ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

ネットで怒るのはめっちゃ楽しい

 やたらと大きな銃で人を撃つ夢を見た。案外難しいもので、全然当たりやしなかった。

 

 

 お久しぶりです。

今日もインターネットでは人が怒っている。自分の思い通りにいかなくて。他人の行為が許せなくて。理不尽な社会が大きすぎて。

春から夏にかけて人間は活発だ。なんの調査もしてないので証拠は一つもないけれど、いつもこの時期な気がする。新生活もひと段落、五月病も徐々に回復し、自分の生活にいっぱいいっぱいだった人たちが暑さに任せて戦いだすのかもしれない。暑いと体は元気なのにストレスがたまるので、暴論も捗るような気がする。まあ単に僕がこの時期疲れていることが多いからそう見えるだけかもしれない。元気いいなあ、何かいいことでもあったのかい、と、そう聞きたくなるほどにインターネットには怒りがあふれている。

 

 人間が怒る理由や、なぜ怒りやすい人間がいるのかずっと考えていた。何も言及できなくなったのでやめることにした。こういう人は怒りやすいとか、そういうことを書いた本やサイトは腐るほどにあるけれど、だいたいがいまさらどうこうできないことや、因果が逆なことばっかり書いていた。昔は怒るのとかほんとうに馬鹿かよなんて思っていたんだけれど、怒らなければ戦えない場面や、怒れないやつが死んでいく世界だってあって。そもそも防衛反応の一種だと考えると多くの怒りはなにかを守るためのものなんだろう。くだらないものだって本人にとっては大事なものかもしれない。

 

 問題はたぶん、怒るために怒っている人がいることだろう。娯楽として怒りを消費する機会が増えていることだろう。

匿名ゆえに罵倒の攻撃性が上がるという話はインターネットの文脈で長らく言われてきた。報復を恐れたり、相手の背景を気にしなくてよいと人は引くほど攻撃的になる。怒るのは楽しいのだ。勝てる相手をぶちのめすのは楽しい。それがなにも生まなくても。それが自分の品性を落とすことだとしても。そんなことは、知ったこっちゃないんだ。そりゃそうだろう。

簡単に楽しめる、中毒性がある遊びは楽しい!なあそう思うだろうハム太郎!?

炎上ビジネスが流行るのもしかたない。怒ってる人を煽るのは簡単だ。怒るのに慣れた人間を怒らせることほどちょろいこともなかなかない。向こうも好きで怒ってるんだ。感謝のひとつももらえてもおかしくない気がしてきた。あれ、感謝してもらえる気がしてきた。慈善活動の可能性がある。前向きに行きましょう。

 

怒るのは楽しい。

 

 

ネットがあると怒るのが簡単になる。合法ドラッグみたいなもんだ。情報は無限に与えられる。自分にあった情報を選んで怒ればいい。それが正しいかどうかなんて一切関係ない。ステージにあわせた怒り方がある。レベルアップするほどに多彩な怒り方ができるようになる。

 

 そうだ。すでに情報とは、正確さと切り離された概念だ。当たり前なんだけど、意外と意識されてない気がする。

 

 顔合成、音声合成技術が進んだそう遠くないポストポストトゥルースの世界では、一切の情報が信用できなくなると言われている。すでに炎上やデマで政権交代がバンバン起こっているこの世界は、このままいくと一周回って誰も間接的な情報を信じられなくなるようになるとかなんとか。俺はさほどおかしな話でもないと思う。

そもそも「完璧な情報」を得るのは無理なんじゃないか。最近はそんなことを思っている。完璧な情報を調べるには世界は速すぎるし、時間は少なすぎる。すべてを探し続けてたら僕たちは何もしゃべれなくなってしまうし、それを是とするにはあまりにも人は寂しがりだ。ニュースが知りたいんじゃない。大きな声でしゃべりたいのだ。人に伝える物語を必要としているのだ。ここで、娯楽としての怒りは陳腐なストーリーテリングとしての一面を見せる。そこには物語の主人公としての自分がいる。正義の味方として、次々と現れる悪の情報をやっつけるゲームだ。

 

 だんだんわかってきた。すぐに怒ることがなぜ嫌なのか。

これはシナリオがつまらないクソゲーを見せつけられることへの不快感だ。もうちょいさ、もうちょい面白いゲームあるだろ、と思うけど人の勝手だからなかなか言い出せないアレだ。

 

怒るのは楽しい、これは前提だ。その上で、怒ってばっかりになってしまう人が少なくない理由をずっと考えている。シナリオがつまらないクソゲーをしたくなる理由はなんなのか。いまのところ大きく2つあるように思う。

 

 一つは何度も述べてきているように体験型のゲームは楽しいからだ。自分の体を動かしてスーパーマリオをやるなら僕だって1-1で三日は遊べる自信がある。ジャンプして敵をつぶすだけで無限に報酬系統が活性化されそうだ。でもそれだけじゃ流行るほどにはならない。こっちはプラス要素に過ぎないようだ。どちらかというとなんでこんな人が、って人が怒り散らしてたりする理由がこっちっぽい。

 

 メインとなるもう一つは、主語が大きくて抽象的になってしまうのだけれど、摂取してきた物語が少ないからではないかと思う。あんまり時間がなくて現状これ以上言語化できていなくてアレなんだけど。物語とはコンテンツだ。本でもなんでもいい。人とのコミュニケーションだって壮大な物語だ。学問だって一つの巨大な物語のようにとらえられるだろう。歴史なんかわかりやすいけれど、科学だって因果関係の連鎖であり、その背景には膨大な物語がある。物語の持つ力は想像力であり、読解力であり、要約する力であり、足りない情報を補う力だ。

短絡的に怒るほどに物語を吸収する時間は減っていき、物語が自分の中に少ないほど短絡的に怒るようになる。負の循環だ。

なんかすごいけどこの情報ほんとか?見出しはインパクトあるけど全体読んでみるか。対立する意見はどんなのがあるんだろう。誰かにとっての善は本当にみんなにとっての善なのか?そうじゃなかったとして自分は何を支持するんだ?

 

 それを論理的思考力だと、雑にまとめるのは簡単だ。でもそれだけじゃないんだと思う。もちろん必要不可欠だけど、それだけだったらある程度勉強してるはずの大学教授や専門家とされる人たちがクレイジーな発言をすることなんてありえないはずだ。だから「物語」という言葉をあえて使うことにした。ここには倫理観や複数の視点を持つといった概念が含まれる。フィクションであれノンフィクションであれ、体系だった物語を蓄積することは思慮を深めるための力となるんじゃないかと思う。物語をひとつ得ることは、他人のことを知ることだ。それはすなわち、他者の物語へ敬意を払うということだ。それを一定量こなしておくことは、一般に思われている以上に、これからの時代にかかせないことなんじゃないだろうか。

 

情報が多すぎて、なにも役に立たないということがある。判断の基準となる力はそれまで自分が築きあげてきたものでしかない。だから物語を摂取する時間が減っている世界は危ない気がする。なんにでも手を出せるからこそ、なんにも手を出さないということが少なくないように思う。

 

 単純な感情は大切だ。でも単純な感情に任せた生き方はダサいのだ。

 

 怒るのは楽しい。

 

 怒るのは楽しいから、怒ってばかりいると何もわからなくなってしまう。

 

完璧な情報を手に入れられない僕たちは、それでも何かを考えて。誰かと話さずにはいられない。

 

 

どうせやるならかっこよくやりましょう。

 

この平凡で凡庸で、無様で美しい人生は、一回きりしかないのだから。