ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

ヒバリの名前を知った話、そして絶海のこと

 ヒバリというらしい。スズメ大の、茶色い細い鳥の名前が気になって調べたらそう書いてあった。

 

名前は聞いたことがあった。名前しか知らなかった。

スマートフォンというのは便利で、こうやってすぐにものが調べられるとき確実に世界はよい方向に向かってる気がする。

 

春はやたらと花が咲いていて、ナズナハコベラ、ポピーやオニタビラコ、駅の花壇には誰が植えたんだかネモフィラなんかもある。

いつ名前を覚えたんだっけか。なぜ覚えたんだっけ。そのときの自分のことなんて憶えていなくて。

ああなんで。

なんて。

 

 昔から花とか鳥とか水とかが好きだった。別に名前を調べたり、それに詳しいとかそういう積極的なものがあるわけでもなく、ただなんとなくそのへんにあるものがそのへんにあるのが好きだった。というよりはただ、遠くを見ることが苦手なんだろう。植物の名前なんか知らなくても生きていくのには困らないんだけど、名前を知っているとその存在に気づけて、そういうのが積み重なると自分の世界はまたひとつ、確かに拡張を果たす気がする。ほんとうはその対象が語学だったりプログラミングだったり、実用的なものだったらよかったのにな。拡張したなにかが誰かに必要とされる価値となり得ればよかったんだけど。なかったんだけど。

静かに、静かに落ちたとしても。深海に沈むには人間は軽すぎるらしい。どんなものであれ、落ちたものが浮かんでくる様子はどこかユーモラスだ。どうせ浮かんでしまうのならせめてその手を。繋ぐ臆病を、伸ばす怯懦を。言っただろう。遠くを見ることが苦手なのだ。そういうセンスが、著しく欠けているんだ。

 

ナンセンスはいい。なにもない人間が、人様を笑わせることができる。

 

広すぎる世界のすべてを知っていたら楽しいだろう。全知だけど全能じゃない神様。全能でわからないことだらけよりかは、他人を傷つけずにすみそうだ。きっと、それはいくぶん孤独なのだろう。知らなくてもわかっているというのも、それはそれで酷なのだと思う。

なんにもわからない人間だけが、また明日ねと笑うことができる。それは特権で、それは救済だ。

 僕たちは楽しい日があることを知っている。確かにあったんだと。感情に名前はついていないから、覚えることもできないまま。それは確かにあったんだと、そう叫ぶために明日も笑おうと決意する。

 

心は叫びたがったりしない。いつだって叫ぶのは口からで、声で、言葉しかない。それはすべてなんかじゃなくて、言葉ですべてが表せるなんてこと有り得なくて、だからこそその奥深くまで、心があるところまで、言葉を辿る必要がある。

 

それを聞こうと努力すると、決めたのはいつからだっけか。消えていくなら、拾い集めないと。憶えておかないと。そのすべてが人で、だからこの努力は、きっと人を愛せると信じた。それがいつだったか覚えていなくてもかまわないんだ。ただ、そう決めたことだけ覚えていれば、それでいいんだ。

海には沈めないほど軽くて、空には飛んでいけないほどに重いから。僕らは必死に波間をもがく。花や鳥と違って美しくも単純でもないから。せめて言葉は、目に見えるものは。

 

 透明な硝子の縁を、指でなぞるような日々を。僕の小規模で近視眼的な世界を。丁寧に丁寧に迎えては、縋るように祈るように迎えては、朝日の脆さに泣いてばかりだ。