ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

つまり要約すると他人のセックスの話がかなり好きだ

図南の翼を5年ぶり10回目くらいに読んだのだけど、まだわかっていない。

自分の思う良い人と、相手の思う良い人の定義がずれている状態で、
自分の思う”良い”切り口で他人の行動を解釈してはいけない。

という話をしている物語だ。

と、図南の翼をまとめている人間がいたらボコボコにして捨てるべきなので、今のは全て嘘だ。
優れた物語において、主題を定義することは難しい。

少なくとも、今挙げたのは端っこも端っこ、たまたま今俺が読んで見えた側面に過ぎない。


図南の翼では「自分の理屈で、他人の行動の是非を決めようとするのは意味がない」と断じているが、これはなかなかハードボイルドだと思う。つまり自己満足的な安心は他者理解とは異なる行為であり、お互いの話は前に進まないということを「意味がない」と削ぎ落された言葉で言い表しているわけだ。文章が上手すぎる。

しかし、少なくない数の人にとって、「安心」は「前進」に優先するし、「不明」と「不安」のあいだがゼロ距離の人間も多い。
これは弱さではなく、性質(たち)の問題だ。

また、双方の良かれと思ったことがそれなりにどっちの理屈もわかるときなんか、わかりにくくなる。

例として100個くらい書き並べようかと思ったがめんどくさくなってきたのでやめた。

とにかくなんかその、良さげだと思っていることが、自分が良さげだと思ったことでしかない、というのにいつだって気をつけたいものだ。


──ひいては、他人の言動の背景を考えるときに、自分の得たい答えを探そうとしていないか。

一定の決めつけや、理解した気になること。
これは自分の不安を和らげるために、他人に行う侵害だとすら言える。

この侵害は人が人とコミュニケーションを取る際に、必ず行われる。

 

不安なとき、自分がかわいそうなとき、必ず俺たちは他者を侵害する。

 

偶然似たような思考回路で相手が納得したとしても、相手方の侵害によるダメージが小さかっただけであり、こちらが侵害していないことにはならない。

このあたりを勘違いしている人間が、賢しらな被害者面ですぐに他者を敵と味方に分けたがる。

 

 しかし、人の気持ちを知りたいという気持ちは、自分が安心したいから、だけではないはずだ。
純粋な好奇心、怯えの中にある好感。無くても困らなかった交流に、そのまま立ち去っても良かった会話の中に、俺達は何かを期待する。自分の知らない思考を、感覚を知りたがる。

 

これ”も”、他者に対する侵害だ。

他者による思考のプロトコルと解釈に自分を開き、受容しようとする。それは一見先ほどとは真逆で、「開かれている」なんて言うとなんだか立派なように聞こえるが、まぎれもなく侵害の一種に過ぎない。「自分は開くから、お前の考えを教えろよ」というのはある種の自爆テロであり、脅迫行為に近い。


 我々はこのふたつの侵害行為をお互いに繰り返すことを、相互理解という美しい名前で呼んでいる。


そして、このふたつは混ざり合うのだ。
プリミティブな好奇心は、その発露と同時に委縮する。人を殴っておきながら、その痛みに驚く稚児のように。
痛みや血を伴う身体的な触れ合いと違って、心のそれは目に見えない。
自分が今怯えているのか、それは相手の痛みと比べてどれほどのものなのか、明示的な答えを相対する人間同士が持たない。

 

だからせめて、と思うのだ。
せめて自分の発した言葉くらいは。
わからないことにワクワクしているのか、それとも怯えているのか、自分の一言が、どちらの心を守るために発されたものなのか、責任を持っていたいと。

心の重心のバランスがどこにあるのか、正確にわかっていれば、まっすぐ前に進めるはずだと。


えてして肉体をないがしろにする人間は、唯一の鍵を言葉に求める。
言葉を鍵と呼ぶのは格好良くて、格好のいい言葉には省略がある。
いるのは、言葉を鍵に加工できる能力を持った人間であって、言葉が鍵になるわけではない。
放り出された言葉はまったくもって流動的で、人によって定義も応用できる範囲も異なる、万能に見えてどの扉を開けることも叶わない、ただの金属片でしかない。そんな金属片の中に、全てがあると信じ込む。使うのはあくまで、ただの人間一人に過ぎないのに。

 

分かりやすい例として、セックスにまつわる広い議論というのはカスで、
なぜなら性欲の強弱、楽しいセックスをしたことがあるかどうか、あるいは嫌な思いをどれだけしたことがあるか、
のパラメータが違うとすべての前提が変わってくるからだ。
言葉の持つ意味合いがその人の経験によって全く異なり、さらにそれはオープンに話すべきではないことになっている。

だからここである程度の共通の言葉を見つけたりうまく言葉をこねくり回せる人間は一定の市場を開拓している。
そういう本を立ち読みすると、ちょっとぽい言葉を並べただけで当たり障りのないことしか言ってないじゃないかと思ってしまうが、
それっぽい言葉を並べるのは意外と難しいのかもしれないということに、流石にうっすら気づいてもいる。
これは同族嫌悪の話で、なんとこの文章は無料だ。

 

しかし、本当はセックスに関係なくすべての会話で人の用いる言葉の定義、ひとつの言葉を見たときに思い浮かぶ景色や感覚は異なる。
かえって、性的な話はその個人性に自覚的な人間が多いからこそ、少し整理するだけで意見交換しやすかったりもする。

 

異なる二つの方向性を持つ心の動きの加重平均こそが実態で
過度に傷つくことを恐れるのも、直情的な好奇心だけでも、いずれも加害性を孕む行為だ。

こういうことから目を背けて、己が傷ついたとき、己が傷つけてよいと確信したときに人間はどこまでも傲慢になり、相互理解からもっとも遠い場所へ、歩き出すことになる。

まだこれやってんのかよ、いややりますけどね

 自分と異なる意見に対して、その人物の生まれや育ち、つまりその人を構成するに至った環境と歴史を理解すれば、彼または彼女の主張を同意はできなくとも理解することができる。
と、いうようなことをハーバーマスは考えたそうだ。


たぶん俺より後に考えたと思う。俺もそう思うので。

 

