ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

はやくておおすぎる

早くなっているのだ。


早くて多い。


早すぎて多すぎる。


バーチャルユーチューバーについて、初めて見たときの感想だ。3Dモデルの、かわいい女の子が、動作に合わせた声で、ウケそうな話題を持ってきて話す。どれ一つとっても話題になりそうなことが、たった5分やそこらのなかに凝縮されている。暴力的な情報量だった。これが2017年末に、オタクのたどり着いた地平か。

 

 

年末にまとめの駄文を書くはずが、時間がなくて正月も明けてしまっていました。正月は静かでいいですよね。月に一回くらい正月があればいいのに。でもないんですよね。そういうことが世の中には多い。

今回は現在の見え方と、なぜ俺がそう見ているのかについての一区切りつける文章です。「いいですか、主観です」の、主観の背景について一度整理しておきます。

どうですか?みなさんはなんでそのコンテンツが好きなんでしょう?

 

 1.iriwoppositeというオタクについて

 

かつてアニメを馬鹿にする人々は、本と違って受け手との対話がないと言った。対話がないというのはウソだろうと僕は思うけれど、視覚と聴覚を支配されたのはたしかに大きい。最近になって、自分のコンテンツの消費の仕方が、とことん受け身であることを自分に許さないようなものだったのだと、気づかされる機会が増えた。

メッセージ性がどうこうとか、考察厨みたいな話ではなくて。こう、形容しがたい負けるものかという気持ちがあることに気づいた。今までみんな持っているものだと思っていたのだけど、どうやら違うらしいのだ。なんで自分が心動かされちまったのかということに、意外と興味がない(自覚的でない?)のだろうか。まだあまり言語化できる段階にはないけれど、昔からいろいろあった違和感が最近解消されてきた用に思う。

極論、僕は自分でもつくれんじゃないかと思いながらあらゆるコンテンツに向き合っているようなのだ。で、オタクはみんなそうだと最近まで思っていた…。どうやら違うらしいのですが、みなさんはどうですか…?

 

コンテンツにたいして、心のどこかで戦う気持ちがあると、その作り手というものに対する意識が生まれる。それがすげえもんをつくりやがったなあという気持ちになって、心の底から楽しめるのだと思う。いつだって、コミュニケーションは相手への尊敬を根底に置いたほうが気持ちよく楽しめるように思う。広く浅くやってしまうのも、結局はそのあたりかもしれない。それはコンテンツに興味がないんじゃなくて、その奥にいる作者の考えにより興味があるからなのかもしれない。どんな媒体の表現であろうと、気持ち悪いオタクが誰かの感情を動かそうという神をも恐れぬ邪悪な心からつくりだしたものであることには変わりない。そういう意識がある。映画であれ、本であれ、料理や写真しかり、もちろんゲームも。気持ち悪いオタクに感謝を。その熱量へ敬意を。

 

 2.早くて多いものが求められるという話


『これは、俺の物語だ』のキャッチコピーで有名なのはFF10だった。けど、RPGでは主人公の見る世界を追いかけるしかなかった。みんな入り込むための、壮大なストーリーを必要としていた。

いま、「自分の物語」はあまりにも当然に毎日生み出されている。こうやって文章を書くのだって、ちょっと前までは大きな手間がかかったことのはずだ。

 

スマートフォンはカメラを手軽に、世界への発信も容易にした。手軽さは早さで、早さは正義だ。

インスタグラムは「自分の物語」の時代の象徴であるように俺には思える。「すごい作品に出会った」感動さえも、「すごい作品に出合った自分がいた」ということの感動にくらべれば陳腐だ。誰だって自分が大好きで、自分のリアルこそが自分にとっての最大のエンターテイメントだ。ストーリーテラーたりえない僕たちは、「自分の物語」をより感動的に、飾り付けることに夢中になっている。モノやヒトのインターネット、グローバルな世界は「自分の物語」をつくるための手助けをどんどんやっているし、誰もが主人公になりえる社会はきっと昔に比べて素晴らしいんだと思う。問題は、それは「自分にとっての感動」しかない点なんだろうけど、そのへんは置いとく。

