い出はいつか失われるだろうという予感は、いつだって背後に迫っている。

喪失に気づかない場合もある。気がついたら過去の自分が持っていた気持ちを忘れていたり、大切にしていたものをなんとも思わなくなっているということがある。長く生きれば生きただけ、ますますこうした経験が増えていく。俺が積み重ねたものを、俺は思いのほか早いペースで忘れていく。

 

もう長い間、人間関係をやっていくための備忘録を書いている。長いこと、ほとんど同じようなことを考えて、言葉を探して、少しでも近づこうとしている。何に、何にだろうか。知らねえよ。知ってたら文章なんて書くかよ。

いいですか、主観です。


変容といかに付き合っていくか、そういう話です。

 

関係性と喪失の中で自我はアップデートされていく。それを成長と呼ぶのは簡単だ。理屈をつけるのは簡単で、簡単だからやめたほうがいい。

 

なにかを失うのは、多分悲しいことだ。喪失は喪失だ。失うことに意味なんてあってはいけない。でも出会いという瞬間がすでに別れを包摂しているように、時間と感情はいつだって決然と喪失を約束している。

それまでに持っていた価値観は変容し、失われたものは二度と返ってこない。主観の拡張は際限なく行われ、すえにはもう元にはもどらない。

 

それとどう向き合っていくか、そういう話をずっとしている。

 

 なにひとつ捨てずに進める人が居るんじゃないかと思っていた時期もあった。中学生ぐらいまでは、そういうものになりたかった。自分には無理だとわかったあともなお、どこかにまだ探していた。しっかりとした自己が、自分にはない輝きが、永続的な人間性をもった人がいるはずだと思っていた。こんなふうに書くと仰々しいけれど、そういった、存在しないものを探してる人はすくなくないと思う。見つからないことに憤ったり、見つけたものの背中だけを見て、それが青い鳥だと信じ込んだまま過ごしていたりする。自分に自信がない人間ほどそこに信仰を見いだしがちだし、自分に自信がある人だって、その完璧さを信じて疑わない例をいくつも見てきた。信仰をもっている自分を信じたい人、あるいは、それを信仰と呼ぶことを頑なに否定する人もいた。

他者のなかに自分にはない輝きを見つけだすことは、人間にとっての救いだ。関係性のなかでしか生きられない生物に与えられた、数少ない美しい力だと思う。それが目標になったり、支えになるのはすばらしいことだ。しかしそれは、信仰にしてはいけないものだ。遠いスーパースターならともかく、近い付き合いの人間とは。さいころの1面を見て、その他の5面を無視するような人付き合いをしてはいけない。他人の多面性に、自分の願望に似た一面を押し付けて絶対性を確信するような、そういうコミュニケーションは、ろくな末路を迎えない。まあ、そんなことは当人にはわからないし、わかっているならぜんぶわかっていてもやるんだろう。やるしかないんだろう。

 こう、書いておけば、誰も敵にまわさずにすむんだろう。できうる限りの多様性への配慮と再三の細心の注意のもとに、ぼくは文章を書いてきた。だけど、そこで満足しているすべてを、許さないことからしか始まらない話というものがある。そう、わかっているならやらざるをえなかったとしてもやめろ。できなくてもやれるだけやれ。できるできないの話じゃないのは知ってんだよ。それでも努力をしろ。厭世をやめろ。諦めて悟ったような顔をするんじゃねえよ。無理なら無理で、無理なりの策を見つけてみせろ。やっていくというのは、やっていくしかないというのは、やっていくしかないというのが、どれだけの重さを持っているのか。

 

そういう話を、している。

 

 結局のところ、人間は神様ではないのだ。誰かにとって、完璧な人間なんてものは存在しない。してはいけない。言葉で言うのは簡単だけど、それをほんとに本心から思えるようになるまでには、ずいぶんな時間が必要だった。言葉で言うのは簡単だけどぜんぜんできないことというのが、毎年のように増えていく。昔はそれがないほうが強い人間で、優れた存在だと思っていたけれど、そんな単純な話じゃないから最悪だ。

笑ってる場合じゃない。

笑ってる場合じゃねえだろうが。

 

 喪失への向き合いかたはいくつもある。

美化して衝撃をやわらげる人もいる。自分の世界からその事実やそのときの感傷を消失させることで、心を守ろうとする人もいる。すこしうらやましいし、非難されることだとも思わない。僕はしかたがないから、言葉を探さないといけない。伝える言葉を、伝わるように探すのは途方もないエネルギーを必要とする。そこから目をそむけるのはときに正解で、大人で、賢い動きだ。合わない人に合わせないことがもてはやされる時代だ。シャットアウトして、リセットするのが合理的なのもわかるし、必要な場面もある。犯罪なんかわかりやすいけれど、関係性にはマジでどうしようもないものもあり、そういったときのロールバック手段は身につけないといけない。だからすべてはケースバイケースで、だけど個人のそれは画一的な処理になる。その加減がいちいちやってられないから、喪失は前向きに扱われるんだろう。いつかもっと疲れてしまったときに、自分もそうなるんだろうということを一番知っているのは自分だから、なにも否定することができずに人の話を聞いている。文章を書いている。

