ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

この狭い空に確かな青さを

 

 北海道はクソだった。
飯はうまいし道路は広い。どこにも文句のつけようがなく、ゆっくりと滅びていこうとしていた。空が広かった。それだけで価値があった。

 昔話をしよう。全編をとおして、この文章はただの日記だ。日記の話が昨日のことだろうが、10年前のことだろうが、過去の記録には変わりない。

 あえていうなら、正義の味方になりたかった。自分がした何かで、誰かが救われるような人間になりたかった。経済学を学んだのはそういう理由です。いちばん大きな枠で正しいことがわかると思った。哲学はいちばん近くて、最も遠いところにあった。

体系的な正義について知るより、今現在できること、実際になされていることを知る方が先だと考えた。理性は不可逆的にアップデートされていく以上、哲学は救いにはなり得ないと思った。腹減ってる人間に飯を食わせるのが善だ。その横で飯を食うことが本当の幸せにつながるどうかみたいなことを考えてるやつは、少なくともその瞬間は、明確な悪だ。

 

 さて、先日北海道に遊びに行ってきました。釧路から道東をぐるっと回ってきたんだけど、またわかんなくなっちゃったわね。労働、なんなんすかあれは。夏だったから道東には無限の海と広大な畑がありました。これは∞と5兆くらいの比較であって、当然人間の知覚ではどちらも同じ、等しく果てしないものでした。こんなん海が荒れたらおしまいだし、山が崩れたらおしまいだし、そもそももとから雪が降る冬はおしまいに片足つっこんだ状況になってるわけで、世界は広いとか言葉にするのも馬鹿らしくなる景色でした。
逆説的なんだけど、東京にいないと海外とか意識しないんじゃないだろうか?北海道には山と海はあったけどアメリカは無かった。おれはいまだにドナルドトランプが実在する人間なのかリアリティが持てていない面があって、この感覚と、自分の金と国の金の関係がイメージできずに消費税を無くせみたいな暴論してるやつの感覚って地続きなんだろうけど、じゃあ境目ってなんなのかと聞かれたら、答えられない。何がわかれば偉いんだろうか、何がわかれば許されるんだ?べつに自分が起こしたわけでもないでかい会社に後から入ってそれなりに稼ぐことと、詐欺で人から金を奪うことの、何が違うんだろう。明らかに労働と賃金に因果関係はないだろ。自然というのは非常に暴力的で、雄大な自然を見ているとすべてがどうでもよくなってくる。
なんもわからん、全部許せねえ。ただ智恵子は東京に空がないという。東京には空がないと、そう言う。

 曲がりなりにも社会人になってしまって1年以上が経ってしまったので、旅行に行くとその土地の経済状況を想像することが増えた。もとから物語的な感性として知らない土地の暮らしとか考えるのは好きな子だったけれど、「生きる」=「労働する」という側面への解像度が上がったことで、「暮らし」への解像度も上がったんじゃないかと思う。「雪降ったら大変そうだなあ」くらいの認識だったものが、「雪降った日に雪かきして通勤して、寒くて、帰って、ご飯つくって風呂入って……、大変そうだなあ」みたいな感じに想像するようになった。

同時に、地形とか、インフラの重要性も昔よりはるかにわかるようになった。
地理や歴史を学ぶといい、っていうのは旅行するとき実感する。や、小学校の社会のレベルで十分だ。泥炭地で酪農、海岸が険しい漁港、潮目と漁業、濃霧、石炭の歴史、アイヌ屯田兵、適当に書いてもこれくらいは道東のトピック的に小学校で習う知識だ。覚えるかは別として、指導要領にはある。さらにいえば、もっと詳しく知ってれば、もっと詳しくその土地の暮らしをイメージできるはずだ。実際に住まなきゃわかんねえだろ、というのはもちろんあるけれど、“自分の住んでいる場所とは、構成要素が異なる場所があり、そこで生きる人がいる”、という事実を認識できるはずだ。

 とはいえ、どこまで知っとけばいいのかは果てがないので、難しい話だ。
こういうとき、最低限の知識として義務教育というものがあるんだねえという気持ちにはなるものの、なるだけだし、なるから何?みたいな部分も多分にある。基本的な地名、ましてや自国の地名なんてのは算数の九九と同じで、それがわかるからって数学が好きとかいうのとは違う話だと思ってしまうのは、学習環境という一種の分断であり、分断があるという意識はもたなきゃいけないんだろう。

 

 インフラの話にもどりましょう。
インフラは自然と違って人工的な基盤だ。
ここで言うインフラって生活インフラの話になるけれど、最近までそんなに気にしてなかった(解像度が低かった)のが生活インフラを支える人の存在です。このへんは就活とかいうクソゴミ人権侵害エンドコンテンツをクリアするうえで学べる数少ないいいことなんですが、世の中にはいろんなお仕事があるなーーーーっていう感覚が実感として伴ってきます。就活のやり方もいろいろあるので、やりたい分野に絞るor特になんも考えずやってると他のことはあんま知らないまま働き出すんですけど(べつにいいよ!)、なんもやりたいことなければ色々調べると勉強にはなるのでおすすめです。

