ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

(続)どうしようもなく生きる以上は

 

はじめて文章を誉められたとき、死んでもいいと思えた。

その声を一生忘れまいと心に決めた。今だって、目を閉じればすぐに思い出せる。枷のように、福音のように。

 

これは、これの続編です

https://iriwopposite.hatenablog.com/entry/2019/06/19/003507

 


あいつはすごいんだぜ。あいつはすごいんだ。遠くで子供が大きな声を上げた。
満開のツツジにさえぎられて、少年の顔は見えなかった。
声は純粋な称賛だった。いいんだ、それでいい。人のことを貶すより、褒められた方がいい。悪いところを見るより、いいところを見た方がいい。そんなのは机上の空論だ。でも、言葉は人を動かすのだ。空論が空を飛ぶのなら、その色はきっと、青い方がいい。

 

あなたは、自分が思っているよりずっとすごいのに。


いつしか、夜に特別な意味などなくなっていた。

風呂上がりにアイスを食べた次の朝も、会社に行かないといけない。
桜が散ったからといって、仕事が減るわけではない。
徐々に日は短くなっていき、コートをおろした。自分を守るために周囲に頭を下げる。寝て、起きて、満員電車に乗る。
桜が散っても、セミが鳴きだしても、生活は続いていく。いつコートを脱いだかも忘れているうちに、次の冬が来る。

人生に特別な意味など、最初からなかった。それでもやっていかないといけない。やっていかないといけない僕のために、やっていけなかった全ての僕の墓標が立ち並ぶ。

 

人生に特別な意味などないのだから、もう、誰のことも馬鹿にできなかった。

 

 ずっと喪失の話をしてきた。喪失から逃げないための話を。
その実、失うのは簡単だ。簡単というより、わかりやすいといった方がいい。なぜって失ったときのことばかり、人は覚えているからだ。喪失は人を孤独にする。となりに人がいるときは、ひとつも思わなかったようなことでさえ、失ったあとは思い出すのが、世の常で、世界の法則だ。

喪失は必ず起こる。僕たちは何度だって人と出会い、いつか崩れる砂の城を建て続けるし、今度こそ失うまいと思いながら、同じことを繰り返す。それはひどく愚かで、無価値な行為のように見える。結局は同じように孤独になり、無意味な努力は無意味だったと、嗤う人がいるかもしれない。嗤う人は、自分自身かもしれない。

だけど築き上げるたびに、自分だけは、それが別のものだと知っている。築く相手も、城の形も違うことを、自分だけが知っているのだ。失うことなどとっくにわかっていても、虚勢を張るのだ。まるで怖いことなど何一つないかのように、過去の自分に胸を張る。──失うことに抵抗を失っていくことより、怖いことなどあってたまるか。

いいですか、僕の主観です。孤独と虚無に抗っていこう。そういう話だ。

それは他人を、馬鹿にしないことから始まる。難しいことは言っていない。ただ、他人のいいところを探して褒めようという、そういう話を懸命に書こうと思う。

 

人を馬鹿にしないとは、他者の夢と生き様に、できうる限りの敬意を持つということだ。それがあなたが建て続ける砂の城に、何度だって色褪せない、唯一無二の輝きを与えてくれる。

 

他人のいいところを意識して探すようになったのは大学に入ってからだと思う。

知らない人間と話す機会が増えるなかで、これは悪いところ探すよりいいところ探した方が健康にいいなと思った。逃げるのもありだったが、人と全く関わらずにこの先生きていくことはできないとわかっていた。(逃げれるところまで逃げるのもありだとは思うけれど、凡人はどこかで社会に追い付かれてしまいます)感じのいいやつの真似をするのは凡人にとって決して悪いことではない。流行りものには流行るだけの理由があり、それを馬鹿にするのはやめたほうがいい。形から入った心構えだって、続ければいつかは板についてくる。

 

人と仲良くするのに最も楽で効果的なのは、とにかく褒めることだ。褒めるのはタダで、金も要らない。かといって、嘘をつくのは苦手だった。人に気に入られるためにわざわざ嘘をつくほどの意欲も、調子のよさも持ち合わせていなかった。

そうすると、人のいいところを探す必要がある。人気者のような、そういうのが本当に上手なやつは、ぜんぜん意識してやってはいない。ときに適当に、ときに感覚で人の欠点や美点を見つけ出し、上手に場を料理してみせる。しかたがない、ぜんぜん人付き合いが得意ではないから、一生懸命他人のいいところを探した。いいところってなんなんだそもそも。自分にとって好ましいところだとすれば、それは他人に向き合うと言うよりは自分との腹の探りあいだった。なんだかわからないが、そういうものを伝える、言葉にするのはどうやら比較的得意なほうらしかった。なるほど、得手不得手というのはわからないものだ。面白いほどにみんな自分のいいところに無自覚で、それが腹立たしくておかしかった。

 

意味があるとは思わなかった。人のいいところをいくつ見つけたところで自分が立派な人間になれるわけではない。

なんとなく、人の悪口を言うだけのダサい人間にはなりたくないなというくらいの気持ちだった。

でもまわりの人を認められると、世界が明るくなった。周囲の人間を敬意をもって認めるということは、拡張した自分自身の世界を受け入れることに繋がるのだと、知った。

 

人を知るというのは、自分自身を知ることだ。

 

思えば小さいころあまり褒められた記憶がない。大切なのは結果ではなく過程だという、教育方針だった。さらにいえば、適切な努力を積んでいれば結果も出るはずだと、そういう理窟なので、結果のでない努力は努力ではなかったし、結果が出る頃には努力フェーズは終っているので、とくに誉められるタイミングというものがなかった。とはいえまあ今となっては親の言い分もよく分かるし感謝しており、正直ガキを調子に乗らせていいことはあまりない。とくに俺なんか調子に乗りやすいガキなので下手におだてりゃ手のつけられない傲慢なクソガキになっていたことだろう。都内には学習塾に通って多少計算速度が上がったことで調子に乗ってしまうガキというカテゴリが存在するのだ。他山の石はちらほら見ていたから、重々気を付けていた。小学校はイジメもはびこっていたし、窓ガラスもよく割れた。出る杭がこの世界でどのような扱いを受けるのか、学ぶに十分なものだった。

