ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

冬、あるいは11月に咲いた向日葵の話

 ひまわりが咲いていた。こんな季節にまた、ずいぶんと世界は残酷だなと思った。よりにもよって車道の真ん中の花壇に植えられていて、まったくもって理不尽なことだった。


 社会人になってしまった。

おれは存外就職活動をきちんとやっていた。それはインターンに行きまくるとか面接対策をするとかそういうのではなく、どんなとこなら生きていけるかをちゃんと考えたという話だ。休みがちゃんと取れて異常な能力を保持していなくてもやっていけそうなところを選んだおかげで、まだ退職エントリを書かずに済んでいる。給与はまわりと比べりゃ笑うほど低いけど大卒平均くらいはもらえているし、やっていくには十分だ。妥協せざるを得ないというよりは、そこは妥協できる部分だった。死ぬ気でやれば人は死ぬ。体力の無い人間は、できる仕事も限られる。淡々と、淡々と日々が過ぎていく。


ひまわりは正直おせじにもきれいとは言えず、ひょろひょろの茎をのばして咲いていた。花も今にも枯れてしまいそうな姿で、なおしぶとく咲き残っていた。

変わり映えのない風景に妙なノイズが入ることに、何を感じたのかよくわからないでいた。懸命なその生命力にうたれたのかもしれないし、場所を変えることのできない植物の姿に憐れみを覚えたのかもしれない。とにかく僕はそのひまわりのことを気にしていた。ガードレールや電柱や、街灯なんかのことよりも。日常は残酷で、異物も風景に変わっていってしまう。そうなる前に枯れて欲しかった。


日々は最高速で過ぎていく。

なんのために咲いてんだよ、思うたびにそっくり自分に返ってくるので腹が立った。生きるためにそこにいるしかないのはお互い様だ。ひまわりからしたら毎日同じような時間に死んだ目をして歩いてくるやつのほうこそいい迷惑だろう。そもそもひまわりを擬人化するのもたいがい失礼な話だなんて、めんどうな自分がのたまっている。

とはいえ、それは知らない社内の人と何が違うのかと聞かれると何も違わなかった。認知は不可逆で、感情というのはいつでも一方通行なのだから、はたして本当に失礼かというとそれもまた僕のエゴにすぎないのだった。


 ふと、気になって尋ねてみると、まわりのだれもひまわりのことを知らなかった。そこに花壇があることは知っていても、花が咲いていることを知る人は少ないようだった。なんてことだ。あんなに近くで咲いたのに。おれが毎日みている景色は、グループのだれも見ていなかった。ひまわりはあれだけ咲いているのに、冬の花ですらないのに。ああまたこれか、と、驚くよりは諦めがあった。人の知覚は驚くほど多様で、同じような道を辿って、同じような仕事をしている人だって見えているもの、感じていることには天と地ほどの開きがある。花でさえこれだ。いわんやこの世界をや。最悪な話だ。ふざけた話だ。でもありふれた話だった。
人間は、みんな違う生き物だ。振り切ったはずの感傷が、割り切ったはずの人の心は、ふとした瞬間に何度も背中を刺し抜けていく。こわくてこわくて布団に閉じこもる。なにもしないを必死でやる。息を止め、液晶の白を頼りに夜の中に潜った。深く深く、何も見たくないから暗闇は水の青さに似ていた。誰もいない世界を夢見て、優しい人間でありたいと願って、でもそれはなんの解決にもならないことを知っている。目を閉じて耳を塞いでいても、進む限りは人にぶつかるのだ。なんの物語もいらないと、叫んだその口に濁流が流れ込むのだ。雷鳴の果てに、霧氷のかなたに。特別でないすべての人間は、凡庸であるがゆえに嵐の中を進まなくてはいけない。

すこしうつむいたひまわりを後にして、会社に向かう日々が続いた。

 

ひまわりはある面では自由なのかもしれなかった。なにを気にすることもなく、だれの助けもなくとも花はそれなりに咲き、勝手に枯れる。それはたしかに自由で、他者の干渉を許さなかった。存在さえ認知されなければ、感傷すら拒絶できた。だからこそ、俺はひまわりに咲いていてほしくなかった。それを幸せだと認めてしまえば、振り返らざるを得なくなる。広がっていた道が、今へと収束するさまを直視せざるを得なくなる。ほかの全ての俺を殺して、俺はここまで来たというのに。そのすべてを肯定できるほど、俺は人間ができていないというのに。

 

 否定できない自分自身を、他者のことを、置き去りにしないために言葉があってよかった。

未完全で不十分なものがあってよかった。この未熟のなかに祈りがあって、それがどれだけうれしいことか、歳を重ねるたびに強く思う。ありふれた悲しみや喜びを、少しでも言葉にできることを、それを諦めずにいられることが、どれだけ僕を支えているのかということを。嵐の中で自分を見失わないように、否定しないようにいられるのは、自分自身に他ならないのだ。

 

本当は知っているのだ。雷鳴に果てなどない。豪雨のむこうには、さらなる豪雨があるだけだと。
知ってなお、進み続けることを覚悟と呼ぶのだと。その瞬間、確かに生まれるものを尊厳と呼ぶのだと。


ひまわりが咲いていた。

11月に咲いたひまわりはしぶとく、しぶとく花ををつけている。どうにもできないことがあまりにも多い。まったくもっていまいましい。一瞬たりとて働きたくないんだ。やるしかないからやってんだ。だから。どうにかできることだけを、どうにかするためやっていく。馬鹿みたいに小規模な、だれにも伝わらない日々を。守るためだけにやっていく。

俺の人生は意地で、その多くは見栄だ。本当にそうかなんて問答はとっくに終わっている。意地であり、見栄であるからこそ、俺は俺を捨てられないのだ。嵐に飲まれ続けても、ちっぽけな幸せを守ろうと足掻く意志に、大層な理由などないのだ。

 

無常な日々を過ごしていく。ただ生きるために生きていく。きっともうすぐ枯れてしまう、その速度だけがやけにリアルで、そこから逃げて、逃げて、逃げて、逃げて。もがく果てにある一瞬を、その連続が見せる束の間の永遠を、この身を賭けて掴み取ろうと、ずっと昔に決めたのだ。