閑話休題

インフラは自然と違って人手が必要になる。エッセンシャルワーカーとかいう言葉が流行っていたけれど、例えばコンビニは開いていて欲しいし、銀行はお金を引き出せるようにしてほしいし、その人たちが出社するためには鉄道を初めとする交通機関が必要になる。あたりまえなんだけど、なかなか、意識しないと想像がつかない。それに実際働いてる人たちは口答えするほど暇じゃないから、コロナで出社するやつ馬鹿かよみたいな話も、言われてるほうからすればあーはいはい無視無視みたいな調子でしかないわけで。
話を戻すとつまり道東の果てのほうまで電柱や道路があることってすげーーーって話です。
実際に施工した人がいて、それを指示した人がいて、そもそもそこに建てようと決めた人がいて、それを許可した人がいて。組織内で働くことで、そういうディテールへの解像度が、多少は上がってきた気がする。

 

 そう、組織というものが社会にはある。大きな仕事は個人ではできないから、仲間を募って組織をつくる。
だから会社をあんまり馬鹿にしてはいけない。もちろん現代ではインターネットによって個のできることの幅は格段に広がった。それでも、凡庸な個が集団でなんとかする仕事は、無くならない。自分が凡庸であるなら、なおさらだ。

組織によって成される仕事っていうやつと、それに関わる組織の構成員について、学ぶのは昔から好きだった。経営戦略とか、市場における立ち位置とか、そういうのもつまらなくはなかったけど、もっぱら自分にとっては従業員の満足度が大切なことだった。個人ではできないことをやるために、個人では無かったような問題が発生する。コンフリクションをいかに組織は解決するべきか、それは俺にとって確かに、正しいことを知るための道だった。

 

 多くの場合組織労働というのはクソだ。伝言ゲームなんだから、ロスは必ず生まれる。多かれ少なかれ、ふざけたルールが必要になり、無価値な通勤や、感情的なコンフリクト、怪文書のようなメールや、狂った顧客が出現する。それが組織労働ってやつだ。“これ”は馬鹿らしいが、“これ”が組織だ。
それでも、なにかしら意味のある行為に繋がっているという希望、もしくは即時的な成果である賃金報酬があれば組織は存続する。

組織労働はクソだがそこに意義はあり、まったくもって不平等だが、誰かがやらなきゃまわらない。

そういうふうにできている。多くの人は、そこに属して生きていく。
だったらそこでいう幸せってなんなんだろうか。

ひとつの回答に、やりがいという言葉がある。自分の仕事が誰かの役に立っている、やりがいがあるというものだ。インターネットのオタクは小馬鹿にしがちだけど、これは間違いなくひとつの正解だと思う。自分の行為が誰かのためになるとき、人はそれをうれしいと思う。ツイッターウィキペディアも、ヤフー知恵袋だって、だれかのために行っている人がいる。小さな社会動物は、社会と繋がっていたいと望んだのだ。
ここでどんな仕事であれ一生懸命にやるべきだ、という文章を書くことも、俺にはできる。俺は労働を捨て去るほどの覚悟、もしくは諦念や虚無主義には至っていないし、内面化した文章だって、いつも外しか見ていない。俺は人のためになにかを書いてみたいし、それは人に関わり続けることでしか達成されない。人は誰かに頼りにされたがる。誰かのよすがに、なりたいと願う。

 

だから、北海道はクソだった。閉じた世界が、自然が、必死に理論武装するこちらを馬鹿にする。

人の助けになりたいというのは、どこかで人に線引きをするということだ。「救われていない」状態と、「救われている」状態を定義することだ。それは世界で最も傲慢な行為だと思う。この世界で主にそれは、金銭で代えられている。あるにこしたことはない金だけど、当然あるだけでは幸せではない。いつからか僕は、僕のなかの一部は、他人の笑顔を幸せの根底に置いている。誰かの心を前向きに動かせるなら、それは確かに正しい行為だと定義している。わかりやすく言えば美味しいパンをつくるパン屋さんは間違いなく正義の味方だ。パンをめちゃくちゃもらったところで借金を返せたり何かの能力が開花することはないだろうけど、食べた一瞬、幸せは生まれるだろう。それがすべてだと、僕のなかの確かな部分は叫んでいる。どんな労働であれ、しっかりやるべきだという意見を笑い飛ばし、社会なんてくだらないもので消耗する人間すべてを憎んでいる。そいつには長期的な視野が欠けていて、そいつは自分の手を広げた以上の距離を知らないけれど、だからこそ美しいものを美しいと感じることができる。組織労働は彼を殺す。数少ない、俺の存在の発露を冒涜する。世間知らずでわがままな、かけがえのない命を無価値だと断ずる。

 

北海道はクソだった。あそこには一次産業と、観光業と、公共事業しかない。人口はゆっくりと減っていく。

意味の分からない仕事はなくて、また介入する余地もなかった。もっと詳しければそりゃああるんだろうけど、東京ほどに混沌してはいないだろう。どれもそれなりのやりがいがしっかりとあって、広い空の下、逃げ場はないんだろう。

 

 東京には空が無い、山も無ければ海も無い。蠢く気持ち悪い大量の人間が、なにかをやっている姿だけが、とてつもなく尊くて、吐き気がするほど生きている。

 

少しは、磨耗していることに気づいてくれ。そしてそのまま生きて死んでいくことが、選択すべきことが、潰した全てのために泣いてくれ。逃げ出したいほどつまらない世界に、立てるよすがを探してくれ。

 

 旅は僕にとって、いつだって呪いに近い。

帰ってくる意味を、与えなければいけないのだ。消えていく夢を、自我を、手放さずにいられるだけの意味を。だから求めずにはいられないのだ。

この狭い空に、確かな青さを。