 

だけど妙なのだ。俺の知識は虫に詳しい高田くんの足元にも及ばないのに、高田くんのほうがバカだと笑われるのだ。

横断歩道で馬鹿正直に手をあげる朝倉さんのことを俺は好ましく思っていたが、彼女は運動ができないから虐められていた。

 

ああこれは、運なのだ。

はっきりと自覚したのは小学校4年生くらいだったと思う。ファンタジーが好きだったから、魔法が使える使えないも、王族に生まれるのも世界を救う勇者になるのも、運命だと知っていた。現実だって同じだと気づいたとき、最悪だと思った。どこまで考えたかはもう覚えていないが、とにかく悲しかったのだけ覚えている。世界はあるようにあるだけで、そこで生きる人たちはだれも平等ではないのだとわかった。そう考えると理不尽の都合がついたし、そうじゃないと説明がつかなかった。突き詰めれば努力できるかどうかも運なのだから、過剰に自分の努力を誇ってはいけないし、同時に謙遜しすぎるのも他人に失礼だと思うようになった。なにかができる環境にいて、適切な努力を踏めば、ある程度のことは達成できる。自分を嫌うのも、他人を嫌うのもナンセンスだと思った。そんな世界のことは、大嫌いだった。

 

もう少し成長すると、もっと色々な人に出会う。

恵まれた環境にいるのになんの努力もしない人、その逆もしかりだ。自分だってなにかしら頑張ったりした経験ができてくる。全部が全部運だったら、今ここにいる自分は救われないだろうと、そう思ったのが10代後半か。

成功は努力からしか生まれない。その努力はほとんどが孤独から生まれ、多くはただ、自分が自分でいるために努力をするのだ。そういう、当たり前のことに気づく。環境と運を超えた先に、個人の意思が必要であることを、ようやく認められるようになる。

そのころまで、できるやつは畢竟できるからやっているんであって、それを褒めたりするのはナンセンスだと思っていた。結果に対してすごいね、という称賛はもちろんあるけれど、やろうと決めたことを、やったということでしかないと、そういう考え方があった。それは一面では正しいが、正解ではなかった。環境は世界の領分だ。でも、意思は個人の領分なのだ。もちろん環境によってできたものの見方というものはある。それでも、意思は環境よりもずっと、個人で変えられるものだ。

 

あなたは、自分が思っているよりずっとすごいのだ。

 

そして人を褒められる人間になろうと決めた。

人間は自分の好きなことや得意なことが、ぜんぜん自分ではわかってないんだと気づくようになった。

そのころだ。あなたのお陰で頑張れたという、声を聞くようになった。

それは身近な人間から、ネット上で知り合った人までさまざまだった。自分は大したことをしたつもりは毛頭なかったのに、結果的にすごい業績をあげるような人から、あのときの声で~という話を聞いた。そういう話は得てして忘れた頃にやってきて、そのたびに嬉しい驚きとして心に残った。

人を褒め、他者の夢と生き様に、できうる限りの敬意を払うということ、これが喪失による孤独と虚無に、抗うための手段だった。変容する価値観と、繰り返す出会いと別れのなかに、小さな祈りだけが厳然と屹立するのがわかった。それは運と環境がつくる世界にあらがって、最初から出会わ無ければ良かったという声を、何遍だって否定する。だってそうだろ?人生に特別な意味など無くたって、自分だけの大切な出会いを無かったことにしていいはずがない。

 

とどのつまり、自分を形作るのは自分であると同時に、あの日あの時の他者の声なのだ。ときにそれが意思決定の大きなきっかけにすらなり、胸のなかで生き続ける。

こんな自己満足なブログひとつとったって、続けられているのは結局、他人が褒めてくれたからというのは大きい。いつかのだれかがこれを読んで、何かが変わるかもしれない。もしくはそのだれかは、未来の自分かもしれない。

 

努力は孤独のなかに存在する。これは真理で、なにも行動しない人間がなにかを成すことはありえない。環境は大きすぎる決定要因として機能する。でもそれは、個人の意思を否定することには繋がらない。

そして言葉は人を動かすのだ。あなたを肯定してくれた人の声が、いつかあなたをあなたにするのだ。

 

どうしようもなく生きていくのだ。

やっていくというのが、やっていくしかないというのがどういうことか、そういう話をしている。

だから当たり前の話を何度だって、繰り返す。

桜が咲いて散るように、君が生きて、死ぬまでに何度となく、繰り返されるすべてのように。

──そしていつか、繰り返す祈りが円ではなく、螺旋なのだと気づくのだ。

 

 


あなたは、いつだって、自分が思っているよりずっとすごいのだ。

 

 

それは浅い文ですか?