だけど双方が同熱量、同能力で相手の背景に対して真摯に興味を向けあうというのは不可能だろう。なら他人についていっぱい考えている方が、痛みを引き受けるべきだ。

俺の思い至らないすべてを他人が許してくれてきたのだろうし、俺が思い至る全てと相手の思い至る全てに差があるなら、その差についてお互いが許しあうべきだ。

 

その許しは不干渉という名の優しい断絶であってはならない。

たとえ、その差が綺麗に釣り合ってなどいなくとも。

俺たちは常にもっと、もっとうまくやれたはずだからだ。

 


①どうしようもないケースに対する反省そのいち

ここでひとつのどうしようもない例を考えてみよう。

ひとから叱責される(この叱責は、「〇〇さん、挨拶はもうちょっと大きな声出そうよ!」くらいの粒度とする)と気絶してしまう人がいるとして、
彼女が元気に社会で暮らすにあたって必要な手立てについて考えるとする。


少し難しすぎたかもしれない。
ぱっと考えただけで、①「殺すべき」と②「それ以外」がまず生まれるだろう。
前者は論外として、それ以外の皆さんの中には②-1「一生関わらないところで静かに生きて迷惑をかけずに死んでほしい」と②-2「それ以外」があるだろうね。

さて、何とか残った②-2「それ以外」の皆さんに追加で新しい情報を与えよう。

 

・彼女は親の家賃収入で毎月50万円入ってくる。
・彼女は既婚者であり、急な昏倒に対して少なくとも年単位で十分なサポートを受けることができる。

 

解散。解散です。我々は自分の人生の心配をしたほうが良い。

 

ここでバランスを取った卑怯者は②-1を正解だと言い、なんだったら本音では①だがそれを言うと怖がられるから②-1にしておこう、くらいの内申点主義者もいるだろう。
おれはこの数年で内申点的な世間への気の遣い方のメリットを理解したため、以前に比べて彼らのことを徹底的に冷笑してやろうとは思わなくなったが、それはそうとして愚だとは思う。内申点主義者はしかし、その日和見能力によって決定的な悪人にもなり切れないという面もあるから、やはり学校教育的にもメリットが大きいのだろう。

②-2まで選択を推移したうえで、しかしどうしたものかなあ、で止まるくらいが、倫理的にとれる限界かな、と思う。
それくらいが知らない他者に対して割ける思考リソースの限界で、逆を言えばそこまでは頑張って考えろよ、と思ってしまうのだけど、それは俺の思考リソースの話で、そもそもの余剰なリソース量にも人によって差があるだろう。思いやりの体力、想像力のキャパシティと言い換えてもいい。


②-2まで思い至ることすらできない人間が、戦争反対なんて叫んでるのは嘘じゃないのか、と思ってしまうのは完全におれが悪い。
自分の想像力の貧困さと、他人の一貫性への幻想を棚に上げているため、この点からおれを攻撃すると簡単に崩すことができます。

 


いや、具体例が悪いよ。

 

ちなみに実際は気絶した際に前後の記憶も健忘してしまう人だったが、今何をしているかはわからない。

 

 

②どうしようもないケースに対する反省そのに


 友人の結婚式で両者のMBTIが冊子に書かれていて冷笑の王、両おぉ面宿儺になるところだった。あぶねえ。

性格診断、占い、なんらかのタイプ診断、人を何らかの属性でくくって語りたがる人間は、何かを不安に思っているから、わかりやすいフレームワークに飛びつく。〇〇のタイプだからこういう考え方なんだよ~←バカか?死ねよ。

これ系で面白いのは、人の内面を属性、枠で固めて話したがる人は本質的に不安なので、その枠が一面しか指していないことに薄々気づいているということだ。だけどそれ以上を考えるのは体力、思考力が要るから、漠然とした「でもそれはほんとの私じゃなくてぇ…」という不安に終始する。

だったら自分にとっての個別ケースを蓄え、たまにはなんとかタイプ診断みたいなハウツーを見て、固める枠のカタチや切り出す角度を増やしていくしかないのだが、それをしない人にとって、それをすることはおそらく、耐えがたい苦痛だったり、場合によっては能力的に不可能なこともある。
こういうことに、おれは想像力が不足していて、いけない。

また、一番の目的は「安心したい」のであって、複雑なことを考えたいわけではない、というのも大事な点だ。
なんだったら、自身の思考リソースが足りないことを直視するのは余計不安になることなので、他所から提示された新たなフレームワークを導入しては、同じことを繰り返す。それは善悪の問題とは別にして、構造的な問題でもある。

そんなとき、安心したいだけなのに、自分の中のフレームワークの幅を広げようよ、などと言われても怖いだろう。いや俺は全然怖くないけど、怖いと感じる可能性について想像をするべきだろう。
たとえ、怖いと感じる側が、怖いと思わない層について想像したり、その苦悩に寄り添うことが決してないとしてもだ。
怖いのはどっちだよ、なんて、決して言ってはいけないのだ。

 

何かをするために他のことを頑張らないといけない、というのはおそらく一定の訓練が必要なことで、それをしていない人間を怠惰だとか、無能だとか言い飛ばすのは簡単なことで、簡単なことだから、やらないほうが良いだろう。

 

また、どうせ本当は「安心したい」だけなんだろ、みたいな冷笑もダメだ。

もしその人が己にとっての信じられる枠組みを手に入れる、あるいは枠組みを探す中で不安を和らげることができたなら、それに勝る素晴らしいことはない。

できないで逃げてるならずっと不安なまま死ねよ、本人も変わりたくなんてないんだよ、と言い放って賢しらな顔をするのは、お互いにとって平和的で、少なくとも俺にとって、優しさから一番遠い行為だ。

 

俺たちは常にもっと、もっとうまくやれたはずだからだ。

 

 

 

 

 

 

 

雲自ずと来たれ

とにかく、龍になりたい。

みなさんもそう思っているはずだ。

しかし日常的に龍になろうと考えていないと、急に龍を目指すのは難しい。

そこでこの文章では、現在俺が龍と定義するものについて、幾ばくかの説明をすることで、みなさんにも龍を目指していただくとともに、
今後「龍ってなんですか?」とかいうシャバい質問に対してURL一本で黙らせることを目指す。

 

これはなに?

