ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

鬼滅の刃一気読みした

鬼滅の刃を全巻ちゃんと読みなおした。
自分の意見が変わらないうちに、いっさい他の意見を目にいれないうちに、所感をまとめておこうと思う。今後俺の考えが変わる可能性はいくらでもあるが、いったん備忘がてら。と書き出しをつけてから2ヶ月くらいたったので、これから書くのは2月はじめの話です。


実は1話を読んでそのあと読んでいなかったので、本誌のほうで読み始めたのは堕姫からお兄ちゃんが分裂するあたりから、それもぜんぜん前後わからず適当に流し読みしていたのでよくわかっていなかった。1話は読んでた。
連載開始時に読んだときは、ずいぶん静かなスタートを切る作品だと思った。家族が死ぬ、鬼、刀、よくあるよくある、あれ?主人公覚醒しないんだ。心的には覚醒しても物理的には雑魚of雑魚、妹のほうが強いままさすらうはめになる一話の終わり方を見て、この構図を計算してつくっていたら作者もジャンプもすげえな、がひとつ、バランス間違えた瞬間これ終わるだろ、がひとつ感想としてあった。一般的には少年漫画の一話では主人公が覚醒しないといけない。その強引な理由付けがいかに説得力を持つかがスタートダッシュの差の付け方だ。
ともすればつかみから失敗しているように見えるこの作品は、しかし決意という一点をもって主人公性を成り立たせ、ふつうの人間である炭治郎をふつうの人間として描ききっていた。一話の段階ではどう転ぶかわからないというのが正直な感想だった。
 
話題になってきた半年前くらいに蜘蛛家族らへんまで単行本をガッと読んだ。正直さほどおもしろくなかった。もちろんつまらなくはないけれど、でかい声で正論を言う炭治郎はふつうに苦手な奴だったしそもそも斬撃の描写になんとなく、少年漫画っぽくない感性を感じて、“変”な漫画だなと思っていた。少女漫画特有の、背景をお花で埋める描写に近い描かれ方だと思うんですよねあれ。キャラが揃ってきたこともあり、独特のギャグ(おもしろい)が飛び交うようになったのもこのへんからだと思う。「鋼の錬金術師」でいう「地下の妙な気配」じみたものを感じた。これは打ち切られない。でも俺の好きとは違う。「ハイキュー!!」や「僕のヒーローアカデミア」が中堅、トップを張りつつある中で得体の知れない漫画が着実に人気を得てきていた。

わからないことがわかっていた。そして、鬼滅への違和感を細分化していくと、過去に何度か似た感覚を経ていることに気づいた。

あえて、あえて単純にいうと、俺の中で鬼滅の刃は「家庭教師ヒットマンREBORN!」と同枠に入ってくる。「ヘタリア」でもいい。「刀剣乱舞」でも構わない。(刀剣乱舞は土壌を耕す意味で確実に鬼滅ブームの基盤にはなってるだろうと思う)最近だったら「ヒプノシスマイク」でもいい。ヒプノシスマイクは「カゲロウデイズ」のじんあたりから土壌があるところにうまくぶち込めた感じなのかしらと思っている。そういう方向性で行くならそもそもボカロ、リンレンでわちゃわちゃしていた層もきっと鬼滅にはまっているはずだ。

さて、共通項はなんだろう。
わかりやすく言うなら「女子受けがいい作品」だと思う。ではそれはどんな作品か。そう、今回なぜそもそもこういう話ができるかというと、俺は上記のコンテンツ群になにひとつハマっていないからなのである。しかし事実として上記のコンテンツ群はヒットした。大ヒットした。ランニングホームランレベルで盛り上がった。そのたびになにがおもしろいのか、どこに良さを感じるのか、さまざまなオタクに尋ねてきた。だからこれは俺の備忘録で、鬼滅の刃ひとつでおさまる話ではないのだ。