 


 何も正しくないと思った夜も生きているということ。
どこにも行けないような気がしている。何かをやり残したまま、漫然とした人生を進んでいるような。「漫然とした人生」という言葉が、自然と出てくるようになった自分が恥ずかしいようで、でもどうしようもないじゃないかみたいな開き直りも共にあって。
人の別れもそうだろう、無いというわけではないけれど、あるかと聞かれるとないと答えてしまうような。深く思い出になるような瞬間は少ししかない。それでも生きていくから、無駄なことなんて何もなかったと笑って言えるようでありたい。


みたいな。

 
 なんにも言ってない文って思ったより簡単に書けるな。でもたぶんそれなりに人気が出るんじゃないかとも思う。自分でやってみればすぐわかる。ふわっとした共感をパターンと手癖に絡めて、アクセントのある比喩で味付けする。雰囲気が大切だ。
こういう調子で毎日欠かさず無を生み出していけば何かになれるのだろうか。何かって何だろうか。まあ、それを継続できるならやっぱり才能なんだろうとは思う。これは落書きではなく作業だから、職人の才能だ。
浅い文ってなんだろう。「浅い文」という言葉を容易に使うのはよくない、というのはわかる。ただ最初の文はなんかいやだな、と思う。何が嫌なのかわからない。無を書くのは特に力が要らないな。息を吐くように書ける。でも息を吐くように無を書くくらいなら、
死んだ方がいい。


労働がしんどいと趣味ができなくなってくる。根を詰めてゲームができない。せめてもと適当なアニメやドラマを観る。ベッドに横になり、我に返って飛び起きて、やりたいことを気合でやっていく。
やりたいことがやらねばならないことになっていく。いや、そうしなければできなくなってくる。日々が脅迫だ。今やらないと、もう二度と動けなくなってしまう。死ぬ前にこの本だけは読まないといけない。あと何度この場所にいられる?

 

……ああ、不意に腑に落ちた。

バラエティ番組がもたらす、ふっとした笑いは、多くの人間を救っている。

 

 破綻なく流れを感触として理解しながら文章を書く能力と、ひりつくような言葉を脳髄から引き抜いてくる能力は別なんだろう。そのどちらも、生きていく上では全く必要ないという一点の絶望しか、共通点はない。

だから落書きは救われないといけない。全ての創作は、救われるためになければならない。

そして救いのために書いていたらバランスはきっと取れない。その速度だけが、誠実さだ。だから定量的な詩、詩のようななにかは、気味が悪い。

 

中途半端に行間をつくって、ロールシャッハテストのように他者に解釈を委ねる文が怖かった。
もともと、詩自体は確かにそういう側面を持っている。詩の解釈は読み手次第だ。
でも、表出した自己は、生まれた瞬間は元来それ以外のものを投影しないはずだ。

曖昧な言葉に深そうな解釈をつけさせて消費させるタイプのコンテンツが共感を集めまくっているのを見るのが怖くて怖くてずっと目を背けていた。
ケータイ小説が学校のクラスで流行ったときに感じた怖さと、Twitterでアボガド6に出会ったとき再会した感情は一緒だった。あれがプロトタイプだ。全部そうだ。まさしくそれは体験型のコンテンツだった。


それは君の物語だ。これってあたしだ、ってやつだ。
そうだ、お前であり、誰でもいい。

 

霞のようなコンテンツの制作者が、その顔があまりにも空虚に感じてわからなかった。
でも大人になって、やりたいことができなくなってきてわかってきた。ふわりとした余韻は気持ちがいい。君だけの物語をつくりたくてもつくらなかった全ての人にとって、その土壌を用意してもらえることは確かな福祉なのだろう。
君の感性に寄り添うように、言語化された情景は、無印みたいに機能的で心地いい。あとは並べたり、そろえるだけで思いのたけを表現できる。それは多くの人間を救っている。
空虚で無意味な文は、意味を与えるパッケージとして、大きな意味を持っていた。今はその価値がわかる。それは価値あるファンデーションで、冷凍食品みたいな詩が世界を救うのかもしれない。

まったくお笑い種だね。どこに非難されるいわれがあるっていうんだ。インスタントな共感は、何も悪いことじゃない。
そのとおりだ。なんでだろうね。諦めてしまえばいいのに。だれもそんなこと気にしちゃいない。

だけど俺はそれで満足できないんだろう。だってそうだろ、空なんてなくても、最初から僕らは飛んでいたのに。

落書きでいいんだ。落書きでいいんだよ。
落書きでいいから、立ち上がる瞬間が見たい。立ち上がったとき、あなたはすでに飛んでいることに気づくだろうから。

 詩情は暴力性をはらんで暴風を突き進む。プリミティブな感情を自分の中から奪い返して叩きつける所作こそが祈りで、だとしたら綺麗な空なんて要らないんだ。
逆なんだよ。飛んでいたかったんだ。空が欲しかったわけじゃないだろ。

 

空なんて要らなかったと叫ぶために、落書きは救われないといけない。

 

 


――冬の蛍の写真を君が撮ろうといったんだ。僕にはその記憶だけでいい。
でも君に渡すわけにはいかない。それは君の物語なんかじゃないから。

頑張りすぎる人はすごくてすごいから勘弁してほしいという話

 

季節は次々死んでいき、人はどんどん精神を病んでいく。

気温や気圧と鬱病の相関は凄まじくって、この季節になるとパタリと皆さん動けなくなる。
なんや普段は人生とは…みたいなことのたまっとる連中が、今日寒いな、曇ってるなってちょっと思ったくらいのタイミングで、水をあげそこなった植物みたいにウーアー言ってて、笑う。

 

まあ先天的な発達由来は脇に置いておいてさ。笑ってたら、どんどん身の回りに当事者が増えていってた。今やもう、頑張っていた人間さくさく精神病院に行ってるし、行くことになる勢いで倒れていってる。俺よりちょっと真面目で世の中の事とかに真剣な人、着々とぶっ壊れている。毎年そうだけど、今年は特に多かった。頑張り過ぎで倒れる人が、身の回りに多かった。
躁鬱だか双極だか、摂食乖離統合失調パニック適応なんでもいいけどどっかでなんかでズレが起こってしまっている。

このあたり感情は複雑だ。ある意味で、ヒーローが、ヒーローじゃなかったことを思い知らされる体験だ。頑張り屋の皆さんが無限に頑張るその姿は、俺にとっては超常的な現象であり、正気を疑う気味悪い嫌悪感すら抱く、それでもやはり、尊敬の対象だったのだ。が。


結局倒れるんかい。(笑)


倒れるんかい!!!