最近、SNSその他で親しくさせていただいている各位にひたすら「龍になれ」と言い続けている。

俺はこの数年、Twitterと呼ばれていたあの星からは遠のきつつあり、Gravityという名のいまいちパッとしないが広告もリポストも存在しない、いささかゾーニングの幅に問題はあるものの、30分ほど車に乗れば生活用品を買うのには困らないような郊外SNSで暮らしている。小規模だが、身の丈に合った緩いコミュニティだ。

さて、考えとしては突飛なものではない。俺が長年温め、熱を加え、かき混ぜた結果、歪に成長を遂げた人生観とその目標とするものに、便宜的に名前を付けたものに過ぎない。
しかしどうだ。俺が普段から冗長な言葉や酔っ払いのうわごとのように繰り返していることと全く同じことだというのに、「龍」という名前を付けた瞬間小規模なミームとして知り合いに言及されることとなっている。いい機会だ、なんだか連呼しているうちに自分でもよくわからなくなってきたし、ここらで一通り言いたいことをまとめておこうと思った。これはプロパガンダで、扇動だ。俺はあなた達に、龍になってもらいたいし、龍を目指そうとするならば全力で応援をすると誓おう。

 

わかりにくかったら女の趣味だと思ってもらっても構わない。

酒は飲んだか?


だから龍って何なんだよ

龍とは、あなたが思ういちばんカッコいいあなたのことだ。
それになろうとして足掻く限り、魂が敗北することは無い。

それはあなたがあなたであるということを、誰にも侵されないということであり、その前提をもとに、日々未知へと臨んでいく姿勢のことだ。

 

なんで龍かって?カッコいいだろ?

 

あなたにとっての龍がいかなる形を取るかはわからない。しかし、何をするべきかという深遠な問いかけをのぞき込むとドツボにハマりかねない。ここで、龍が何をするか、ではなく何をしないか、で考えてみることを提案する。


龍は他人をバカにしない。龍は個として最強である以上、他者が何を言っていようが、それは龍を脅かすことなどない。脅かされることのない些事に、龍が構っている暇などない。

龍は他者に偉いと思われなくていい。自分が偉いことなど、初めから知っているからだ。

龍はナメた態度を許さない。他人にも、そして己にもだ。しょうもない言い訳も、自分の能力の過信も、龍は許さない。

龍にとって努力という概念は存在しない。それは為すべきことをするための、歩く過程に過ぎないからだ。

龍は行動に理由を求めない。後になってしかわからないことが、足を止める理由にはならない。

 

どうだろう。なんとなく、龍の輪郭が見えてきただろうか。

 

なんで龍かって?カッコいいから、そう、その調子だ。

 

好奇心っつーのが

書いていて気づいたんだけど、好奇心は重要だ。もっと知りたいんだ。本屋に行くと俺の読んだことのない本だらけで、一瞬のわくわくと、薄く引き延ばされた焦燥感に怯えてしまう。何も知らない。何も知らない、自分だけがそこにいて、遠くから俺に「意味なんてないんだよ」とささやいている。疲れてしまうんじゃないか?君の人生にとって、そんなに重要なことか?

うるせえ、と叫ぶ。

先日図書館で広告デザインの本と、橋の建築方法と、東欧の20世紀史を借りて読んだ。全然わからん。バカだからだ。イライラする。丸亀製麺
これが俺にとって龍だったのかは知らない。
だけどなんとなく気になった、なんとなくを大事にしたい。世界が巨大だってことから、目を背けずに生きていたい。必然性なんてどこにもないのなら、当然やらない理由も、どこにもないはずだ。

 

はじめの一歩があるとしたら

自信を持つというのは、自分との約束を守った先にしかないように思う。
決まった時間に起きてみる、片づけをしてみる、10分散歩をしてみる、気になっていたパン屋に行ってみる、ということだ。やりたいと思ったことをやったとき、あなたは完全に自由で、誰よりも自分だ。どうも何かをやらねば、と身体を固くしている人は何か壮大なことを成し遂げたいと思って動けなくなっていることが多いように思う。

小さなことを、為した自分を、過小評価しない。

そうすれば大きなことをするのだって、それが何かはわからないが、大して変わりはしないだろう。
丁寧な暮らしめいたのは本意ではないので補足すると、バイトをブッチしようが、どっかの誰かとヤリまくろうが、一日中寝ていようが、己が心底そのようにする、そのようにする自分に一切の後悔を持たないと思っているのであれば、全き自信となるはずだ。


努力ってどうすればいいんですか?みたいな意見も出てくる。

そんなん十代で卒業しとけよ、と言い放つのは簡単だが、陳腐な問いというのは、繰り返されるから陳腐になるのであって、いつ何時、誰だってどこからでも龍を目指せるというのがこの文章の祈りの核だ。
そもそも努力って何なんですか?努力を言葉で言い表したような気になって、なんだかすごいものだと思うと、足が遠のくような気がしている。俺たちは「すごい」という言葉で努力した人間のことを遠ざける。自分は頭が悪いと言い、要領が悪いと、容姿が恵まれていないと言うことで、自分の中で”あちら”と”こちら”を線引きして、安心しようとする。そして挙句の果てには勝手に決めた”こちら”側だと、勝手に人を判断して、気を許したり怖がったりする。全てに対して失礼だ。

純粋に、失礼なんだよ。


努力というものがあるとしたら、それは引いてしまった線を押し上げる行為のことだと言っていいだろう。線を引くことはやめられないとしても、果たして本当にこのラインでいいのか、それを確かめ続ける行為が努力だろう。
俺が「努力が存在しない」と言う時、線を引かないことを前提としている。これは少なくとも最低点が決まっている試験や一般的な労働においては間違いない。一方で芸などわかりやすいが、終わりがない分野、というのもあるのは確かだ。しかし、しかし、才能がないとできないことは、俺たちが思っているよりずっと先の領域の話だ。精緻に大理石を切り出して像を作るには専門の技量が必要だろうが、石を砕いて何かに見立てるのは簡単だ。どんな道でもはじめの一歩は存在し、歩き出さない人間が、歩かない理由をまくしたてても、守れるのは何もしない小さな己だけだ。
己の才能を、測れるとでも思っている方が、はるかに傲慢で、恥ずかしいことのように思う。その自家撞着はいつか自分を内部から食い荒らす。