さて。

結論からいうと、自分の中では、「女子受けする作品」を「関係性が楽しい作品」だと考えるとしっくりくる。そのうえで僕が言いたいことの二つ目は、確実に令和以降の世界ではこの「関係性」が覇権を握るという話だ。ここ数年に関して言えば、女子受けのいい作品が男子でも楽しめるものだったとき、「社会現象」と呼ばれるレベルのヒットが生まれているとすら思っている。

さて、「関係性」への萌えは、驚くほど男性には伝わりにくい概念だと認識している。「関係性が好き」とは「AとBが仲良し」という概念に、「AとBは仲良しだからこんなことやあんなこともしているだろう」とか、「AはCとも仲がいいけど、じゃあBとCが2人のときってどんな会話をするのかな!?」みたいなことを考える感覚のことを指しているんだけど、これ、傾向として男性には明らかに少ないと言っても過言ではないと思う。というか、言われればわかるものだけどそんな気になる?みたいな感じで。そういったある意味他者の関係性に一喜一憂する感覚にはやはり男女差を感じる。この主張への反例として女児アニメ好きの男性が挙げられるのかなと思うんだけど、そう言われると女児アニメの人気のあり方は比較的似ているような気がしてきた。ただ、かつてけいおん!を始めとしたゆるふわ女子4人組が送りがちな日常系コンテンツが爆発的に売れたころ、まわりの男のオタクの主流は「○○がかわいい」に終始していた。この場合のコンテンツの見方はやはりグループの関係性ではなく、自分vsキャラクターなのである。当時もあれを百合作品として消費していた人もいたが、いわゆる流行の先取り層であり、遅れてやってくる大多数の「流行りにのって観る」層は違ったと思う。そう考えると百合はたぶん関係性への萌えとして、進んだ(?)方向性にあったのだろう。流行として進んでいるだけで、ジェンダーフリーが今の時代の流れでこのまま推し進められていけば異性愛ブームみたいのも揺り戻しで来そうな気もするから、進歩的だとか言うつもりもない。そもそも個人差は人間なら誰にでもあるし、そこに人の美しさがある。

何の話だっけ。

これは親しい人にはけっこう言っているんだけれど、コンテンツの摂取の仕方で男女でかなり根本的に違うなと思うのは、「主人公に没入して世界を見るか」「主人公の横で、主人公と共に世界を見るか」という部分だと思っている。前者が女性、後者が男性に多いという認識を俺はもっている。客観性というと妙にきれいにまとまるので嫌だけど、自分はかなり作品を外から見る傾向がある。個人差はあるが、上から見るというより、主人公の横顔を見ながら同じ世界にいるイメージだと思う。少年向けラブコメに主人公と自分を重ねる男はまず存在しないんだけど、少女マンガは思っている以上に自身をがっつり投影している人が多いみたいだ。善悪の話ではない。繰り返すが、善悪の話ではない。しかも主観だ。完全に主観にすぎない。それに成長するにつれその境界は曖昧になっていくし、切り替えて読んだり観たりすることができるようになっていく。少女マンガをウキウキで読める男性はBLが好きな女性と近い感性を持っているのか問題は、はっきりした答えが自分の中では出ていない。別に曖昧なものは曖昧でいいと思う。むしろそれは歓迎だ。境界が揺らぐのは世界が広がったまま許されるということで、揺らがせたままの状態が、そのまま受け入れられることが多様性の共存に繋がるんだと思う。

この境目をゆらがせるにあたってたとえばビデオゲームの能力は高いと思っていて、ビデオゲームにおける主人公に自分がなりかわって進めていく、主人公の名前を自分で決める、といった手法は本や映画にはできないものだ。この方向性から男女両方にウケるコンテンツとして(結果として)アプローチできたのがアイドルマスターなんじゃないだろうかと思ったりもする。プロデューサーという匿名化された主人公による存在感の希薄化。もちろんデザイン面も調整していく必要があるし、「アイドル」というのもまた古くからある巨大な「関係性」のコンテンツであり、俺にはアイドルの良さがなにひとつわからないのでこれ以上の言及は避けるが、シナジー効果は計り知れないものがあったのは事実である。ひとつ言えるのは、アイマスは男女問わず非常に人気のあるコンテンツとして今も君臨しているということだ。