最悪なんすよ、最悪。


ぜっっっっっったい倒れるって思ってた人みーーーーーーーーんな倒れるのよ。
死にたがりのクレイジーサイコが、真冬に裸で踊りながら、自分だけは風邪を引かないと思い込んでいる。
努力中毒者の狂人どもが、崖に向かって全力疾走している。飛び越えられたものだけが先に行く、そういうシステムなんだろうけどさ。横の階段とか登ればいいんじゃないの?それ毎回ジャンプしないといけないの?
死なねえと思ってんだよ。ムカつくったらありゃしない。それが忙しかったり遠くの事ばっかり見てるからなおさら自分のことを考えなくなっていくんだろう。自己肯定感が低いんだろう。死んでもいいと思ってんのか知らねえけど、俺が死んでほしくないんだよ。
心当たりあるやつ全員反省してほしい。
だいたい身体が丈夫だからわかんねんだよ(偏見)、毎年インフルエンザ2回くらいかかってれば「身体に無理は効かない」ことくらい体感でわかるはずなのに、そういう経験してないから明らかに無理な生活や精神状態を継続して挙句の果てに倒れるんだよ。おまえが丈夫に生まれたのは、無理して心を病むためじゃないのよ。誰も幸せにならねんだよ。頭ついてんだから考えろよ。
頑張れとかじゃなくて、ぜんぜん頑張ってほしくない。俺の周りの誰も、倒れてほしくない。切実に、面倒だから、やめてほしい。

というか頑張り屋の倒れる姿、持てる者の末路だから正直あんまり同情の余地がないんだよな。ふつうはそんなに頑張れないからさ。なんか倒れた瞬間から弱者側に立ちやがって。なんなら倒れたその位置だって十分人より先にいたりして腹立つし。かといって友達や知り合いが倒れたとか引きこもってたらざまあみろってわけにもいかなくて、こっちも心配になるしさあ。なんだよ、お前らの頑張るって、早めにぶっ倒れることだったのか。ずいぶんしっかりした人生設計じゃねえか。そんなお前らを見てときおり反省したりしていた俺が馬鹿みたいじゃないか。なあ。
自己評価がバグってるからそういうことになんだよ。二度と自分を卑下しないでほしい。自分がどこまで我慢できて何が無理なのかくらいわかるだろうが。わかれよ。いやひとりふたりならいいんだけど、もう何人も同じように綺麗に無理になってしまっているわけよ。コミュニティ問わず、男女問わず。死なねえと思ってんだよ、倒れた後ですら、死なねえと思ってるやつが多い。まあ当事者期間中は死ぬことにとくに断続性を感じてないんだろうけどな。そんなこと考えてる場合じゃないだろうから。
俺は知っている人が潰れたと聞いた瞬間から明日そいつが死ぬと思って接しているけど、そこの境はけっして大げさなものではないはずだ。たとえばずっと先のスケジュールを立てて行動できる人が、決断力をもって自分の道を選んだようなやつが、その程度のことを軽視して倒れていくのは喜劇を通り越して肝が冷える。

うさぎと同じ速度で進み続ける亀ってけっこういるんだけど、あの亀は止まると二度と同じ速度では動けないんですよね。そういうのって小学校とかで教えた方がいいんじゃないのかと思う。

やりがいある仕事で忙しいとかそういうのなら別にいいよ。勝手に稼いで成功してくれ。問題は自傷みたいな労働や研究をやってるやつらだ。目が自分より過酷な労働環境にしか向いてない、体が腐っていることに気づかない視野狭窄の被虐嗜好者達。
二言目にはこれくらいしかできることがないとか、ここでめげるわけにはいかないとか、俺にとって全くどうでもいいことを言ってくる。全部嘘だしひどい勘違いだから無視してる。下手したらそういうのって何もやってない俺に刺さるからね。
あれ腹立つんだわ。お前が大した人間じゃなかったら俺は何だってんだよな。壁のシミか?どいつもこいつも人のために無理をしているくせに、度し難いほど失礼だ。悪気がないどころか、本気で言ってるから話にならない。100マス計算とかやって自己肯定感取り戻したほうが良いと思う。


「頑張りすぎない生き方」みたいのも人に偉そうに言うもんじゃないから好きになれない。とはいえ倒れてから「頑張りすぎるのってダメだったんだ…」みたいなこと言ったりするのも、本人からすれば発見なのかも知らんが「走ってると疲れるから座ったら楽になりました」みたいな感じがあって逆に怖い。そういうのが定期的にネットでバズったりしてさ、たいして頑張ってない奴とか同じようにぶっ倒れたバカの共感を集めてるのも怖い話だ。限界っていうのは限界だから限界なんであって、限界を超えたら破滅するに決まっている。そこに気づきも何もない。

そしたら今度は逆に「嵐の中でも泳げたらすごいと思って毎日飛び込んでたら溺れました、泳ぐのはダメ」みたいなこと言ってる人も出てくる始末で。

極端なんだよ。

 

おまえは変わりないようでよかった、助かった、そういわれることが何回かあった。勘弁しろよ。そっちが変わり果ててるからこっちは大変なのよ。
心配するのも疲れんだよ。心配してないようにするのも疲れんだよ。変わらず接してやるから、死なないでくれ。在ることに意味があるんだから。在ることに意味があるんだよ。
まあほら、俺は俺の傲慢を押し付けているだけだから、そういう意味では確かに変わりはないんだろうけども。

倒れそうな生き方してるやつ、だいたい倒れるってわかってきた
理想は現実に犯されていく。成功者だけが生存バイアスでなんか言ってる。
誰にも倒れないでほしい。無理をさ、無理をしないでほしい。俺の世界の一員が、俺に断りなく退場しないでほしい。

