だれにもできない偉大なことを成し遂げて、若くして死んだ猫のことを考えていた。
そんな猫がいたらの話だ。
猫は人間を笑うだろうか。
肉がおいしいとかそういうことを大事にして生きているだけじゃダメなのかと聞かれたら、それでいいんだと俺は答える。
そんな質問があればの話だ。
本当にそう思っているのかと聞かれたら、大きな声でうなずくだろう。
ほんとうに、そうおもっているのかと聞かれたら、しばらく黙って、でも首を縦に振るだろう。人は必ずしも本当にそう思ってるからうんというわけではないし、果たしてそれが嘘だというわけでもない。
明日死ねばいいと思いながら今日を生きるライフハックをやらなくてもよくなったのはいつからだっただろうか。
できなかった選択は。選ばれなかった冒険は。けっして、恥ではないのだと。
信じてやれるのは自分だけだ。
労働をしていたら、時間が圧倒的な勢いで過ぎ去っていた。特に感慨もないし、卒業がかかったストレスにさらされ続けながら過ごしていた大学の頃より下手したら心は穏やかだ。やりがいなんてものは最初っから見つかるわけがなく、そういうのをぐだぐだ言うのは馬鹿か、やりたいことと得意なことが一致してる幸運なやつだけだ。
とはいえなるほどこれは生きるので精一杯だ。余裕ができるほど稼いでる人は程度の差はあれ労働時間もそれに準じるし、多少時間がある人は金もない。単価の高い人間は相応の努力をしてきているし、土地持ちでもない限り働きながら何かをするのは難しい。
でも大丈夫だ。
大丈夫だ。
何かを始めるのに遅すぎるということはないという言葉がある。そんなわけないだろう。大人になってから絶対音感は身につかないし、少年少女マンガの主人公に感情移入もできない。取り返しのつかないものがあり、そうやって生きるしかないと気づいたとき、追いつめられたような気分になる。
でも大丈夫だ。その焦燥感は自分だけのものだ。まぎれもない本物だ。
大丈夫だ。
ここまでの人生で無駄なものなんかひとつもあってたまるものか。
ずっとものを創りたかった。
何者かになりたいと思うあれだとずっと思っていた。それでも夢を見てしまうのは、諦められないからだと思っていた。単に目立ちたいだけだったらダサすぎるし、何の才能もない人間がそんなことをしても無駄だろうと。
蓋をあけてみたらなんてことはない、俺は労働をしたところで文章を書いている。性懲りもなくゲームして、落書きをして、作ることから抜け出せずにいる。
これは怯えなんかじゃなかった。縋ってなんかいなかった。文章を書くのはそれを認めてもらうためじゃなかった。他人に文を褒めてもらったとき、うれしかったのは何者かになれたからなんかじゃなかった。俺が、誰かの感情を動かせたことがうれしかった。平凡に淡々と生きている立派な人間が、たまに見て頑張れるようなものを創りたいと思えた。わかってしまえば最初からそうだった。わかってないのはいつも自分だ。
時間がなくて悔しいんだ。
悔しいなら、俺はまだやっていける。そういうことに気づくとき、俺はまたひとつ‘絶対’を手に入れる。幸福の尺度は自分だけのものだ。誰かの夢も、誰かの希望も、こうあるべきだというすべての規定は自分の尺度と違うだろう。だったら今を肯定できるのは自分に他ならない。なにひとつ、焦ることなんてない。
人生の速度は同じじゃない。
できなかった選択も、選ばれなかった冒険も、ぜんぶ自分の幻想で、もしはないし、だってもない。でも大丈夫だ。自分の人生の速度だけが本当だとしても、案外横に人はいる。けっして恥ではないのだと信じてやれるのが自分だけだとしても、けっして恥ではないんだと声をかけてくれる人はいる。
前だけを見て進める人がいる。這いつくばっててもハイハイが異常に早い人もいる。大丈夫だ。そうじゃないことは、なんにも後ろめたいことじゃない。できることしかできないなら、できることだけやるだけだ。それを見ている人がいる。必ずいる。
呼吸ができないのは傲慢だからだ。
明日死んでもいい
明日死んでもいい
明日死んでもいいという感傷を
自分だけが傲慢だと指摘してやれるんだ。
明日の雲は綺麗だろうか、読みたい本は読めただろうか。食べたいものはあるだろうか。道ですれ違った猫はかわいかっただろうか。それだけの些細なものだって、自分だけの‘絶対’だ。それは煌々と世界を照らし、燦々と光り輝く。その‘絶対’はいつだって自分の味方で、ゆえに誰にもその価値を否定させやしない。
人生に意味なんかないんだから、明日死んでもいいわけがない。酒がうまかったらそこに生きる価値はある。死ねない理由が生まれるなら。
あとは地べたを這いずるしかないだろう。もがき苦しむしかないだろう。血反吐を吐くしかないだろう。その道のりだけが真実で、ゆえにそれは、それだけは。
何者かになれない、何者でもない、誰にも真似できない、誰のことも真似できない、どうしようもなくやっていくしかない、ただ、ひたすらに。自分に他ならないのだ。