 

もし万が一、上記のことが気に障ったとしたら、違うのだ。俺はあなたに怒っているわけでも、あなたをバカにしたいわけでもないんだ。


誰があなたにそれを言わせた。あなたが自分を守ろうとしたのは、誰のせいだ。俺はそれに怒っていて、叶うことなら一緒に殴りに行きたい。おそらくそれは家族であり学校であり、部活であり塾でありバイト先であり勤務先で、俺の拳ではどうにもならない、つまるところ社会と呼ばれる、たくさんの人によって編まれた関係性そのものなのだろう。
だがそれらの外圧が、あなたが龍になろうと思うことを、止めることなどできない。

そう言いたいのだ。

 

何かに取り組んだ結果が無い人間は、できないことへの諦めが早い。信じろ。できないのはやり方が悪い。信じろ。いつだってあなたは、あなたが思っているよりすごい。小さな、小さな一歩から進め。

大丈夫、大丈夫だ。一歩足が出たら、十歩足を出すだけだ。十歩足を出せたなら、遥か先まで行ける。


必ず行ける。

 

 

なるぞ。龍に。共にだ。

「なんで続けているかと言ったら、まだまだやろ。まだ、まだ出るやろ、ここらへんから。っていうのを思ってやってますからね。」って言ってた。向井秀徳も。

生きていると当然、向井秀徳が脳裏に在中する時期というのがあるのは皆さんのご存じの通りと思う。

 

龍はエモいとかに近い言葉で、やっていくとか、侍とか、光とか、何でもいいが、そういう何度となく繰り返されてきた概念の短縮を、俺もやってみたかっただけだ。


本来このようなことを説明するのは野暮であるし、何よりダサい。
真の天然モノは己の直感を疑わず、ただひたすらに前へと進む。

ガキじゃないんだ。世界を変えてやるなんて大それたことを言いたいわけじゃない。
それでも、いや、ウソだな。やっぱり世界を変えたいんだ。たとえ意味の無い自己満足だとしても、俺の手の届く範囲の人に、前向きであってほしい。もし誰かがこの文章を読んで、もし誰かがほんの少しでも明日頑張ろうと思ったら、この俺の感情を、ひとかけらでも伝染させることができたなら、それは確かに世界を救うということだ。きっとそのはずだ。


それは俺の、俺だけの龍だ。

 

 

 

 

 

 


補題

龍になる心構えを内面化しすぎると、さまざまな問題が起こる。言い換えれば、自省録です。

他人が人の顔色を大事にしていることへの注意を怠ってはいけない。
思ったことを堂々と言おう、というのはそれを言えない人間に向けた言葉であって、言わなくていいことは、言わなくていい。

共同体(クラス、家族、会社.etc)は各々の役割を果たすように外圧を高める。これは煩わしいことも多いけれど、社会生物として、誰かに認めてもらうために何かをすることに喜びを感じるのは健全でもある。
我を通すことと、他人をないがしろにするのは、表裏のようで、違うことだ。

 

でもさぁ、かっこよくなりてえよ。かっこいいと、思える自分でありてえと、思う奴らとこの世界を生きていたい。そうだよな、そうだろ。

 

 

 

ニュートンも桜の木から重力を発見することはできなかった

さて、久しぶりに文章を書こうとしたら文字の打ち方が分からなくなってしまったので、悪口でも書き並べてリハビリをしようと思う。
 悪口とは差異に言及することであり、お笑いというのはとどのつまり差異をいかに取り上げられるかにかかっている。

 

 

・歳を重ねていくほどに問題となってくるのは、自分より年下は全員自分より優れているという仮定が嘘になっていくことだ。
 下の世代というのは完全に自分よりも礼儀正しく、遠大な知識を持ち、それを活かすだけの深い洞察力と謙虚な態度を持っていると思うことは、幻想的で、祈りでもある。
ついでに見目は麗しく、ユーモアは泉のように湧き出し、霞を食み、桃源が如き場所に住んでいるはずであってほしいものだが、もちろんこれもあり得ないわけだ。(ここでチンポも当然大きいと書かなかったことだけを誇りに今後も生きていくつもりだ)

 

 ガキはSNSをやめろ!脳が不可逆的にスカスカになってしまうぞ!ゆたぽんを見習え!
マジでSNSのもの知りおじさんの話を100個聞くより新書を1冊読んだほうがいいし、まずティーンには教科書があるはずだ。


GROK、ファクトチェック。本当のことはひとつも教えないで。

 

 しかしながら、上記をすべて満たす(もちろんチンポも大きい)存在も中にはいるわけで、十羽一絡げに全員カス!みたいなことを言っていると、孤独なおじさん一丁上がりというわけで、しめやかに黙るのがいいだろう。
黙る練習もおそらく筋トレで、どこかで急に黙れなくなってしまっているおじさんおばさんを、4月のハトは眺めているという。
それに、どんなやつにであれ、いいねを3つもつけられたらすぐに好きになってしまうようなうちは、大丈夫だろう。

 


・16タイプ診断については有名になりすぎている感があるので、変に否定するよりはもう逆張りで行くのがいいと思う。
自分の欠点をあげつらった後に私〇〇(EとかJとかでてくる、アレだ)なんです(笑)っていうとひとウケ取れるのでおすすめだ。

 えっ!わたしもINFPなんです~!お前をかならず殺す。

 

・えっほ、えっほ、(ただ走っているだけの音)

 

・この前「〇〇で泣いちゃった」という事実に限りなく近い誇張表現を行ったところ、人に絡むことしか能のないカス大学生に「ほんとに泣いた?(笑)」て聞かれてチンポをしまえよ早漏野郎、という気持ちになった。

 全てのエッセイ漫画家は死ぬべきかという話になってしまいませんか?え?ならない?ほんとに考えた?

