ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

当たり前の話を春にする

  毎日通る道の桜を眺めてたはずが、思い返すとその根元のホトケノザばっか見てたような記憶がある。意外とその辺の道端に咲いてる花が可愛かったりして、だから何だと言われると別にどうということでもないんだけれど。やっていくぞという強い意志は、案外そういうところからしか生まれないんじゃないかと思ったりする。

 

 文章を書くのは狂気と似ている。ウソだ。狂気なんてかっこいいもんじゃない。愚の骨頂、正気の沙汰じゃない。ダサいし醜い言及はやめなければいけない。まともな人間なら自分の文をインターネットに流したりしない。かしこい人間なら思ったことは胸に仕舞っておくべきだ。それなのに何かを残しておきたいと思うのは、他人に伝えたいと思うのは。そのための使いこなせるツールが自分にとって文字しかないということは。どうしようもない愚行なら、意味なんてないとわかっているなら。笑い飛ばすしかないじゃないか。

 

 

 いいですか、主観です。 

 

多様性チャレンジという文脈です。

非常に難しい。

 

価値観というのは個人の中ですら変わりうる。だからそれを断定するのは意味が無くて、それもありだよねという話をしていきたい。ぼくは、少なくとも現時点では、多様性チャレンジは対症療法だと思っている。多様性チャレンジで得られるものはそういった人種がいることの認知と擬態の練習であって、多様性を受け入れざるを得ない世界で生き抜くためのライフハックであり、多様性なんて知らないほうが、安らかに生きていけると思う。

 


多様性チャレンジがなによりも大事だとおもっていた時期がある。生まれや育ちの違う人間とふれ、まったく知らないツイッターの海をさまよったり、深夜バイトをやったりすることで視野が広がると。いつかなにかしらのかたちで世に出て働くことになるなら世の人を知ることは大切で、象牙の塔の頂上で研究をする人間とは意識的にでも決別しなければいけないと思っていたことがある。勉強目的だので海外に行っても、同様の教育的文化素養をもった人間と接するならそのへんの公園でホームレスのおっさんと話した方がカルチャーショックはでかい。そもそも勉強が好きではないし、勉強するわけでもないのにほいほい海外行けるほど豊かな経済基盤もなかった。
幸か不幸か学のある強い人間はその最高峰まで視界に入る環境にいたけれど、高い塔のある村で塔に登るつもりがないのなら、社会的に多様な階層の人間と触れるべきだと考えていた時期がある。基本的には、今もその気持ちは変わらない。


良かったか悪かったかはわからないし、白黒つけるものでもないとは思うのだけれど、多様性チャレンジはべつに必要なことではないとわかったのは、馬鹿な俺にしては賢明な気づきだったと思う。結局多様な階層の人と触れたところで自分が属する社会コミュニティで生きていくわけで。そこで上を目指しているだけで十分メモリを使い切ってしまうのが普通なんだろう。恵まれた人間が恵まれない人間のことを気にしないとか叩かれるの、悪気とか全然なくて、見ているひまがないんだろう。それを見ているようなひまな人間には、それをどうにかできるほどの実力は身につけられない。ひとりが知覚できることはたかがしれている。 

 
 でも強い人みんな普通に多様性チャレンジとかせずに勉強とかしてて偉いと思う。強い人は本当に強くて、疑いとか持たず楽しいとか狂った理由でどんどん強くなっていくのですごい。あとがんばる自分が好きみたいな狂った理由でがんばる人間も存在しておりすごい。すごい人、行き詰ったときすぐ自分を責めたりするのもすごいと思う。俺にはとうていできない。そんなにすごくない人、頑張ってない人も不幸せかといえば全然そんなこともないの、すごいと思う。ほんとになんも考えてないんだなって人がだいたい一番幸せそうに見えることも多々あってすごいと思う。生きてるだけで頑張ってるよって人も頑張っててすごいねーって気分になる。なんでもいいんだよ。すごいときはすごいんだよ。ダメとか言ってても、できないことを嘆くとか改善できる才能だしすごいと思う。あきらめちゃえるのは能力をよく客観視できてるってことだからすごいことだ。

なにがすごいかなんてタイミングと個人の状態によるんだ。なんだってすごいし、すごくないと言われてしまえば、

 

 なにひとつすごいことなんてなくなってしまう。

 

 

 平凡な人間の、かけがえのない努力が、すごくないわけがないだろう。

「○○な人に届け」とかいって安易な自己防衛を語るようなアレがまあ苦手で。

一般化してはいけないことが世の中にはいっぱいあって、それを140字とかで雑に一般化するから無理が生まれる。

 言葉に無限の可能性なんて感じたことはないし、文字には限界がありすぎて、小さなことひとつ満足に伝えられない。

 だからせめて、目に見える世界には届くように、大事な人だけには届けられるように。丁寧な言葉を、文章を僕たちは目指すのだ。

 

 

 

  それは、道端のちっぽけな花を綺麗だと思う気持ちにどこか似ている。

 だって俺は、でっかい桜の木のそばで咲いていたちっちゃい花を見たあのとき、それをなによりも美しいと思ったんだ。