ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

文体について知っているいくつかの、①

 好きな話 、できる話というのはある程度幅があるはずなんだけど、いちど方向が決まるとなかなか変えづらい。雑記にしたいのに偉そうなことを言いまくったあげく刺されないかビクビクしてるのが現状だ。個人的にはARやリアル脱出ゲームといった体験型コンテンツの盛り上がりをドラクエあたりから追いかけたりしたいし、草間彌生の生命力ハンパねえなみたいな話や騎士団長殺し買うつもりはないけど誰か貸してとか、そういう話をしたいところなんだけれど、今できる話のネタが尽きるまではおいとくとして。後でフォルダ分けなんかしてもいいかもしれない。

 

 さて、目下のボスである文体の話をしよう。 “文体”、それは鎧であり、文字を通じてしか繋がれない人にとって、唯一無二の武器だ。文字は文字にすぎない。しかし、文章を書いたとき、そこには文体が生まれる。これすごくないか!?すごいよね!?同じことを説明するのに十人十色、誰1人として全く同じ言葉を使うことはない のだ。すごいひとつとっても、「すごい」「すげえ」「やばい」、俺の文体でもこれくらいは選択肢がある。すごーい!

 こうして長い文を書いていると、自分の文体というやつを否が応でも直視することになる。自分はどんな言葉を使いたがるのか、なにを避けるのか、それはなぜか。

 存外これはおもしろい。たとえば俺は「○○なんだが。」という結びを執拗に回避している癖がある。代わりに「○○だけれど。」「○○とはいえ。」を多用する。どれを使おうが意味は変わらないはずだ。なのになぜ、そうするのだろう。

 感じが悪い気がする、というのはある。上のほうがより偉そうに聞こえる。譲歩ではなく反語に聞こえる、気がする。あくまで主観だ。でもその結果、俺の文から「○○なんだが」という言い回しは消える。それはその言い回しを使う人の文章と、俺とを分かつ。

 

 文体の意識はそういうことへの意識だ。丁寧に、大切にやっていくといいような気がする。

 これを発展させた話題にラインの文章とか、ひいては会話にも文体みたいなものはないだろうかみたいな話があるんだけど、それをやる気力も時間もないからこのあたりで。

 

 ブログとかいうもの、俺なんかは身を削ってようやく人の目に入るかどうかといったところなので、好きでやってるとしたってほんとうに馬鹿みたいに気力と体力を使う。

 

 狂ってるとしか思えない。

 

 文章を書くというのは、文章で表現するというのは、文章で自分をさらけ出すということは、文章で世界と繋がりたいと望むことは。