 

・「コクリと頷く」という言葉をインターネットで見て、発作的にそれは変だろ、と思った。人はコクリと頷くことはできないからだ。変換にかけると「小栗と」になることからもそのありえなさは伝わると思う。文章にしかできないことがあるように、文章にはできないことというものがある。

 

・ROMれみたいな言葉、今から思うとなんていうか、雑な優しさというか、臆病な悪口というか、相手が普通にまともな人だった場合を想定した匿名故の身体を守りながらのブローみたいな感じがあるな。今のほうが怒りづらくなった分怒っていい相手には無限に強い言葉を使えるというか。

 

・旦那が家事をろくにしないのは良くない、家事労働負担量を平準化しろという意見には大いに賛同しているが、
「夫が全部してるから私はニコニコしてるだけで申し訳ない(決してその後家事をするわけではない)」というケースは夫さん素敵ですね、で終わるのに対し、逆の場合は地の果てまで追わんとばかりに怒られる感じがある。今が揺り戻しの時期で、もう数十年経てば変わるのかもしれない。

 

あるいは全般的に、男はロマンシストだという話かもしれない。もちろん、Twitterが本当にひどいミソジニストのあいつも、多くの場合家事を手伝っている(彼らは手伝うという形ですべてを任されている場合が多い)。

 

 

・日記

 

桜が降っていた。桜が咲いている時間、枯れている時間に比べて散っている時間は貴重だ。
そばを歩いているパパ活みたいな女がさかんに相槌を打っていた。

 

さすがですね
知りませんでした
すごーい
戦争しかない
そうなんですね

 

私はそうなんだ、と思いながらAIに代替されない仕事のSupplier(供給者)とClient(顧客)の二人を追い越した。初老の、金回りのよさそうな方は片手にステッキを持っていた。片手にステッキを持っているやつもパパ活をするんだ、と思った。

じゃ、ここで。

女が妙に高い声でそういうのを聞いて、私は振り返った。
こんなところで金の受け渡しをするなよ。
3万円の価値がちっぽけになったころ、男性はパパ活を始めるらしい。と、女が札を取り落とした。桜のように、現ナマが舞う。

最悪だな、と思いながら私は前を向いて散歩を再開した。ここらで小粋に視界に広がる景色の説明でもすればよかったのだが、ブリーチもナルトもワンピースもハンターハンターも読んでいない人間のことが憎かったのでそれは割愛した。
人生で見た4番目くらいの桜だと思ってほしい。無いならよかった。花なんて見るものではないからだ。

 

深呼吸をした。春の空気はなんだか粉っぽく排気みたいな香りがする。
豊かな風味に顔をしかめて、私は帰路についた。もし私が少しわかったような料理人であれば、それをTextureと呼んだだろう。

小学生くらいの人々が歩いていた。横断歩道の白線だけをジャンプしたり、桜に向かってジャンプしたりしていた。これもまた、AIに代替されない光景だった。

 

強い春風が吹いた。唐突に、帰路とはなんだろう、という疑問が生まれた。帰るべき場所なんて、あるのだろうか?私はどこから来たのか、わからなくなった。そこで私は公園のベンチに座り、生成AIにわたしはどこから来たのか、そしてどこへ行くべきなのか尋ねることにした。
すでに私の社会的貢献度はGeminiに負けていたし、そのことに不満はないはずだった。

Gemini2.5は私に極めてフレンドリーで論理的な対応をし、まとめると警察に行くべきだと伝えてくれた。まったくのポンコツだった。

 

公園には芝生と同じ面積だけ、地面があった。私はコンビニで買ったスコップで穴を掘った。スコップの柄はありえないほど長く、地球をすら動かせるのではないかというほどだった。

そして私は穴に身体を埋め、木になることとした。ソメイヨシノと言ったか、60と数年後に伐採されるとしても、その間は安泰だ。もちろん、AIに負けるはずもない。

こうして私は、チューリング試験を容易に突破する桜になった。
みなさんを全員愛している以上、桜になるしかないというのは苦渋の決断だったとわかってもらえることだと思う。

もちろん私は桜として、みなさんに引き続きお楽しみいただくつもりだ。

だが私は散るつもりはない。みなさんが、散ってくれと言うべきだからだ。

趣味で人に優しくしてる

できるだけ優しい人間でいたいと思う。誰のことも、否定せずにいたいと思う。
それは別に目的ではなく、過程に過ぎない。

結局は、人の違うを肯定していければ、自分のことが分かるような気がするからだ。
俺は俺のことをもっと知りたいのだ。



理屈のつかない怒りが嫌いだった。理屈のつかない怒りを、そのままにしておきたくなかった。
楽しかった時、何が楽しかったのか知りたかった。
嫌いなものの、何が嫌いだったのか、知らないといけないと思った。
感情に意味をつけるのはバカだという議論があるが、それとは別の話だ。怒り自体の正当化や意味付けにはもちろん意味はない。
でも怒りを引き起こす原因に共通点を見出すことができないか、知りたい。自分が何を許せないのか、ということが分かれば、無為に怒ったり、悲しんだりする必要は無い。
だとしたら、その言語化(汎化)には真剣に取り組んでいく必要があると思った。それを自分の信じるものにしようと思った。

 

喋れるようになってから、思ったことを全部喋ることはできないと、早いうちに感じていた。言葉は思考の大筋をまとめる補助具で、ロードを早くするためのセーブメモリのようなものだというイメージは、人生の早い段階からあった。
ポケモンわざマシンが、わざに関する情報を圧縮した情報構造体なんだとしたら、そういうイメージだ。次に同じことを考えたり、人に説明する時に、一度言葉で考えたことがあると思い出しやすい。ただし、補助具以上の役割は持たないんじゃないかと、なんとなく思っていた。ぼんやりとうかんだ思考の、正確なニュアンスは言葉を圧縮する過程で失われてしまう。
一方で、本筋というか、メインとなる感情を整理するために、言葉はものすごく便利な思考ツールだった。


感情で人が繋がることがある以上、そこには共通の言葉が存在すると仮定した。今いえば、共感のフレーズとかにあたるんだろう。
それを上手に使える奴が場を支配すると気づいたのは、小学4年生くらいだった。

