図南の翼を5年ぶり10回目くらいに読んだのだけど、まだわかっていない。
自分の思う良い人と、相手の思う良い人の定義がずれている状態で、
自分の思う”良い”切り口で他人の行動を解釈してはいけない。
という話をしている物語だ。
と、図南の翼をまとめている人間がいたらボコボコにして捨てるべきなので、今のは全て嘘だ。
優れた物語において、主題を定義することは難しい。
少なくとも、今挙げたのは端っこも端っこ、たまたま今俺が読んで見えた側面に過ぎない。
図南の翼では「自分の理屈で、他人の行動の是非を決めようとするのは意味がない」と断じているが、これはなかなかハードボイルドだと思う。つまり自己満足的な安心は他者理解とは異なる行為であり、お互いの話は前に進まないということを「意味がない」と削ぎ落された言葉で言い表しているわけだ。文章が上手すぎる。
しかし、少なくない数の人にとって、「安心」は「前進」に優先するし、「不明」と「不安」のあいだがゼロ距離の人間も多い。
これは弱さではなく、性質(たち)の問題だ。
また、双方の良かれと思ったことがそれなりにどっちの理屈もわかるときなんか、わかりにくくなる。
例として100個くらい書き並べようかと思ったがめんどくさくなってきたのでやめた。
とにかくなんかその、良さげだと思っていることが、自分が良さげだと思ったことでしかない、というのにいつだって気をつけたいものだ。
──ひいては、他人の言動の背景を考えるときに、自分の得たい答えを探そうとしていないか。
一定の決めつけや、理解した気になること。
これは自分の不安を和らげるために、他人に行う侵害だとすら言える。
この侵害は人が人とコミュニケーションを取る際に、必ず行われる。
不安なとき、自分がかわいそうなとき、必ず俺たちは他者を侵害する。
偶然似たような思考回路で相手が納得したとしても、相手方の侵害によるダメージが小さかっただけであり、こちらが侵害していないことにはならない。
このあたりを勘違いしている人間が、賢しらな被害者面ですぐに他者を敵と味方に分けたがる。
しかし、人の気持ちを知りたいという気持ちは、自分が安心したいから、だけではないはずだ。
純粋な好奇心、怯えの中にある好感。無くても困らなかった交流に、そのまま立ち去っても良かった会話の中に、俺達は何かを期待する。自分の知らない思考を、感覚を知りたがる。
これ”も”、他者に対する侵害だ。
他者による思考のプロトコルと解釈に自分を開き、受容しようとする。それは一見先ほどとは真逆で、「開かれている」なんて言うとなんだか立派なように聞こえるが、まぎれもなく侵害の一種に過ぎない。「自分は開くから、お前の考えを教えろよ」というのはある種の自爆テロであり、脅迫行為に近い。
我々はこのふたつの侵害行為をお互いに繰り返すことを、相互理解という美しい名前で呼んでいる。
そして、このふたつは混ざり合うのだ。
プリミティブな好奇心は、その発露と同時に委縮する。人を殴っておきながら、その痛みに驚く稚児のように。
痛みや血を伴う身体的な触れ合いと違って、心のそれは目に見えない。
自分が今怯えているのか、それは相手の痛みと比べてどれほどのものなのか、明示的な答えを相対する人間同士が持たない。
だからせめて、と思うのだ。
せめて自分の発した言葉くらいは。
わからないことにワクワクしているのか、それとも怯えているのか、自分の一言が、どちらの心を守るために発されたものなのか、責任を持っていたいと。
心の重心のバランスがどこにあるのか、正確にわかっていれば、まっすぐ前に進めるはずだと。
えてして肉体をないがしろにする人間は、唯一の鍵を言葉に求める。
言葉を鍵と呼ぶのは格好良くて、格好のいい言葉には省略がある。
いるのは、言葉を鍵に加工できる能力を持った人間であって、言葉が鍵になるわけではない。
放り出された言葉はまったくもって流動的で、人によって定義も応用できる範囲も異なる、万能に見えてどの扉を開けることも叶わない、ただの金属片でしかない。そんな金属片の中に、全てがあると信じ込む。使うのはあくまで、ただの人間一人に過ぎないのに。
分かりやすい例として、セックスにまつわる広い議論というのはカスで、
なぜなら性欲の強弱、楽しいセックスをしたことがあるかどうか、あるいは嫌な思いをどれだけしたことがあるか、
のパラメータが違うとすべての前提が変わってくるからだ。
言葉の持つ意味合いがその人の経験によって全く異なり、さらにそれはオープンに話すべきではないことになっている。
だからここである程度の共通の言葉を見つけたりうまく言葉をこねくり回せる人間は一定の市場を開拓している。
そういう本を立ち読みすると、ちょっとぽい言葉を並べただけで当たり障りのないことしか言ってないじゃないかと思ってしまうが、
それっぽい言葉を並べるのは意外と難しいのかもしれないということに、流石にうっすら気づいてもいる。
これは同族嫌悪の話で、なんとこの文章は無料だ。
しかし、本当はセックスに関係なくすべての会話で人の用いる言葉の定義、ひとつの言葉を見たときに思い浮かぶ景色や感覚は異なる。
かえって、性的な話はその個人性に自覚的な人間が多いからこそ、少し整理するだけで意見交換しやすかったりもする。
異なる二つの方向性を持つ心の動きの加重平均こそが実態で
過度に傷つくことを恐れるのも、直情的な好奇心だけでも、いずれも加害性を孕む行為だ。
こういうことから目を背けて、己が傷ついたとき、己が傷つけてよいと確信したときに人間はどこまでも傲慢になり、相互理解からもっとも遠い場所へ、歩き出すことになる。