ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

たとえ1年に1冊でも、新しい本を読むという話

 

 見返している瞬間が増えた。
過去に触れたコンテンツを、再び見ている時間が増えた。気がする。


 何度見ても色あせない傑作というものは存在する。
ピンポンの漫画原作は全シーン頭で再生できるくらい読み込んでる。でもそれは、もっと能動的な気持ちだった気がするのだ。

なんか、どこからか惰性になっている。
理解する速度が落ちたのか?ノスタルジックな感傷に浸りたすぎるのか?
今年は新しいPCを買ってXboxのサブスクに入ったりして、純粋な手の届く範囲は増えたように思う。なのにどうしてか、気づくとヒロアカのアニメを見直したり、スプラトゥーンしたりしている。

 老化ってやつか?もうずっとひとりだ。俺と同じような社会/人間関係で、同じ熱量でゲームやってマンガ読んでるやつなんて周りにはとうにいなくなってしまった。それは構わない。最初の最初に決めたことだから何の問題もない。後悔は一度もしたことがないし、俺が一生かかってもこの世の本を読みつくせないとしても、それが俺が本を読まなくていい理由には一切ならない。

 

 今働いて老後にゆっくり好きなことをやる?笑わせるな。


今でさえろくに好きなものを見つけられない人間が、さらに体力の衰えた先で新しいものに能動的に取り組めるわけがないだろう。
結局昔好きだったものの派生でしか、凡人は物事に手を出すきっかけなんか生まれないのだ。もちろんあなたが天才なら、何の問題もない。馬鹿にしたまえよ。あるいは君が持っているバカ一覧.xlsxみたいなものにアーカイブ化してくれてもかまわない。

そうなんですよ~年を取ると新しいコンテンツに向き合うのが大変で~みたいなクソしょうもない共感なんか要らなくて、じゃあ今年はどうやってそれと立ち向かうかという一年だったという話を、する。いいですか、主観です。

 

 なんであれ、好きなことを諦めない、そういう話です。


アンテナは常に張らないといけない。世界はその美しさをわざわざ教えてくれるほどやさしくはない。見逃しているのはいつだって自分だ。
わかっている、わかっているからこそ、過去のコンテンツをなんとなく見返しているときへの焦燥感がすごい。

しかし焦燥感というのはこの手の話において最大の天敵だ。焦って何かがうまくいくなら、世の中のことは大体解決している。


リピートアフターミー、困難は分割せよ。
まずは問題を物理的(肉体的)、心理的側面に分割しましょう。


 物理的な話をしよう。実は、今回の問題を解決する現実的な手段はこれだと思う。
実に単純な話だ。

簡単にリピートできるのが良くない。
性能のいいPCと回線で、簡単にNETFLIXが開けるのがいけない。サブスクでいつでもゲームができると思うのがいけない。
思えば図書館で借りた本は、期日までに読まなくちゃいけなかったから頑張っていたような気もする。
大人になると(多くの場合は)学生時代よりはお金に余裕ができる。でもコンテンツの摂取はお金ではなく、本質的に時間との引き換えなのだから、買った本を積んでいても何の言い訳にもならない。買うのも趣味の一環ではあるだろうから、そのこと自体には問題がない。読まずとも何の問題もない、あるいは読めていないことよりも買っていないことのほうが問題だというのであればそれはそれでいいんです。


だけどもし、買っているのに読めていないという状態に一片でも後悔があるなら買わないほうがいい。
だいたいやったかな~と思ったらサブスクなんか解約するのも手だ。めちゃくちゃ雑な話をすると、スマホから遠ざかるだけであなたの読書効率は跳ね上がる。
いつでも見返せるのは豊かさであり、よほど強い精神を持たないと豊かさの中で新しいなにかを求めることはできない。PCを捨て、本棚を燃やせば過去は振り返ることは無いだろう。同時に、なかなか実践できることでもないだろうね。

 とはいえ、スマホを置いて喫茶店に本を持っていけば流石に本を読めるだろ。環境を物理的に変えることは手軽な割に効果抜群だ。分割、とか言ったけど、結局外的要因と内的要因には関連があるので、心のほうもそっちについていく面がある。まあ、アプローチとしてそういう見方もあるという話だ。

