とにかく、龍になりたい。
みなさんもそう思っているはずだ。
しかし日常的に龍になろうと考えていないと、急に龍を目指すのは難しい。
そこでこの文章では、現在俺が龍と定義するものについて、幾ばくかの説明をすることで、みなさんにも龍を目指していただくとともに、
今後「龍ってなんですか?」とかいうシャバい質問に対してURL一本で黙らせることを目指す。
これはなに?
最近、SNSその他で親しくさせていただいている各位にひたすら「龍になれ」と言い続けている。
俺はこの数年、Twitterと呼ばれていたあの星からは遠のきつつあり、Gravityという名のいまいちパッとしないが広告もリポストも存在しない、いささかゾーニングの幅に問題はあるものの、30分ほど車に乗れば生活用品を買うのには困らないような郊外SNSで暮らしている。小規模だが、身の丈に合った緩いコミュニティだ。
さて、考えとしては突飛なものではない。俺が長年温め、熱を加え、かき混ぜた結果、歪に成長を遂げた人生観とその目標とするものに、便宜的に名前を付けたものに過ぎない。
しかしどうだ。俺が普段から冗長な言葉や酔っ払いのうわごとのように繰り返していることと全く同じことだというのに、「龍」という名前を付けた瞬間小規模なミームとして知り合いに言及されることとなっている。いい機会だ、なんだか連呼しているうちに自分でもよくわからなくなってきたし、ここらで一通り言いたいことをまとめておこうと思った。これはプロパガンダで、扇動だ。俺はあなた達に、龍になってもらいたいし、龍を目指そうとするならば全力で応援をすると誓おう。
わかりにくかったら女の趣味だと思ってもらっても構わない。
酒は飲んだか?
だから龍って何なんだよ
龍とは、あなたが思ういちばんカッコいいあなたのことだ。
それになろうとして足掻く限り、魂が敗北することは無い。
それはあなたがあなたであるということを、誰にも侵されないということであり、その前提をもとに、日々未知へと臨んでいく姿勢のことだ。
なんで龍かって?カッコいいだろ?
あなたにとっての龍がいかなる形を取るかはわからない。しかし、何をするべきかという深遠な問いかけをのぞき込むとドツボにハマりかねない。ここで、龍が何をするか、ではなく何をしないか、で考えてみることを提案する。
龍は他人をバカにしない。龍は個として最強である以上、他者が何を言っていようが、それは龍を脅かすことなどない。脅かされることのない些事に、龍が構っている暇などない。
龍は他者に偉いと思われなくていい。自分が偉いことなど、初めから知っているからだ。
龍はナメた態度を許さない。他人にも、そして己にもだ。しょうもない言い訳も、自分の能力の過信も、龍は許さない。
龍にとって努力という概念は存在しない。それは為すべきことをするための、歩く過程に過ぎないからだ。
龍は行動に理由を求めない。後になってしかわからないことが、足を止める理由にはならない。
どうだろう。なんとなく、龍の輪郭が見えてきただろうか。
なんで龍かって?カッコいいから、そう、その調子だ。
好奇心っつーのが
書いていて気づいたんだけど、好奇心は重要だ。もっと知りたいんだ。本屋に行くと俺の読んだことのない本だらけで、一瞬のわくわくと、薄く引き延ばされた焦燥感に怯えてしまう。何も知らない。何も知らない、自分だけがそこにいて、遠くから俺に「意味なんてないんだよ」とささやいている。疲れてしまうんじゃないか?君の人生にとって、そんなに重要なことか?