またずれた。

さて、関係性の話に戻ろう。
ボーカロイドにおける物語性のある連作(悪の娘?くらいから始まり人生リセットボタン、カゲロウデイズで盛期をむかえる)があれほど売れたとき、センセーショナルであるゆえにとてもおもしろいと思ったのは事実だ。だが数年後に書籍化するなんて思いもしなかった。2020年になってもカラオケでボカロソングを歌うとバックに謎のファンアートが写るなんて、予想できなかったよ僕は。当時は息が長すぎると思ったけれど、いま考えるとたしかに長く続けられるのだ。ボーカロイドは固い基本設定がありながらカスタムの自由度が高いソフトウェアだ。当初意図されていた歌声への最低限の補足である設定は、それゆえ無限の解釈の可能性を生み出した。創作が手軽になり、投稿、拡散が急激に容易になっていった世の中では、これまで以上に二次創作は栄え、そのための「二次創作しやすい」コンテンツは繁栄する。

では二次創作とはなにか。Wikipediaによると、「二次創作物とは、原典となる創作物に登場するキャラクターを利用して、二次的に創作された、独自のストーリーの漫画、小説、フィギュアやポスター、カードなどの派生作品を指す。」とある。
「キャラクターを利用して」、これがおもしろいところである。たとえばドラゴンボールでは7つ集めると願いが叶う、といった強力な設定がある。しかしドラゴンボールの二次創作を探しても、オリジナルキャラクターが仲間を集めてドラゴンボールを探す旅に出る話はそうそう見つからない(ないことはないと思うけども…)。結局ほとんどの物語はキャラクターなのである。ちなみにその点ポケモンはキャラクター(ポケモン)自体が世界(設定)なので、ポケモンを飼う社会人の話みたいな二次創作が出しやすいのすごいと思ってて、そのうえでソードシールドではパンチのあるキャラクターをこれで遊べとばかりにぶつけてきているのが胸焼けするほど時勢に合っていてびっくりしてしまった。任天堂作品は、時代をいやらしいほど外さず、時代をつくっていく。
また話がそれてしまった。

さて、キャラクターなのである。二次創作のほとんどは、キャラクター同士を(性的なものを含むにせよ含まないにせよ)絡ませて、自分の好きに遊ぶ行為に終始する。遊びやすいキャラクターとは何か。先ほどボーカロイドで考えたように、ガワとなる基本設定は強固で、かつ多少いじくりまわしても壊れないようなキャラクターがいい。これが、戦闘目的でキャラが足されがちなジャンプ作品や、キャラにストーリーが要請されるキャラガチャのソシャゲと二次創作の相性がいい理由のひとつだと思う。コミケだって00年代以前の出展者は圧倒的に女性のほうが多かったわけで、キャラ萌えという概念はえぐいほとどその頃のオタクが確立してきた。僕は残滓しか覚えていないが個人HP文化の果てこそ今のLINEオープンチャットであり、LINEオープンチャットでアニメ•マンガのところに行ってみればなんとなく、この文章全体を通して言いたいことがつまってるんじゃないかと思う。見たことない人は一回見てくれればわかると思うので行ってきてください。夢女子と夢男子でググってみて、ヒットする感触で確かめるという手もあるよ。