まだ倒れてないやつらもみんな同じだよ。健康に注意しろ。注意したら実践しろ。無理な労働や過度な心労は避けろ。避けられなかったら誰かに頼れ。

おれはみなさんの夢や自己実現に欠片も興味が無いから。反省にも後悔にも微塵も関心がないから。そのまま在ってくれることだけを十分な理由として、話を聞くことができるから。

 

これだけ書けば、自分がぶっ倒れても誰かが面倒みてくれるだろう。それに頑張りすぎない枷としても機能するだろう。

どしたん話聞くよ!!!(大声)てかラインやってる!?!?(裏声)

 

当然来年の抱負だって、死なない以外に見つけられていない。夢も希望もなくたって、毎日がつまらない理由なんかにはならないのだから。

冬と文章と意味と死体の話

 正しい文章が書きたい。背中を押すのは狂気だ。正しい文章が、正確な表現が、共通する心情が、あるはずなのだという狂気だ。

正確じゃないから届かないのだ。努力が足りないからその言葉は出てこないのだ。きっと、きっと、答えがあるはずだと。あるはずなのだと。叫ぶほど熱い思いでもあればいいのに。

ため息をついて代わりに彼は叫んだ。


単純でいたいのだ。単純でいたい。

頑張りたくない。

なんにもない。

 

ときおり見える気がするんだ。たしかに掴める距離に、正解がある気がする。闇雲に腕を振り回して、またひとつ間違える。感情にあう言葉を見つけるつもりで、言葉に感情を当てはめている。あるはずだと思って倒れ続ける。地面を泳ぐ。潜り続けている間だけ、たしかな夢を見ていられる。

 
言葉にすれば嘘になる。消えて霞のように曖昧になる。そんな見透かしたようなすべてが大嫌いだ。嘘なわけがない。足りないだけだ。伴奏も転調もカメラワークも顔も動きも無いまま、文で表現するには足が遅いだけだ。そっと拾い上げれば、ふっと息をかければ、それはどこまでも飛んでいけるはずだ。
そもそもが、絵だって音だって、嘘の一つもつけたためしがないのだ。嘘なら嘘で、その鋭さも、曖昧さもすべて届けてみせて。その瞬間へと至る空気すら、捉えて離さないように。

 

単純でいたいのだ。単純でいたい。

頑張りたくない。

なんにもない。


言葉じゃ伝わらないなんて叫ぶ、かっこいい歌がいつだって文章を馬鹿にする。反動的な懐疑論で、世界を複雑にしていく。そうやって一生わめいてろ。世界はもっと、もっと広くて、静かだ。
その静寂を、浩々たる優しさを、僕たちは最初から知っている。

 

 頑張りたくない。頑張りたくないのだ。
内発的な動機づけは内発的にしか生まれ得ない。啓発は他己の屍を、輝く言葉で飾り付ける。開いた扉さえ誰かに用意されたものなら、そんな冒険は死体の川下りだ。他人の言葉を散りばめた、だれかのアクセサリを身に着けた、終わりのない冒険。
もしかしたら、死にたくないから冒険を始めるのかもしれない。諦めて生きていくことに、前向きになる。そんなのは死んでいるのと同じだと思うとき、きっと僕らは本当の冒険を始めていて、でもその冒険は、野ざらしの死体へと続いている。

なんにもない。あるものは見えないし、ないものは言うまでもない。 


 回り続ける日常が、いつだって夢を終わらせようとしている。そこにあった感情や風景を置き去りにして、先へ先へと。先などないというのに、前だけ見ていろと言う。
心底頑張りたくないのに、嫌なことばかりだ。知ってるさ。正解には辿り着けない。いっつも寂しそうに笑うのが嫌なんだ。それでもいいから笑ってほしいと、思ってしまうことが心底嫌で。ほらやっぱり、どこにも正しい文章なんてない。

単純でいたいのだ。正解などほしくない。努力なんて生まれてから一度もしたくなかった。こんなに必死に逃げているのに、何一つ得にならない嫌なことだけが、それでも答えがあるはずだと、主張する身体だけが、ずっと狂ったまま逃げることを許さない。

 

ため息をついて彼は言う。

 

だいたい人間というやつはおかしいんだ。

ふとした光景に涙が出るとき、言葉なんて必要ない。いつか思い出すときに言葉なんて残っていない。ほとんどの思い出は言葉を忘れ、もっと大事な何かがそこに残る。それでいい。それなのに言葉は。

ごくまれに、強烈な閃光を放つ。その一瞬だけで、世界は色を変える。

 

その躍動を、僕たちはずっと知っている。

 

そんな奇跡を使いこなして、当たり前のように会話をして、文章を書く。それはとっても、あまりにも綺麗で残酷なほど美しい。この言葉をもっと上手に使えるだろうか。そうすればいつかは届くのだろうか。

言葉をひとつ、文字をひとつ、口に出すとき、紙に落とすとき、誰もそれを止めることはできない。その静けさは叫ぶような熱さを持ってはいないけれど、熾火がくすぶるように燃え続ける。その中で人は自由であることを知り、そして繋がっていることを知る。そんな文章を書けたら、きっと生きている価値があるんだろうと、彼は思って、またため息をつく。

 

この狭い空に確かな青さを

 

 北海道はクソだった。
飯はうまいし道路は広い。どこにも文句のつけようがなく、ゆっくりと滅びていこうとしていた。空が広かった。それだけで価値があった。

 昔話をしよう。全編をとおして、この文章はただの日記だ。日記の話が昨日のことだろうが、10年前のことだろうが、過去の記録には変わりない。

 あえていうなら、正義の味方になりたかった。自分がした何かで、誰かが救われるような人間になりたかった。経済学を学んだのはそういう理由です。いちばん大きな枠で正しいことがわかると思った。哲学はいちばん近くて、最も遠いところにあった。