ゆるやかなフェードアウトや笑顔の別れは、出会いや決裂よりはるかに難しい。たくさんの喪失を凌ぐために、人はパターン的に感情の処理の仕方を学んでいく。それを悪いと言うのは、無知か傲慢、あるいはその両方だ。どうしようもなく生きているのだ。生きているから時間が進み、時間が進むから他者と関わる可能性が高まり、何かを獲得し、そして何かを失う。繰り返すばかりだ。だけどその繰り返しはいつだって新しく、同じものなどどこにもない。だからこれから先もずっと積み重なるものに、いかに向き合ってきたか、なにが自分をつくりあげ、今に至るのか、そういったものを大切にしないといけない。喪失の先に意味がうまれることはあっても、それ自体に価値はない。喪失を客観視できない人間ほど、そこから目を背けて逃げようとする人ほど、皮肉なことになんども同じような関係性をつくっては壊しているようにみえる。過去に縛られないことと、過去を振り返らないことは別だ。ぼくはその断絶を自分に許せない。まあ、運が良かっただけだと言われればそれまでだし、その程度の話だ。でも対話を、人間を、諦めなくてよかったと思うことはけっこう多い。

 

 

 じゃあ変容はどう扱っていくべきかというと、これが難しくて、一概にいい悪いじゃないから困ってしまう。価値観の更新は多層的なもので、上書き保存されるものではない。継承され、拡張されたどうしようもないものの積み重ねからしか、他者への寛容や共感は生まれ得ないような気が最近はしている。そのへんはどうしても、どれだけ人と関わってきたか、またどれだけそのことを考えてきたかが大きいんじゃないかと思わざるを得ない面がある。学術でも物語でもいろんな視点は得られるけど、僕たちの世界は狭くて不公平だから、一般論なんてどこにでもあってどこにもない。身も蓋もないことを言うと、不思議なアメでレベル上げするより戦闘で経験値をあげたほうがましだという話だ。ケースを詰め込んだコンサルの助言が役に立たないのと同じで、教科書の言葉は正しくて正しいだけだ。一枚の価値観が強固なのは悪いことだと一概には言えないが、一度それが崩れたときの建て直しが大変そうだと思う。ただ人間なんてまさに文字通りソシャゲのガチャなので、会う人をミスると破滅する危険性もあり、必ずしも誰かのレベル上げ方法が他の人にあてはまるわけでもない。どんな人とも聖人君子のようにわけへだてなく接しろなんて話はしていない。自分が壊れないことがなにより大切だ。そのために逃げる、諦める、休むことを、だれも非難することはできない。

 

多様性なんてものは知らないで生きていけたほうが間違いなく幸福だ。

 

 なのにそれでもこの話をする。関係とやっていきの話を、何度も何度も繰り返す。馬鹿みたいで、笑えないほどどうしようもなく。だってほとんどの人間は人と作用しあうことなく生きることはできなくて、誰とも出会わず、または出会ったすべてと別れることなく、空間や時間の壁に阻まれることないまま、生きていくことは不可能なのだ。

 

諦めることから始まる物語は確かにあるんだ。それを否認するのは簡単で、簡単だからやめたほうがいい。

 

他人の純粋な正義感やとがった自意識を見るたびにそれをなんとなくきれいだと思ってしまうのは、やっぱりどこかに憧れがあるからなのだろう。もしくは、いつかどこかでそれが失われる予感に、感傷を覚えるのかもしれない。

当然のように俺だって、誰かからはそう思われてるんだろう。

多様性チャレンジとは、透明人間になることと紙一重だ。そこに色がついて、はじめて個性は生まれる。多様性チャレンジとは辞書になることだ。辞書はみんなに平等で、でも愛されることはない。辞書をふまえて、漏れ出た言葉から、物語は生まれる。辞書は当然下地にあって、そこから個人が言葉を選び、世界を記述するなかにその人だけの魅力が立ち現れる。好きや嫌いは理不尽で、大事なのはその理不尽さに、どこまで自覚的になれるか、そういうことだと思う。

 

なにかを思い出すというのは美しい罰で、忘れるというのはきっと、悲惨な赦しなんだろう。

 

 関係性に永遠はなく、連続する瞬間だけを頼りに僕たちは時を進むしかない。それは砂でできた小さな城だ。砂漠のなかにぽつんぽつんと、建っている自分だけの城だ。たえず水を加えて、形を整えなければ次の日には崩れて消えてしまうような、もろくて儚い、小さな城だ。だけどそれでも、初めて城が出来たとき、僕らは確かにうれしかっただろう。あるいは失ったとき、それが大事だったことに気づいたかもしれない。友だち、恋人、両親、クラスメイト、上司、部下、長く生きれば生きるほど、砂の城は増えていく。長く生きれば生きるほど、その城がどうしようもない理由で崩れてしまうことに僕らは気づいていく。それでも城を建てることを、僕たちは諦めることができない。だからせめてと僕らは願うんだろう。嵐がくるまでは、無くならないように、壊されないようにと。

いつか忘れてしまうから、その瞬間は偉大なんだ。瞬間を瞬間で終わらせないためには、血反吐にまみれて努力しなければならない。そして断ち切るべき関係性なら、条件反射や思考停止のそれではなく、今後自分の周りにより美しい城が立ち並ぶように全力を尽くさなければいけない。人間なんてすぐに死ぬんだ。短い人生のさらに短いひとつの関係性と喪失に、なんとなくなんてことがあっていいはずがない。

 

 どうしようもなく変容する価値観を、どうしようもないなと思わないで考え抜くことだ。やっていくしかないんだ。失った関係性の失った意味、今ある関係性が今そこにある価値を、そういうもんだと思わないで考え抜くことだ。やっていくしかないんだぞ。

わかってんのか、わかってんだろ。