 

世界に「自分の物語」を発信できる時代、「他人の物語」はときおり無造作に投げ捨てられている。料理がおいしかったのか、「料理を食べた自分」が大事なのか、旅行で行った場所がすばらしかったのか、「旅行に行ったこと」に意味があるのか、映画がおもしろかったのか、それとも「映画を観た自分」を主張したいのか。一瞬をきりとったはずの写真は得てして切り取ったことそれ自体にようわからん意味をつけてふわふわインターネットを漂っている。


自分の物語の発信は簡単で、それなのに楽しすぎる。そしてこれは、サブカルチャーと非常に相性がいい。誰もが感動的な自分の物語を作れる時代、簡単に消費出来て、自分の物語の中に取り込めるものが好まれる。目的は自分の物語の拡張にある。自分の物語は簡単に作れるけれど、それではみんなと一緒なのだ。当たり前の話で。そんなに簡単に他人に影響を与えるほどのオリジナリティだ、ユニークさだというものは生まれやしない。なけなしのオリジナリティが、サブカルチャーに託される。簡単に消費できる知識と文化で、自分の物語を武装する。そのときコンテンツはその向こう側にいる作り手を必要としていない。経験したというための経験。空っぽでないと言うためにつめこんだものに、作者との対峙、尊敬を感じるひまはないのかもしれません。メインはそこにないのだから。あるいは、もうそれこそが多くの人にとってのメインなのだという意識がけっこう大事かもしれない。

 

さて。

一昔前の識者が無限に書いてた「アニメやゲームは本と違って作り手と対話することができない」、というのは大きな間違いだと思う。注意深く接すればいくらでも考える余地はある。ただ、「対話しなくても消費できる」かどうかといわれれば、そうかもしれない。本なんかと違って、やろうと思えば口空けて思考停止してるだけでも勝手に進んでくれるのが映像だ。五感のどこまでをむこうに握られているのかという話なのかもしれない。VRコンテンツが主流になった日には、本格的にこちらの操作余地はないのかもしれない。

 

どんどん早くなっている。人間はより多くの情報を、より短時間で受け取っていく。思考ゼロで楽しめる、それがアニメの醍醐味だと言われたこともある。コンテンツが進化するほどに、表現の可能性が増していくほどに、何も考えずともそれを消費する層が増えていっているのかもしれない。少なくとも、考えるのが難しくなっているのは事実だと思う。作者のカタチすら見せないバーチャルユーチューバー、思考停止で消費せざるを得ない点でコンテンツの新たな極致なんじゃないでしょうか。

フェイクニュースだっけ。ポストトゥルースとかその文脈だって、早くて刺激的なものが好まれるという話だった。正確な情報や、難しい理論は難しい。興味を引いて、軽く知識欲を満たすジャンクフードが世界を席巻する。二郎系ラーメンみたいなコンテンツの暴力に、うまいうまいと毎日おぼれているようだ。

 

 

なにがすごいって、溺れたまま死ぬまでやっていけるのが今の時代だ。というか、意識しなければ溺れていることにすら気づかず、何かを自分の物語に組み込んだつもりで流れ続けてしまうんじゃないだろうか。誰もが自分の人生のクリエーターであることが圧倒的に目に見える形で存在する時代こそ、同様に存在する「他人の物語」への尊敬、そして他人をまきこめるほどの強い熱量というものへの敬意が大事になってくるのではないだろうか。

 

 

早くて多いのだ。 

 

いちいち噛み砕いていられないほどに。

 

早く早くもっとたくさんの、考える暇もないほどの、大量の、大量の情報を!

 

何かを考えた気になれるような、誰かの薄っぺらい言説を読む暇があったら、もっともっと、ほら急がなきゃ!なんにも考えず飲み込んで!すごいすごいと口を開けて!そうやって、そうやって、そうやって。