体系的な正義について知るより、今現在できること、実際になされていることを知る方が先だと考えた。理性は不可逆的にアップデートされていく以上、哲学は救いにはなり得ないと思った。腹減ってる人間に飯を食わせるのが善だ。その横で飯を食うことが本当の幸せにつながるどうかみたいなことを考えてるやつは、少なくともその瞬間は、明確な悪だ。

 

 さて、先日北海道に遊びに行ってきました。釧路から道東をぐるっと回ってきたんだけど、またわかんなくなっちゃったわね。労働、なんなんすかあれは。夏だったから道東には無限の海と広大な畑がありました。これは∞と5兆くらいの比較であって、当然人間の知覚ではどちらも同じ、等しく果てしないものでした。こんなん海が荒れたらおしまいだし、山が崩れたらおしまいだし、そもそももとから雪が降る冬はおしまいに片足つっこんだ状況になってるわけで、世界は広いとか言葉にするのも馬鹿らしくなる景色でした。
逆説的なんだけど、東京にいないと海外とか意識しないんじゃないだろうか?北海道には山と海はあったけどアメリカは無かった。おれはいまだにドナルドトランプが実在する人間なのかリアリティが持てていない面があって、この感覚と、自分の金と国の金の関係がイメージできずに消費税を無くせみたいな暴論してるやつの感覚って地続きなんだろうけど、じゃあ境目ってなんなのかと聞かれたら、答えられない。何がわかれば偉いんだろうか、何がわかれば許されるんだ?べつに自分が起こしたわけでもないでかい会社に後から入ってそれなりに稼ぐことと、詐欺で人から金を奪うことの、何が違うんだろう。明らかに労働と賃金に因果関係はないだろ。自然というのは非常に暴力的で、雄大な自然を見ているとすべてがどうでもよくなってくる。
なんもわからん、全部許せねえ。ただ智恵子は東京に空がないという。東京には空がないと、そう言う。

 曲がりなりにも社会人になってしまって1年以上が経ってしまったので、旅行に行くとその土地の経済状況を想像することが増えた。もとから物語的な感性として知らない土地の暮らしとか考えるのは好きな子だったけれど、「生きる」=「労働する」という側面への解像度が上がったことで、「暮らし」への解像度も上がったんじゃないかと思う。「雪降ったら大変そうだなあ」くらいの認識だったものが、「雪降った日に雪かきして通勤して、寒くて、帰って、ご飯つくって風呂入って……、大変そうだなあ」みたいな感じに想像するようになった。

同時に、地形とか、インフラの重要性も昔よりはるかにわかるようになった。
地理や歴史を学ぶといい、っていうのは旅行するとき実感する。や、小学校の社会のレベルで十分だ。泥炭地で酪農、海岸が険しい漁港、潮目と漁業、濃霧、石炭の歴史、アイヌ屯田兵、適当に書いてもこれくらいは道東のトピック的に小学校で習う知識だ。覚えるかは別として、指導要領にはある。さらにいえば、もっと詳しく知ってれば、もっと詳しくその土地の暮らしをイメージできるはずだ。実際に住まなきゃわかんねえだろ、というのはもちろんあるけれど、“自分の住んでいる場所とは、構成要素が異なる場所があり、そこで生きる人がいる”、という事実を認識できるはずだ。

 とはいえ、どこまで知っとけばいいのかは果てがないので、難しい話だ。
こういうとき、最低限の知識として義務教育というものがあるんだねえという気持ちにはなるものの、なるだけだし、なるから何?みたいな部分も多分にある。基本的な地名、ましてや自国の地名なんてのは算数の九九と同じで、それがわかるからって数学が好きとかいうのとは違う話だと思ってしまうのは、学習環境という一種の分断であり、分断があるという意識はもたなきゃいけないんだろう。

 

 インフラの話にもどりましょう。
インフラは自然と違って人工的な基盤だ。
ここで言うインフラって生活インフラの話になるけれど、最近までそんなに気にしてなかった(解像度が低かった)のが生活インフラを支える人の存在です。このへんは就活とかいうクソゴミ人権侵害エンドコンテンツをクリアするうえで学べる数少ないいいことなんですが、世の中にはいろんなお仕事があるなーーーーっていう感覚が実感として伴ってきます。就活のやり方もいろいろあるので、やりたい分野に絞るor特になんも考えずやってると他のことはあんま知らないまま働き出すんですけど(べつにいいよ!)、なんもやりたいことなければ色々調べると勉強にはなるのでおすすめです。

閑話休題

インフラは自然と違って人手が必要になる。エッセンシャルワーカーとかいう言葉が流行っていたけれど、例えばコンビニは開いていて欲しいし、銀行はお金を引き出せるようにしてほしいし、その人たちが出社するためには鉄道を初めとする交通機関が必要になる。あたりまえなんだけど、なかなか、意識しないと想像がつかない。それに実際働いてる人たちは口答えするほど暇じゃないから、コロナで出社するやつ馬鹿かよみたいな話も、言われてるほうからすればあーはいはい無視無視みたいな調子でしかないわけで。
話を戻すとつまり道東の果てのほうまで電柱や道路があることってすげーーーって話です。
実際に施工した人がいて、それを指示した人がいて、そもそもそこに建てようと決めた人がいて、それを許可した人がいて。組織内で働くことで、そういうディテールへの解像度が、多少は上がってきた気がする。

 

 そう、組織というものが社会にはある。大きな仕事は個人ではできないから、仲間を募って組織をつくる。
だから会社をあんまり馬鹿にしてはいけない。もちろん現代ではインターネットによって個のできることの幅は格段に広がった。それでも、凡庸な個が集団でなんとかする仕事は、無くならない。自分が凡庸であるなら、なおさらだ。