 

原体験はきっと、小学校のイジメだ。といっても、俺がイジメられていたわけではない。
マンモス校だった。1学年に150人くらいいた。イジメは小学1年生からあったし、高学年になると窓ガラスが割れた。別に酷いヤンキー校とかではなかったと思う。
勉強は人よりできたが、そういうのはイジメに繋がるとわかっていたから、絶対に偉そうな態度をしないように気を付けた。それはもう、心底気を付けた。
俺は気を付けることができた。イジメられる奴は気を付けるポイントが分からなかったやつだった。

それ以上でも、それ以下でもなかった。

 

変なやつ、はイジメられる。変なだけで、イジメられる。
構造としては理解できたし、変な奴はどこかが変なのだ。それはそうとして、それが変な奴を傷つけてよい理由になるとは思えなかった。
変な奴は、しかし大体の部分は俺と同じ形をしている。呼吸をするし、揚げパンが好きだし、学校からの帰り道は石を蹴っている。
変な奴が違うのは、一部分、しかしその一部分が違うことが、多数の人間にとって耐えられないほどの違和感を生み出しているのだ。
なぜみんなは耐えられないのだろう、耐えなくてもいいと思っているんだろう、何が許せないのだろう。
むしろ俺はなぜ、変な奴を許してしまえるんだろう。どちらかといえば、違和感のある他者を集団から排除するというのは、正しい行為のようにも思えた。変なやつはムカつくし、バカにするのは楽しい。変な奴を傷つけたい理由はいくらでもあった。
でも、どう考えても変な奴を傷つけてよい理由は思いつかなかった。

 

変な奴はたいていどこかが極端だった。だが、そういう存在だとわかれば怖くはなかった。
でもそれを理解するまでのコストを、払うメリットがない。俺と違ってみんなは、何が違うのかを知りたがったりしないんだ。
俺には極端であることの何が悪いのか、わからなかった。分からなかったから知りたかった。今でも本当はわかっていない。みんなはわかるみたいで、羨ましい。

 

極端な奴はかえって分かりやすい、という面がある。
オンオフ、ゼロ百、露悪的な表現をするなら、比較対照実験に便利だ。ああここのこだわりがイカれていると、こういう発言が飛び出すのか、こういう受容の仕方をするのか、わかりやすく見える。そのこだわりの何が悪いのか、わかっていないし、なんなら美しいとすら感じるのだった。妥協ができない、そういうもんだと思って飲み込むことができない異常者のこだわりは、ときに鋭利な理想の輝きを放つ。当然当事者には怒られて仕方ないと思って書いているけれど、俺は俺でしんどいんだぜ。お前らを馬鹿にできたら、どんなに生きやすいのだろう。


空気が読める、気にしないことができる、それなりに生きていける人間は極めて複雑な機構で動いている。分かりやすく分解するには、異常者からひも解いたほうがいい。

俺と似ている、異常者のほうから。

 

俺は俺自身について何にもわからないけれど、ちょっとずつ頑張れば、ちょっとずつわかるような気がするのだ。
優しい人間でいたい、それは全く目標ではない。だって他人と争っている暇なんかない。なんで自分のこともわからないやつら同士が互いに争っているのかわからない。暇すぎるだろ。
俺は忙しいんだよ。争っている時間があるんだったら、1分でも多くお前のことを教えてくれ。争っていたら、俺のことが分かりにくいだろうが。

 


面白かったのは、「変なやつ」が不登校になったり、親が出てきたりしてイジメられなくなると、別の標的が生まれることだった。
気を付けることができなかったやつや、機を逃した奴はイジメに繋がった。昨日まで加害の側にいたやつが、週明けからは被害者になっている。流動的なイジメのサイクル。
そこに明確な境界は無く、ほどなくして明確な結論が出た。

小学6年生の10月から、俺の結論は変わっていない。


異常とは、ある社会における流行りでしかない。

 

 

(余談)

 

だとしたら、流行に乗れない人間が差別されるのが社会だとしたら、全員が変な奴になりうるということだ、とも言える。この意見は、異常者からするとウケがいい考え方かもしれない。この辺で結論付けていれば、この文章は何となくいい感じに終わったかもしれない。

 

だけど実際はそうはならない。流行りは、それを読める人からすれば、何も恐ろしいものではない。当人自体が流行りの波に乗り、それを生んでいるのだから。グラデーションの極端なところからある程度のところまでがイジメの対象になり、その後忘れられたころに再び極端なところから排斥が始まる、その繰り返しに過ぎない。

環境チェンジは一定の効果があるが、チェンジできるだけの能力と自信が必要なので、なかなか簡単な話ではないだろう。

変な奴は普遍的に変な奴であることから逃れられない。

 

 

なんで最後にこんな身も蓋もない話をしたかというと、俺が他人に優しくあろうとすることと、みんなが平等で差別なんかなくなるべきだという話と、社会もそうあらねばならないという理想との間には、何も、何にも関係ないということが言いたかったからだ。それを見失うと、なんだか偉いことをしているように思い込んでしまう。

 

俺は俺自身について何にもわからないけれど、ちょっとずつ頑張れば、ちょっとずつわかるような気がするのだ。高尚な意味なんかなくて、暇つぶしとしては悪くない程度の趣味でしかない。なんすか。じゃあ意味のある趣味ってなんかあるんですか?あるわけねえだろそんなもん。そんなに意味が欲しいなら意味屋さんのお家の子になんなさい!結構おもしろいんだぜこれ。人にも迷惑かけないし。

 

 

できるだけ優しい人間でいたいと思う。なんとなく、趣味で。

 

 

 

