ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

夏は紙を切って遊んでいたという話

 白を切っていた。淡々と、何も考えずに切っていた。

 

 

 切り紙というと残った地の部分が絵を形作るものだが、この夏やっていたのは対象を切り抜くタイプで、感覚としては一筆書きに近いような気がする。

自分でデザインできるほどの能力はないのでジブリのサイトを見たりだとか、いろいろやってイメージをつくり、多少改変したり、まるっと使わせたりしてもらって下絵を手に入れる。インターネット万歳。デザインナイフやカッターマットも今どきは100均で売っているので手軽な趣味っぽい。

 

どうも手軽な趣味が多い。趣味とかいうから聞こえはいいけど一人遊びが得意なだけで、人間と遊ぶのが苦手なだけだ。しかもなんか作って遊ぶとそのあと絶対人に見せたくなるからやっかいだ。

 

 

 対人の距離感の話は非常に面倒くさい。オタクはいわんや。そのまんま人間への関心度っぽい。これはキモいかどうかや、知識度が高いかどうかとはあまり関係ないようだ。

なんとなく最近思うのは、キャラ押しのオタクは人間とも仲良くやってて(やりたがってて)、設定とか世界観とか言っちゃうタイプの人間はワイワイする人間関係が極度にストレスっぽい。いいですか、主観です。

 

 世界観とか言っちゃうタイプの人間は自分の中の世界にたいする自覚がかなり激しいんだろうと思う。良くも悪くも非常に自己中心的なんだろう。これは解釈違いとかいう概念を聞くたびに思うことで、キャラ押しの人って同じキャラが好きでも戦争になったりするわけですよね。あれ、全体的に好きですパーソンから見ると本当にはーーーんってなることが多くて。別に好きなら好きで仲良くすればええねんなに争ってるアルか?といった気持ちになるわけです。

 

その一方で全体的に好きですパーソンの自分の殻はときにカップリングで騒ぎあう人よりも固いことも多くて。解釈違いになっても(へ~きみはそう思うんだまあそう思って楽しいならそれでもいいんじゃないかな俺は俺で楽しむし)的思考回路で両者スルーしあって結果仲良くやってる、みたいなことが多い気がする。このカッコ内の思考が悪意や皮肉なしに平常運転で行われるのがこの手のオタクの特徴だと思う。その際の”仲良く”はパーソナルスペースの確保を行ったうえで無害なもの同士つるむ、というものなので、共感などのしかたが一般的な友達を想定するとたとえば”冷たい”とか思われたりするのかもしれない。ラインを平気で既読無視できるかどうかでだいたいわかる。

 

 だから僕はドルオタの人間関係については心配したことないんですよ。オタクとしての活動方向性が人間に開けているから。コミュニケーション能力なんてのはあとから頑張れば一定レベル上昇のしようがある。でも活動方向性が人間に向かっていないオタクは難しい。オタク同士の結びつき方も差が出てくると思うのだ。

 

 もちろんどっちが悪いとかじゃないし双方混ざっていることが多い。

もっかいいうけどどっちが悪いとかじゃないし双方混ざっていることが多い。

 

 

 みたいなことを考えながら紙を切っていた。紙は俺が何を考えてようが何も言ってこないし、切った分新しいかたちができるので綺麗だし、淡々と作業が進んだ。 

 

白を切り、そこに現れるものを見たいと思った。静かだ。静かな空間に、紙で遊んでいる僕と、ただ紙があった。

 

そうしていくつかものをつくった。

 

 後日、人にあげたらすごく喜ばれた。ふだんからお世話になってる人だし、そういうのが好きな人だから喜ぶかなと思ってはいたけれど、本当に、とても綺麗に喜んでくれた。僕は綺麗に喜ぶのが苦手なので、それだけでなにか、美しいものを見た気分になったというのに。

 

ひとりで作ってたものでさえ、お前は他者の評価を必要とするのかという追及は、ポップアップカードだTシャツだなんだ作ったときも何度となく襲い掛かってきたもので、今もついてまわる。

 

つくることはときにあまりにも傲慢に人を振り回す。だってそうだろう?あんなにひとりで遊ぶのが好きなくせに。人と話すとすぐ疲れてしまうくせに。

 

 俺は自分がつくったもので人が喜ぶとうれしいのだ。

 

うれしかったのだ。