組織によって成される仕事っていうやつと、それに関わる組織の構成員について、学ぶのは昔から好きだった。経営戦略とか、市場における立ち位置とか、そういうのもつまらなくはなかったけど、もっぱら自分にとっては従業員の満足度が大切なことだった。個人ではできないことをやるために、個人では無かったような問題が発生する。コンフリクションをいかに組織は解決するべきか、それは俺にとって確かに、正しいことを知るための道だった。

 

 多くの場合組織労働というのはクソだ。伝言ゲームなんだから、ロスは必ず生まれる。多かれ少なかれ、ふざけたルールが必要になり、無価値な通勤や、感情的なコンフリクト、怪文書のようなメールや、狂った顧客が出現する。それが組織労働ってやつだ。“これ”は馬鹿らしいが、“これ”が組織だ。
それでも、なにかしら意味のある行為に繋がっているという希望、もしくは即時的な成果である賃金報酬があれば組織は存続する。

組織労働はクソだがそこに意義はあり、まったくもって不平等だが、誰かがやらなきゃまわらない。

そういうふうにできている。多くの人は、そこに属して生きていく。
だったらそこでいう幸せってなんなんだろうか。

ひとつの回答に、やりがいという言葉がある。自分の仕事が誰かの役に立っている、やりがいがあるというものだ。インターネットのオタクは小馬鹿にしがちだけど、これは間違いなくひとつの正解だと思う。自分の行為が誰かのためになるとき、人はそれをうれしいと思う。ツイッターウィキペディアも、ヤフー知恵袋だって、だれかのために行っている人がいる。小さな社会動物は、社会と繋がっていたいと望んだのだ。
ここでどんな仕事であれ一生懸命にやるべきだ、という文章を書くことも、俺にはできる。俺は労働を捨て去るほどの覚悟、もしくは諦念や虚無主義には至っていないし、内面化した文章だって、いつも外しか見ていない。俺は人のためになにかを書いてみたいし、それは人に関わり続けることでしか達成されない。人は誰かに頼りにされたがる。誰かのよすがに、なりたいと願う。

 

だから、北海道はクソだった。閉じた世界が、自然が、必死に理論武装するこちらを馬鹿にする。

人の助けになりたいというのは、どこかで人に線引きをするということだ。「救われていない」状態と、「救われている」状態を定義することだ。それは世界で最も傲慢な行為だと思う。この世界で主にそれは、金銭で代えられている。あるにこしたことはない金だけど、当然あるだけでは幸せではない。いつからか僕は、僕のなかの一部は、他人の笑顔を幸せの根底に置いている。誰かの心を前向きに動かせるなら、それは確かに正しい行為だと定義している。わかりやすく言えば美味しいパンをつくるパン屋さんは間違いなく正義の味方だ。パンをめちゃくちゃもらったところで借金を返せたり何かの能力が開花することはないだろうけど、食べた一瞬、幸せは生まれるだろう。それがすべてだと、僕のなかの確かな部分は叫んでいる。どんな労働であれ、しっかりやるべきだという意見を笑い飛ばし、社会なんてくだらないもので消耗する人間すべてを憎んでいる。そいつには長期的な視野が欠けていて、そいつは自分の手を広げた以上の距離を知らないけれど、だからこそ美しいものを美しいと感じることができる。組織労働は彼を殺す。数少ない、俺の存在の発露を冒涜する。世間知らずでわがままな、かけがえのない命を無価値だと断ずる。

 

北海道はクソだった。あそこには一次産業と、観光業と、公共事業しかない。人口はゆっくりと減っていく。

意味の分からない仕事はなくて、また介入する余地もなかった。もっと詳しければそりゃああるんだろうけど、東京ほどに混沌してはいないだろう。どれもそれなりのやりがいがしっかりとあって、広い空の下、逃げ場はないんだろう。

 

 東京には空が無い、山も無ければ海も無い。蠢く気持ち悪い大量の人間が、なにかをやっている姿だけが、とてつもなく尊くて、吐き気がするほど生きている。

 

少しは、磨耗していることに気づいてくれ。そしてそのまま生きて死んでいくことが、選択すべきことが、潰した全てのために泣いてくれ。逃げ出したいほどつまらない世界に、立てるよすがを探してくれ。

 

 旅は僕にとって、いつだって呪いに近い。

帰ってくる意味を、与えなければいけないのだ。消えていく夢を、自我を、手放さずにいられるだけの意味を。だから求めずにはいられないのだ。

この狭い空に、確かな青さを。

 

ぜんぶいやなのでございます

いやでございます。たいへん、いやでございます。嫌なのでございます。ええ、さようでございます。断じて、嫌でございます。ありがとうございます。

何が嫌なのか?ですか?そのようなことは問題ではないのであります。

いやいや期、そう、いやいや期なのであります。いやです。やめていただきたい。いやでございます。そうです、応援ありがとうございます。なにもかもいやです。この演説も嫌々やっております。はぁ…いやですねえ…。みなさんの温かいご意見、たいへん恐縮です。いやだいやだと、言っているだけですが…。

とにかく、嫌なのでございます。何もかも嫌なのでございます。ぜったいに嫌です。嫌なのです。だれになんと言われようと嫌なものは嫌なのだと、はっきりと申し上げるのであります。嫌だ、嫌だと。嫌なのだと。ただ、いやなのです。いやなことはいやなのです。嫌なのだということだけ、ご理解いただければと思います。それさえ、その事実さえご認識いただければよいと考えております。