頑張るのすら言い訳が必要だからな

やろう。
やりましょう。
気になるものを見て、薦められたことに取り組み、そのうえで更に自分の好きを探そう。

できないことが増えていく。ライフステージの変化と見せかけて、実際は全然そんなことないと思う。

しかしどうしても本が読めないんですとか、薬のせいで起きれないんですとか、そう言われると返す言葉も無いので強い言葉はどんどん使えなくなっていく。
世界は努力を隠す方向に動いている。努力は暴力的だからだ。暴力的なものは怖いし、それにそもそも全然自分の力じゃないものを勘違いしているケースも多いからだ。
だが、努力をしなくていいという世論になっているというのは、その実で分断を産んでいるに過ぎない。
努力をする人間の一部は生まれながらにして努力をするし、一定以上のラインを超えると、そこには信じられない努力をする人間しかいない。
凡人がその頂に達することができないのは構わない。でも頂を見なかったことにしていいと言うのとは違うと思う。努力できない自分を認められない弱さに、向き合わないままではいけない。
黙って笑われる勇気が無いのは、駄目だ。いや、別に努力する人間は下を見ることも無いので、実際は笑われていると思い込んでいるのはやらない人間だけだけど…。
とにかく、やり方次第のやり方の部分を、しっかりやっていこうよ、という話をしないと。しないと自分が狂ってしまう。

一億総精神疾患時代。睡眠薬なんか猫も杓子も飲んでいる。
寝れない、本が読めない、起きれない、ゲームがクリアできない、家事ができない、できないことは個々の疾患と個性に紐づけられて、冒されない聖域として説明がついている。
私たち(健常者)は、彼らに常に末に寄り添い続ける必要がある。何かができない人間をバカにしないことが求められている。本質的に寄り添わなければならない。
それは必要なことだ。人間を、人間として認知し続けるために。人権は守りたい顔をしていないが、守りたい顔をしていないということ忘れてしまうよりは、まだ見つめたほうがいいだろう。心の破綻しない距離で。
それは過酷なことだ。あえて、過酷なことであると言い切ろう。
狂っている人の不安や苦しみ、無い焦燥感や無い孤独と、それをあるものだと心から信じて寄り添おうとする姿勢を持とうとすることの、どちらが苦しいかなんて、比べられるものではない。
ある種の脅迫観念もあると思う。すぐ間違えてしまう。間違えたいと思う。全人類にワンピースを全巻読んでいてほしいと思ってしまう。ワンピースを全巻読んでいない人間がのうのうと息をしていることが信じられない、怖い、理解しがたい、おかしい。
そんなの、変だよ。変な人だ。線引きをしたいと思ってしまう。すぐに逃げてしまう。これを逃げだと思うのはおかしいだろうか?今おれは精神疾患の話を理解しにくいもの一般とごちゃ混ぜにして話した。

俺にはおれのスタンスがあり、それはけっして当然のものでも楽にできることでもない、ということを、己のために書いておこう。
寄り添う必要のないマイノリティに寄り添って自分が狂う必要は一切ない。この辺はマジョリティとして声を大にして言いたいが、できないお前らに寄り添うことのメリットは、万に一つもない。
だとしたらなぜ、関わるのか。やっぱり、それが人間だということだからだとしか言えない。業の肯定、という言葉をこんな場面で使うのは全方位に失礼だろうか。しかし業だろう。
普通に生きるということの異常性は、普通に生きられない人間によって明確になる。ときには、その差を見極めることが、人とは何か、ひいてはグラデーションの中間にいる自分自身を考える契機にもなる。ダブスタへの開き直り。20歳の俺には無かったものかもしれない。
当然マイノリティは怒り狂うべきで、暴力などを用いて徹底的に立ち向かうべきだ。そのなかで、共存だの、妥協だのと言った言葉が生まれてくるのであり、しっかりとマジョリティを腐し続けるべきだ。

ここまで、言い訳を固めた。
何の話か?つまり、御託は良いから好きなことを一個ずつ消化していけという話です。そこに固有の事情なんか関係ない。躁鬱だろうが、バキバキのツーブロックだろうが、同じように扱うべき時がある。
これだけの言い訳をしないと、本を読みたかったら読めよバカ、という一言すら出せない。気を遣っている。
いいですか、これはおれの主観です。


朝起きることができるのは、決して簡単なことではないのだ。
本だって放置していれば放置したままになってしまう。仕事は強制されるから何とかやれている。

それでも、本を読むのだ。


ただでさえ普通に生きていても徐々に気力がなくなっていくアラサー。気軽にご飯を食べすぎることもできやしない。
労働は苦しい。残業は嫌だし、時間が純粋に削られていく。それでもだよ。やろう。やりましょう。本を読もう。漫画を読もう。
知らない世界へ出かけよう。
趣味というのは休みではない。ゆっくり休んで、好きなことでもして。という時、果たしてゲームが仕事より疲れないかというと微妙だろう。
好きなことをやるにも体力がいる、こんなことすらわかっていない人も多いと思う。
それでもやろう。できるだろ?やってみよう。やりたいことがたまっていて何もできない?まずは一番上に積んだそれを、やってみよう。


自分の管理がへたで、運動神経が悪いと、体力の要る活動はやりにくい。でもやろう。運動神経というのは、呼吸の仕方や、姿勢の話だ。体調が悪くなるタイミングを把握しろ。
自分が右側に体重をかけて歩くなら、気持ち左にかしいでいるくらいの心で歩いてみよう。けっこうこのあたりがダメな人は多く、自分のバランスが悪い時に「バランスが悪いんだ!」と自覚すれば治るかの如く考えていることが多い。
実際のところ、自覚はたいして役に立たない。結果というか、行動の後ろから初めて過去の自覚というのはついて来ることが多い。というか、自覚と同時にさまざまなことを治せる人間は全般的にバランスが良いやつだろう。
やろう。自分にとってどの出力がどれだけ続けば倒れるのか、それを感覚で把握できないなら活動を記録しろ。記録が上手にできないなら、できる仕方を考えろ。やる気で何かができるのは天才だけだ。客観的に、機械的に、分析しろ。

それをしないのを、努力が足りてないというんだ。

できないならやり口を考えろ。考えろ、考えろ、考えろ、考えろ。
これでいいと割り切る、これ以上はダメだを把握するのは、才能ではない。努力が足りていないだけだ。これは伸ばせるものだ。
自分一人ではできないなら誰かに言って管理してもらえ!褒めてもらえ!叱ってもらえ!環境の整備は、まぎれもない工夫だ。
考え抜いて、相談をして、全力でやれ。気合で何かができるのは天才だけだ。何かができないと思ったことがあるのなら、あなたはすでに天才ではない。そして天才でないのであれば、前を向ける余地がある。