うるせえ、と叫ぶ。
先日図書館で広告デザインの本と、橋の建築方法と、東欧の20世紀史を借りて読んだ。全然わからん。バカだからだ。イライラする。丸亀製麺。
これが俺にとって龍だったのかは知らない。
だけどなんとなく気になった、なんとなくを大事にしたい。世界が巨大だってことから、目を背けずに生きていたい。必然性なんてどこにもないのなら、当然やらない理由も、どこにもないはずだ。
はじめの一歩があるとしたら
自信を持つというのは、自分との約束を守った先にしかないように思う。
決まった時間に起きてみる、片づけをしてみる、10分散歩をしてみる、気になっていたパン屋に行ってみる、ということだ。やりたいと思ったことをやったとき、あなたは完全に自由で、誰よりも自分だ。どうも何かをやらねば、と身体を固くしている人は何か壮大なことを成し遂げたいと思って動けなくなっていることが多いように思う。
小さなことを、為した自分を、過小評価しない。
そうすれば大きなことをするのだって、それが何かはわからないが、大して変わりはしないだろう。
丁寧な暮らしめいたのは本意ではないので補足すると、バイトをブッチしようが、どっかの誰かとヤリまくろうが、一日中寝ていようが、己が心底そのようにする、そのようにする自分に一切の後悔を持たないと思っているのであれば、全き自信となるはずだ。
努力ってどうすればいいんですか?みたいな意見も出てくる。
そんなん十代で卒業しとけよ、と言い放つのは簡単だが、陳腐な問いというのは、繰り返されるから陳腐になるのであって、いつ何時、誰だってどこからでも龍を目指せるというのがこの文章の祈りの核だ。
そもそも努力って何なんですか?努力を言葉で言い表したような気になって、なんだかすごいものだと思うと、足が遠のくような気がしている。俺たちは「すごい」という言葉で努力した人間のことを遠ざける。自分は頭が悪いと言い、要領が悪いと、容姿が恵まれていないと言うことで、自分の中で”あちら”と”こちら”を線引きして、安心しようとする。そして挙句の果てには勝手に決めた”こちら”側だと、勝手に人を判断して、気を許したり怖がったりする。全てに対して失礼だ。
純粋に、失礼なんだよ。
努力というものがあるとしたら、それは引いてしまった線を押し上げる行為のことだと言っていいだろう。線を引くことはやめられないとしても、果たして本当にこのラインでいいのか、それを確かめ続ける行為が努力だろう。
俺が「努力が存在しない」と言う時、線を引かないことを前提としている。これは少なくとも最低点が決まっている試験や一般的な労働においては間違いない。一方で芸などわかりやすいが、終わりがない分野、というのもあるのは確かだ。しかし、しかし、才能がないとできないことは、俺たちが思っているよりずっと先の領域の話だ。精緻に大理石を切り出して像を作るには専門の技量が必要だろうが、石を砕いて何かに見立てるのは簡単だ。どんな道でもはじめの一歩は存在し、歩き出さない人間が、歩かない理由をまくしたてても、守れるのは何もしない小さな己だけだ。
己の才能を、測れるとでも思っている方が、はるかに傲慢で、恥ずかしいことのように思う。その自家撞着はいつか自分を内部から食い荒らす。
もし万が一、上記のことが気に障ったとしたら、違うのだ。俺はあなたに怒っているわけでも、あなたをバカにしたいわけでもないんだ。
誰があなたにそれを言わせた。あなたが自分を守ろうとしたのは、誰のせいだ。俺はそれに怒っていて、叶うことなら一緒に殴りに行きたい。おそらくそれは家族であり学校であり、部活であり塾でありバイト先であり勤務先で、俺の拳ではどうにもならない、つまるところ社会と呼ばれる、たくさんの人によって編まれた関係性そのものなのだろう。
だがそれらの外圧が、あなたが龍になろうと思うことを、止めることなどできない。
そう言いたいのだ。
何かに取り組んだ結果が無い人間は、できないことへの諦めが早い。信じろ。できないのはやり方が悪い。信じろ。いつだってあなたは、あなたが思っているよりすごい。小さな、小さな一歩から進め。
大丈夫、大丈夫だ。一歩足が出たら、十歩足を出すだけだ。十歩足を出せたなら、遥か先まで行ける。
必ず行ける。
なるぞ。龍に。共にだ。
「なんで続けているかと言ったら、まだまだやろ。まだ、まだ出るやろ、ここらへんから。っていうのを思ってやってますからね。」って言ってた。向井秀徳も。
生きていると当然、向井秀徳が脳裏に在中する時期というのがあるのは皆さんのご存じの通りと思う。
龍はエモいとかに近い言葉で、やっていくとか、侍とか、光とか、何でもいいが、そういう何度となく繰り返されてきた概念の短縮を、俺もやってみたかっただけだ。
本来このようなことを説明するのは野暮であるし、何よりダサい。
真の天然モノは己の直感を疑わず、ただひたすらに前へと進む。
ガキじゃないんだ。世界を変えてやるなんて大それたことを言いたいわけじゃない。
それでも、いや、ウソだな。やっぱり世界を変えたいんだ。たとえ意味の無い自己満足だとしても、俺の手の届く範囲の人に、前向きであってほしい。もし誰かがこの文章を読んで、もし誰かがほんの少しでも明日頑張ろうと思ったら、この俺の感情を、ひとかけらでも伝染させることができたなら、それは確かに世界を救うということだ。きっとそのはずだ。
それは俺の、俺だけの龍だ。
龍になる心構えを内面化しすぎると、さまざまな問題が起こる。言い換えれば、自省録です。
他人が人の顔色を大事にしていることへの注意を怠ってはいけない。
思ったことを堂々と言おう、というのはそれを言えない人間に向けた言葉であって、言わなくていいことは、言わなくていい。
共同体(クラス、家族、会社.etc)は各々の役割を果たすように外圧を高める。これは煩わしいことも多いけれど、社会生物として、誰かに認めてもらうために何かをすることに喜びを感じるのは健全でもある。
我を通すことと、他人をないがしろにするのは、表裏のようで、違うことだ。
でもさぁ、かっこよくなりてえよ。かっこいいと、思える自分でありてえと、思う奴らとこの世界を生きていたい。そうだよな、そうだろ。