しかしながら、嫌なものが嫌なのだと、ご理解いただけることはないのでございます。けっして、わかりあえることはないのでございます。けっしてないのでございます。

そのうえでなお、私はいやだと申し上げるのであります。ただ、嫌なのだと、嫌で嫌で仕方ないのだと、叫び続けるのであります。

いやでございます。たいへん、嫌なのでございます。

蚊が絶滅してくれたらよかった

 夏、超嫌いだ。
蚊が全滅すれば意見も変わるかもしれない。
蚊が絶滅してくれるならサメの大群がトルネードになって本土に上陸してきてもあんまり文句言わないと思う。

 食物連鎖が崩れるとまわりの運の悪い生命種がとばっちりを受けるらしいが、蚊ごときに仲のいい友達もいないだろうから、危惧することもないだろう。今の話って干潟でヤドカリを滅するとヤドカリを頂点としていた生態系がまとめて消滅するみたいな話がベースになっているんだけど、こういうのってどこまで当たり前の話としてとりあげていいんでしょう。ヤドカリだっけ、イソギンチャクだっけ。義務教育で習う以上これを学ぶのは義務だったんじゃないかとここまで書いていて高校の教科書に書いてあった気がしてきたから強いこと言えなくなってきた。

 じゃあ全然義務ではないんですが、果たして生物選択者は全国民の何パーセントで、そのうち半分五割をとったにしても、その人たちが何を学び何を考え何を求め何を願い何を望み生きて死んでいくのか全くもってわかりやしない以上、万人にウケるネタというのは存在しないのは明白なんじゃないかと思ったりもしますよね。教養ってなに?「春は揚げ物ようよう白くなりゆく生え際」みたいのを笑えるということなんですよ、としたり顔で言うのは簡単だけど、果たしてそれでいいのかと思ったりもするわよね。
 いいんですよと頭の中のどっかの人は言ってます。おっほっほと笑いながらそれを手にすることのできなかった人間にナイフを突き刺すのもまた、人が人である証です。せめて刺した相手の顔くらいは覚えておくべきだと僕は思うけれど、そういうのは二流のロマンであって、競技人生においては審査員の評判もガタ落ちしてしまうこと間違いなしです。そもそも故意に刺しているわけでもないし。別になんだっていい。たまたま蚊を殺したかっただけですが、何事も結論を最初にもってくるのは大切ですね。あれが好き、これは嫌い、それは間違っている、馬鹿にする対象被対象に貴賤はない、この文章の一文はいちいち長い。答えのない状況における結論というのはすなわち直感と同義です。
 直感というのはそれを持つ本人にとって極めて誠実であり、生命に対して唯一真摯な意見を述べてくれるものだっていうのは、直感を疑って机にかじりついている人間にろくな人間がいないことからみなさん重々承知の事とは思いますが、ろくな人間が果たして面白い人間かというと全然そんなことはないわけで。ろくってなに?どうやらろくって陸(りく)がなまった言葉で、平らとか真っ直ぐな性格の人を指すそうです。母なる海から生まれたろくでなしっていうと、それはどうも当然なんじゃないかって気がしてきますけれど、果たしてこれって教養なんですか?ググっただけですけど。

 緩急をつけたテンポの良い文章を書いていきままままままままままましょう。シンプルなことを複雑にするのは学者か詐欺師の仕事であって、それ以外の人間がやるべきことは、複雑なことを単純にすること、それにつきます。まあ嘘なんですけれども。マクロレベルでは比較的正しいと思っていて、絶対に1人でできない仕事を分割して個人のタスクに落とし込む、これは間違いなく社会がうみだした英知です。結果として責任の所在があいまいになったりして垂直型の組織を馬鹿にする流れもあったけど、果たして人間が独力でつくれる家なんて段ボールがせいぜいだし、田植えをしながら釣りに出て水を汲みながら火をおこすくらいのマルチタスキング能力がないと生きるのは無理ですよね。

 しかしミクロな話は違ってくる。複雑なことをできるだけシンプルにする、平易な言葉でわからせる。これが本当の詐欺だろう。複雑なことがシンプルになるわけがない。言語化されてすっきりした、探すとけっこうよくある言葉みたいだけど、あの言葉への違和感はそれですね。あれは半分は当たっているかもしれないけど半分はわかった気になってるだけだ。でも、それでいいと思う。わかった気にさせるのは意外と難しいらしい、技術が必要らしいと、最近はわかってきたから。ふわっとしたことをふわふわと書くのは誰でもできるんだけど、ふわっとしたことをふわりとした手触りのまま、どっしりと書くのは誰でもできることじゃない。だから、だからね。複雑なことをシンプルにするだけでなく、複雑なことをできるだけ複雑なまま、シンプルに書きたい。結局人間は直感で生きてんだよ。共感はある。実にその一点において、文章を書く意味は存在する。長期的な富なんてこの瞬間のどこにも存在しないんだよ。でもこの瞬間に動いた感情、それはそこにある。全人類に、平等に存在する。それを救うのは労働ではありえない。当然これは欺瞞だけれども。欺瞞に満ちたキーボードを、チンパンジーがランダムに叩いて作った文章なんだけれども。それでも感情の発露は平等で、美しい。誰であってもだ。

 言葉にできないって言葉を使っていいのは、物語の登場人物だけだ。物語の登場人物たりえなかった僕たちは、ケツからひねり出したショボい自分の言葉を頼りに進むしかない。何ができるわけでもないのにな。だからそいつを、複雑な叫びや物語ってやつを、書き留めてやりたいんだ。そういうことなんだろうと最近は思う。できる範囲でいいんだよ、ちっぽけな趣味だと思うし、ちっぽけな趣味でいい。正直やればだれでもできることで、難しい国家資格でもなければ、始めるのに莫大な金が必要な話でもない。やればだれでもできるさ。やればね。だからやる。それだけの話だ。後に残るのは、乱雑に反響したモスキート音だけだとしても。そのころには、とうにそんな音は聞こえなくなっていたとしても。