 


 さて、次は心理的側面だ。

心理的な障壁という話をすると、きっと、なんとなく見返すという行為が、新規のコンテンツに触れるより難易度が低いということがポイントになると思う。
そんな馬鹿な。中高生のころであれば一笑に付していたであろう。あのときの彼は一度読んだものを再び読むのは馬鹿のやることだと思っていた。明日にも死ぬ可能性があるというのに、そんな時間はないと。読み返すなら、何か発見がないと嘘だ、それに足る新たな刺激が必要だ、そう思っていたに違いない。

 しかし少年、これだけコンテンツを履修してくれば、ストーリーの展開だなんだはみんな似たり寄ったりではないか、かつて見たマスターピースを見て等価、場合によってはそれ以上の感動を摂取したほうがお手軽なんじゃないか?読み返すというのは実際大きな意味を持つこともある。

小さな彼はうるせえ読んでみなきゃわからねえだろうが!と叫び、僕はそれが簡単にできるほど今の僕に時間はないんだよと言い返す。
 そして実際、積み重ねた分だけ入り口は閉じていく。あれとこれって同じ展開だよね。このキャラってあの作品のあのキャラと似てない?ブログの文章と死体ってどっちも燃えるゴミの同じ袋に入れていいよね?

 

 新鮮さは失われていく。思考は硬直化していく。ちっちゃいとき、いただろ、知らねえ昔の漫画の話とかするオッサン。あのオッサンも悪気はなかった、ただ彼には、今の漫画を読む時間と気力が足りなかっただけだ。でも、ダメなんだよ。オッサンはもう漫画の話をできるオッサンではなかった。かつて漫画を読んでいた謎のオッサンでしかなかった。
僕たちはどんどん年を取り、体力と気力を確定的に衰えさせながら、若いままではいられないということに誠実に向き合わないといけない。無理をしろなんて話はしていない。年相応というものはあり、経験と知識が感性に確かな深みを与えてくれるのは間違いない。

 

だけど、好奇心を経験で殺したとき、僕たちは一つ老いてしまうのだと思う。

 

 面白そうだけど面倒くさいと思ったとき心臓からは血が流れ、きっとあれと同じ話だとか思い込んで動くことをやめたとき、自分の手で首を切ろうとしているのだ。僕たちは忙しいから、本当は自分が血を流していることに気づかない。自分の手で殺した好奇心を抱えて泣きながら、仕事や年や、他人のせいにしてしまう。

 

仕方ないだろう?

 

仕方ないさ。誰を責められる話じゃない。いつか涙は乾いてしまい、好奇心なんか最初からいなかったと思い込む。だからここは地獄なんだ。ずっと言っているだろう。
俺は、この地獄でみっともなくもがくための話をしているんだ。

 

小さく、小さく。小さな一歩から進め。

心理的難易度を下げる第一歩はここにある。まずはそうだな、これって〇〇と同じじゃん、と言うのをやめよう。

俺は、俺が見捨てようとしている俺を、救わなければいけないのだから。

 


 結局のところ何が言いたかったかというと、老化だとか感性の劣化だとか、労働による精神の疲弊だとか、そんなものは何一つ、人が物語を摂取するための足かせにしていいものではないということだ。
 そしてそれでも歩み続けるのは大変だということ自体を、軽視してはいけないということだ。できないこともいっぱいある。それでもできることは全部やろう。なんとなく好きだったことを捨てるのはやめよう。できれば、もっと好きなことを増やそう。

 

なんだか明るいふんわりしたことを言っているけれど、ここで意地を張り続けるのは全然簡単じゃないと、改めて実感した一年だった。無様にしがみついているというのがせいぜいだろう。最悪だ。大変だ。誰も助けてくれないんだ。でも好きなものとはそういうものだ。そして諦めない限りどこかで、誰かと繋がっているのだ。

 


いつか必ず、ゲームをしない年が来るだろう。本をまったく読めない年が来るだろう。
そのときに、あのときならできたと、後悔をしたくないんだ。

だからこれは備忘録だ。

言い訳をしない人生を。ここにあったと言うための。

そのための、備忘録だ。