ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

筋が通せないやつを、許したいという難しさの話

 

表題の通りだよ。以上。

 

 

最近は労働をして、ネトフリで映画を観て、物語を考えて書いてみるみたいな日々を過ごしています。ゲーム?まあお前よりはしてるよ。たぶん。

 

 これは労働がどんどん忙しくなってくると人にやさしくできなくなっていくぜという話です。つらい話だ。

 

私も一般企業末端構成員として数年働き、労働への解像度も上がってきました。


ここでいう忙しくなってくるというのは、Aの仕事が徹夜しないとマズイとかいうことではなくて、AとBとCの仕事をそれぞれaさんとbさんとcさんに話していて、dの部署とも調整しないといけないけどeさんに先に話をしたほうがいいとかそういうのがどんどん立て込むということです。
このあたりが業種にもよると思いますがバイトと正社員の最大の違いという気がしますね。
少なくとも自分は学生の時には実感として認識できていなかったと思います。


忙しいが自分だけの忙しいでいいのか、他人を巻き込むのか、つまるところ責任というやつです。
学生のバイト7連勤の辛さとは軸を異にしますね。

 

自分のミスが、全然関係ない遥かかなたの誰かに迷惑をかけるというのは考えるだに凄いことだけど、組織労働というのはそれを構造として孕んでいる。「筋を通せ」と上司がキレる、とか言ってグダグダ泣いてるやつがカスだというのは、仕事をするというのはそもそも筋を通すということだからです。つらい話だ。

 

 こうして働いているとやはり、会社労働というのは本質的に人間の基礎スペックに対する信頼から生まれているというのがよくわかります。期日を守る、言ったことをやる、言われたことを忘れない、急に会社を休まない、それは能力から度外視されたところで、前提となっている。つらい話だ。
理解度とか、発展的なスキルは当然その後で、だから”普通”のことができないやつにできる仕事は無い。Fucking kidding。もちろんあるところにはあるが、外れ値みたいな話をしても仕方ないだろ。当然外れ値の人たちはそれを探さなきゃいけないわけだけど、そんなの俺の知ったことではないよ。

 

筋を通せない人間は人間ではないのだから、当然に処されるべきで、その価値観を内面化しないと自分の仕事が回らない。内面化しすぎるともう、それができない人間のことを許せなくなってしまう。


いいですか、主観です。どこで線を引くかという話をしている。

 


 労働問題とか社会の仕組みに無職が何かを言っていても世間がすべて無視しているのは、そういうことなんだろう。

たとえば僕は自分が浪人とか許してもらえない環境だったというのもあるんですが、
何留もして学部一つ卒業できないのにインターネットのレスバは年表作れるほど詳しいとか、実家の太い配偶者の下で無限の無職生活をエンジョイとか、朝起きれなくて無限に会社に遅刻するやつとかそういうのに厳しい気持ちはある。仕方ない?知らねえよ。

 

知らねえんだよ。お前の事情なんか。

 

でも知らねえよ、を知ろうとするというのが、優しくあるということだと思っている。提出物が出せない、春は起きれない、鬱病で一年何もできなかった。そういう事情を知る、知って、自分の感覚を宥め、その違いに理解を示す。理解して接することで自分の感覚を拡張させて、まあいいかという気持ちになる。それは諦めや拒絶とよく似ていて、でも違うのだ。なんというか、他人に優しくあろうとするというのは、自分の許せなさを許さないということだと思う。そもそもさっきの例だと高卒の人からみたら大学とか行って親のすねをかじってる時点でだいぶ俺も許されがたい存在なんですよね。

おれがなんとなくムカついてしまうのも、それが理性的は間違っていることも、きっちり受け止めて、腹落ちするまで誠実に向き合う努力に、意味がないとは思いたくないのだ。


これを諦めや拒絶と同一視して、自分はそういうのが得意だと言ってる人もよくいるけど、断じて違う。わからない人にはわからないけど、わかろうとしている人間にはわかる。諦めや拒絶は結果的に、出力されるアウトプットのフォーマットが他人を許している形に近いだけだ。低コストで広くカバーできるぶん、得てして優しいねと人に言われたりしていて、本人が一番無自覚だったりする。

 

優しくあろうとするのは、主体的で自覚的な、時に攻撃的でエネルギーが必要な行為だ。

 

 でもそんなこと毎回やってる暇ないし、どこかで人は物事を一般化させないと脳が追い付かなくなってしまう。
今のスタンスは、たとえば上の例なら、資本があるならもう”勝ち”なんだから何をやってもいいよなあ、という感じで、個々の理解までは億劫だからできないけど、自分の中でそれに目くじら立てないようにガワを許す方向にもっていって整合を取っていて。(※1)
でもこれってなんか本質的に資本主義に膝を屈していることになりませんか?というか、これって”諦め”ですよね?つらい話だ。これすごくつらいんですけど。一貫した主張ができていないじゃん。


うるせえよ。人間が一貫した態度であるべきというのは発達に問題がある人々の幻想です。


一個人というより、たぶん集としての前提意識が一貫すべきであるというのが組織労働においては大切なんだろうな。
つまりこれが、「筋を通せ」ということです。


俺に異常性があるとすれば、社会の知らねえよ、をエミュレートしながら、知らねえよで済ませたくないと思っていることなんだろう。
その自我ですら、組織労働の前に毎日おろし金で引きちぎられているから、散逸する前に文章にしているのだろう。


早く自分の理解できない人間のことをバカにしてえよ、普通こうだろ!ってでかい声で叫びたいよ。そういう種族のフィクションの存在だと思って、きっと喋る言葉も違って、肌は青くて、無性生殖で暴力的な存在なんだと思っていたいよ。早く諦めたいんだよ、なあ?

 


そうじゃないから、困ってしまう。

困ってしまうんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※1…何一つ理由なく、普通ができないという可能性から、目を背けてはいけない。ほら、なにも許せないだろ?