深呼吸をしろ。

趣味?趣味というのは、全力でやらないとできなくなるものだ。人は社会的な生き物だから、強制されずに、誰かを介さずに何かをすることは本来極めて難しいのだ。だから、真剣に、適切な努力をする必要がある。
したほうがいい?しなければいけない。なんとなくで楽しめるほど、趣味は簡単なものではない。そうしないと、一生ツイッターをだらだら見ているだけになる。それが嫌だと思うなら、自分にとっての取り組み方を考えないといけない。
考えないといけないんだよ。

多くの人の何かができなくなった、は、諦めと納得だろう。やりたいけどできなかった、それなら本当にやりたかったわけではないんだろう、出来なくても仕方ないんだろう。そういう大人の妥協だろう。
本当にそうか?本当の本当に、そう信じて、確信をもってやらなかったのかよ。

何かに取り組んだ結果が無い人間は、できないことへの諦めが早い。信じろ。できないのはやり方が悪い。信じろ。いつだってお前は、お前が思っているよりすごい。小さな、小さな一歩から進め。

大丈夫、大丈夫だ。一歩足が出たら、十歩足を出すだけだ。十歩足を出せたなら、遥か先まで行ける。


必ず行ける。

 

 

 

 

多様性チャレンジ_20221203

これは備忘録なので、行替えするごとに、話題は完全に飛躍する。

 

違和感がある人と話すということ。

ズレている人間はズレている、それに気づくのがおそらく自分は早く、しかしそれを避けないためにズレている人間と関わることが多い。普通の人間は、普通に正しいので、息苦しい。安心しないために常に変な人間と話し続けている。安心?諦念だ。諦念したくない、この世界は変だという感覚を忘れたくない。

 


金曜って実質土曜だから仕事できなくてもいいよね、とか、ふわふわのネコちゃんのことだけ考えていようよ、と言った言説は、こんなことはできないと多くの人がわかっているから、支持される。
わあ本当にその通りだ!なんて言っている人間はやはり、どこか、おかしい。
というか、こんなことはできない、と思うことを、何かいけないことだったり、恐ろしいことだと思っているのではないか、という気がする。難しいことは考えないで、ふわふわのネコちゃんのことだけ考えようよ、というのは、そうできたらいいのにね、であって、そうできたらいいのにね、はそうあるべき、ではない。そして、このような考え方をやたらに肯定したり、唆すような行為は、寄り添うようで突き放しているので、苦手だ。
沈むように、溶けていくように、というやつだ。優しくて、何も生まない、幼稚さの搾取に見える。

 

 

人権について4秒に7回くらい考えている。

 


社会保障というのは本当によくできている。人権というのは、心では絶対に理解できない。本当の弱者は、助けたくなるような顔をしていないから、制度で機械的に運用しないといけない。
それはそれ(それをまず、強く理解することが大前提なんだけど)として、どんな顔をしているか知るべきだというのは、ミーハーな好奇心として揶揄されたくはない。
両者は表裏一体で、どちらが欠けても理解には至らないと思う。どちらかを疎かにするのは、差別への加担だと思うが、もちろん、コスパは悪いし不快な人は耐えがたいので、一切やる必要はない。差別を許さないみたいのは、まあ、趣味の範囲でやるのがいい。

 

 

カタールに出稼ぎにきた人間が、たかだか1ヵ月の球蹴り大会のために数百人バタバタと死んでいようが、そんなのは僕たちの人生に何ら影響を与えない、クソどうでもいい、つまらないことだという事実を、まずは認めないといけない。

 

 

大森晴子は卒業しましたと言っていた後輩のこと、愛しすぎて笑ってしまった。

 


冷笑をやめろ、おおむね同意するけれど、それでも冷笑をやってしまうことについて、けっこう落ち込んでいたこともあるんだけど、前向きに自己弁護できるようになってきた。
冷笑を完全にやめられる人間、それは冷笑すらできない人間を切り捨てる側の人間だと思う。冷笑をやめろ、というのは完全に自分と近しい感性の人間としか付き合わないという宣言に聞こえる。絶対に理解できない他者に対して、アイロニーだけが正気を保つ手段になりえる。というか、冷笑という言葉の持つ範囲が大きい、というのはありますよね。近年流行りの陰湿金融文学なんてのは、やめろとしか思わないが、あれを持て囃す世界なんて馬鹿にしないとやっていけないだろうが。

 


まっ昼間のガストで「セックス完全に理解しました!」と叫んでいたフォロワーが3年くらいしてその異常性を笑えるようになったの、すごく嬉しかった。
人は自分自身で勝手に救われるし、昔よりずっと近い距離で話せるようになった気がした。

 

 

「川は海に向かって流れる」という漫画を読みました。良かった。最近は話題になる漫画って多くがマイノリティの主人公なので、無意識にすごく傷ついていたみたいだ。色々複雑な事情があるんだけど、結局は男が女を好きになる話だったので自然な気持ちで読めた。ポリコレ疲れというと感じが悪いけど、自分でもちょっと驚いてしまった。
俺は物語に対するスタンスが遠いので、特に個にズームインするラブストーリーってどうしても、あーうるせ~、セックスしたら後で教えてくれ~みたいなテンションになってしまう。内面について見開き2ページ以上説明されるとオッケー!!!じゃあまた!ってなっちゃうことに気づいた。「川は〜」は作者のキャラへの距離感がちょうどよく遠くて、助かった。

 

 

努力は何も偉くない。生きているだけで偉いわけがない。
ただ努力している人間、いや、本当にすごい人間は努力を努力と認識していないが、つまり何かをやろうとしている人間は、面白い。
そして、何かをやろうとしている人間と同じくらい、何かをやらずに生きてしまっている人間も面白い。
いや、上下で考えてはいけなくて、外れたものが面白いと言える。

 

 

 

外れたものでも生きていて、それを包摂して黙って回る世界が変で、面白いのだ。