ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

蚊が絶滅してくれたらよかった

 夏、超嫌いだ。
蚊が全滅すれば意見も変わるかもしれない。
蚊が絶滅してくれるならサメの大群がトルネードになって本土に上陸してきてもあんまり文句言わないと思う。

 食物連鎖が崩れるとまわりの運の悪い生命種がとばっちりを受けるらしいが、蚊ごときに仲のいい友達もいないだろうから、危惧することもないだろう。今の話って干潟でヤドカリを滅するとヤドカリを頂点としていた生態系がまとめて消滅するみたいな話がベースになっているんだけど、こういうのってどこまで当たり前の話としてとりあげていいんでしょう。ヤドカリだっけ、イソギンチャクだっけ。義務教育で習う以上これを学ぶのは義務だったんじゃないかとここまで書いていて高校の教科書に書いてあった気がしてきたから強いこと言えなくなってきた。

 じゃあ全然義務ではないんですが、果たして生物選択者は全国民の何パーセントで、そのうち半分五割をとったにしても、その人たちが何を学び何を考え何を求め何を願い何を望み生きて死んでいくのか全くもってわかりやしない以上、万人にウケるネタというのは存在しないのは明白なんじゃないかと思ったりもしますよね。教養ってなに?「春は揚げ物ようよう白くなりゆく生え際」みたいのを笑えるということなんですよ、としたり顔で言うのは簡単だけど、果たしてそれでいいのかと思ったりもするわよね。
 いいんですよと頭の中のどっかの人は言ってます。おっほっほと笑いながらそれを手にすることのできなかった人間にナイフを突き刺すのもまた、人が人である証です。せめて刺した相手の顔くらいは覚えておくべきだと僕は思うけれど、そういうのは二流のロマンであって、競技人生においては審査員の評判もガタ落ちしてしまうこと間違いなしです。そもそも故意に刺しているわけでもないし。別になんだっていい。たまたま蚊を殺したかっただけですが、何事も結論を最初にもってくるのは大切ですね。あれが好き、これは嫌い、それは間違っている、馬鹿にする対象被対象に貴賤はない、この文章の一文はいちいち長い。答えのない状況における結論というのはすなわち直感と同義です。
 直感というのはそれを持つ本人にとって極めて誠実であり、生命に対して唯一真摯な意見を述べてくれるものだっていうのは、直感を疑って机にかじりついている人間にろくな人間がいないことからみなさん重々承知の事とは思いますが、ろくな人間が果たして面白い人間かというと全然そんなことはないわけで。ろくってなに?どうやらろくって陸(りく)がなまった言葉で、平らとか真っ直ぐな性格の人を指すそうです。母なる海から生まれたろくでなしっていうと、それはどうも当然なんじゃないかって気がしてきますけれど、果たしてこれって教養なんですか?ググっただけですけど。

 緩急をつけたテンポの良い文章を書いていきままままままままままましょう。シンプルなことを複雑にするのは学者か詐欺師の仕事であって、それ以外の人間がやるべきことは、複雑なことを単純にすること、それにつきます。まあ嘘なんですけれども。マクロレベルでは比較的正しいと思っていて、絶対に1人でできない仕事を分割して個人のタスクに落とし込む、これは間違いなく社会がうみだした英知です。結果として責任の所在があいまいになったりして垂直型の組織を馬鹿にする流れもあったけど、果たして人間が独力でつくれる家なんて段ボールがせいぜいだし、田植えをしながら釣りに出て水を汲みながら火をおこすくらいのマルチタスキング能力がないと生きるのは無理ですよね。

 しかしミクロな話は違ってくる。複雑なことをできるだけシンプルにする、平易な言葉でわからせる。これが本当の詐欺だろう。複雑なことがシンプルになるわけがない。言語化されてすっきりした、探すとけっこうよくある言葉みたいだけど、あの言葉への違和感はそれですね。あれは半分は当たっているかもしれないけど半分はわかった気になってるだけだ。でも、それでいいと思う。わかった気にさせるのは意外と難しいらしい、技術が必要らしいと、最近はわかってきたから。ふわっとしたことをふわふわと書くのは誰でもできるんだけど、ふわっとしたことをふわりとした手触りのまま、どっしりと書くのは誰でもできることじゃない。だから、だからね。複雑なことをシンプルにするだけでなく、複雑なことをできるだけ複雑なまま、シンプルに書きたい。結局人間は直感で生きてんだよ。共感はある。実にその一点において、文章を書く意味は存在する。長期的な富なんてこの瞬間のどこにも存在しないんだよ。でもこの瞬間に動いた感情、それはそこにある。全人類に、平等に存在する。それを救うのは労働ではありえない。当然これは欺瞞だけれども。欺瞞に満ちたキーボードを、チンパンジーがランダムに叩いて作った文章なんだけれども。それでも感情の発露は平等で、美しい。誰であってもだ。

 言葉にできないって言葉を使っていいのは、物語の登場人物だけだ。物語の登場人物たりえなかった僕たちは、ケツからひねり出したショボい自分の言葉を頼りに進むしかない。何ができるわけでもないのにな。だからそいつを、複雑な叫びや物語ってやつを、書き留めてやりたいんだ。そういうことなんだろうと最近は思う。できる範囲でいいんだよ、ちっぽけな趣味だと思うし、ちっぽけな趣味でいい。正直やればだれでもできることで、難しい国家資格でもなければ、始めるのに莫大な金が必要な話でもない。やればだれでもできるさ。やればね。だからやる。それだけの話だ。後に残るのは、乱雑に反響したモスキート音だけだとしても。そのころには、とうにそんな音は聞こえなくなっていたとしても。