ここで本当ははじめのほうに言いたかった話題が出せる。二次創作は、そのまま宣伝になるという話だ。広告というものがどれほど金を食うか、そしてそれだけのリターンがあるか、という話は本屋でちらっと棚を見るだけでわかると思う。マーケティングの本はライトノベルがごとく無尽蔵に出版され、事実売れている。Twitterでも驚くほどたくさんのファンアートは流れている。基本的に女性のほうが傾向として共感をもとめがちであると俺は思う。とはいえ女性らしさとはみたいな話にもっていくつもりも興味もなくて、商業主義はある意味で非常に公平に、現状を平易にとらえる。少なくとも今の世の中で、(二次創作をはじめとした発信という形態であったとしても)結果として声高に作品の宣伝をするのは女性のほうが多い。
女子受けがいいと売れるのはなぜか、それは簡単で、女性は声を上げて宣伝し、金を払うからである。もう何年も前の話だが、女性のほうが無生物への愛情を抱きやすいという論文を読んだことがある。グッズという概念を思い出してほしい。キャラのグッズ、やっぱり女性向けのほうが売れるらしい。もちろん、もちろん男も買う。フィギュアは高額な趣味な気がするな。分析、収集みたいなコレクションはちょっと方向性が違って男性オタクのほうが好きな人多いイメージがある。宝石や日本刀なんかは特殊例だと思うけど。これを男女の生来的なものみたいにちょっとでも受け止められうる表記をすると差別とか言われてめんどくさいんだけど、まあどっちかといえば文化的な土壌であって後天的なものも大きいんじゃないかと思う。問題にしているのは実際この世の中で出てくる数字であって、とにもかくもライトユーザーの購買力は男女差がある。

それがインターネットによって昔より遥かに可視化されたことで、女性オタク向けコンテンツは急速に充実していったように感じる。売れるものをつくるに越したことはない。コンテンツから二次創作、グッズが生まれるのか、はたまた二次創作、グッズ化しやすいコンテンツを企業側が用意するのか。

適切な関係性エピソードを公式が用意すればその何十倍、下手したら何百倍、何千倍のオリジナル創作がインターネットで語られる。丁寧に準備され、パッケージングされたパーソナリティを使って「自分だけ」の物語をつくる遊びが流行っている。

中高生のころ、ファミレスのドリンクバーを混ぜまくるのは悪いことだとされていた。近年は、おいしい混ぜ方レシピみたいなものがドリンクバーに張り出されていたりする。それ自体は体験型のサービスの価値を認めていく方向に社会が動いているいい話だと受け止めていた。

さて、創作でそれは、どこまで広がっていくのだろうか。
公式とファンが共に手を取り合ってというと聞こえは良いが、これがコンテンツの主流になっていくのは怖い。やや違う方向の話だけど、昔「バクマン。」で1人が複数人にマンガを描かせて人気のあるものを自分の作品としてやっていくやつがいた。おもしろいはずなのにつまらなくなっていく様子がとても恐ろしかった記憶がある。当時は読者人気を第一にとる週間連載漫画雑誌への強烈な皮肉だと思ったけれど、話を広げれば今の人気コンテンツの収益体制はそれとそこまで隔たりないのかもしれない。

 

ドリンクバーで好きなものを混ぜるようなコンテンツが多すぎる。実際に楽しいのだから始末におえない。メインディッシュよりもドリンクの種類を増やしたり、調味料を宣伝したりしたほうが売れてしまうのだ。パッケージングされた設定を使って人々が自分の物語をつくり、盛り上がっていく。なんだったら本編には終わりは要らなかったりするのだ。

 

俺にとって二次創作とはVRが成し遂げられなかった体験のコンテンツ化をこれ以上ない市場規模で実現しているコンテンツなのだ。
そしてそれを支えるのが公式から供給される「関係性」であり、それをライトに消費していくユーザーだ。

Twitterで流れてくる絵で知った、みたいな拡散のされ方が当たり前になって久しい。作品それ自体の重み以上に、いかにキャラクター同士の「関係性」を料理してもらえるか、楽しんで遊んでもらえるかを意識したパフォーマンスが金を生むことに気づいた世界が成熟しつつある。

 

つまるところ、主人公の物語を、ユーザーの物語といかに並列して両立させるかが肝となる。終わりが欲しい人間と、終わりが要らない人間の両方が楽しめる作品であるとき、それは爆発的なヒットを生む。どちらの層も被っているし、その境目が自然に溶け合っているものが社会現象的ヒット作だ。

 

あたりまえのようにコンテンツの枠組みが変動している。善悪と関係なく、時代は進んでいく。


いいですか、ぜんぶ俺の主観です。