ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

つまらないものをつまらないということは

 キンモクセイも落ちてしまった。
花は好きだ。季節の移り変わりに、てきとうな美しさをくれる。キンモクセイは花が自己主張激しすぎないのがいい。そのくせ遠くからもわかるのがいい。気づかない人には気づかれない高さで、当たり前のように咲いているのがいい。当たり前のような顔できれいに移り変わるものは美しい。雲だったり虫の声だったり風の温度だったり。そういうものが好きだ。とはいえ今回の話とは全く関係ない。


 モラルというのは難しい話でむっずかしい話でtoo difficultな話だから決して140字で話してはいけない。しかし、人間関係をやっていくためには、思考を整理しなければいけないときがある。ときにくだらない話を、一生懸命やらなきゃいけない時がある。削ぎ落とした言及はまあ、やはり、削ぎ落ちてしまっているのだろう。

 面白くないものという概念がある。設定にろくな整合性が取れていないSFや、源氏物語を永久に超えることのできない数多のラブコメ、目的や難易度が方向を見失ったゲームやシーンと音楽が絶妙に合わなかった舞台、横文字だらけの公約や声優へのクソリプ 、n度目に見たデスノートのセリフ入れ替え長文画像や、頭の悪い人が頭の悪いことを悠久に使いまわし続ける光景────

世の中には、面白くないものがたくさんある。

もちろん判断の基準は曖昧で、僕にとっては面白いことが人によってはつまらないということも当然ある。

だからこそ。おもしろくないものに対する姿勢は注意する必要がある。


いいですか、主観です。


おもしろくないものをおもしろくないというのは簡単なのだ。

ただ、それを人を傷つけずに行うのは難しい。言及はあまりにも安易に行われる。そこになぜ俺が引っかかるのか、まとめてある程度整理できるのかをやっていこう。きっとこれは、人間関係をやっていくうえでも役に立つはずだから。

 
感想を述べあうというのは共感を得るための活動だ。
だから、これはどうしようもなく主観しかないのだ。そこに正義はなく、信念しかないのだということを、まずは心に刻むことが、大切なんじゃないだろうかと思う。

極端な話をしよう。アマゾンのレビューには☆1しかつけずに無限に商品を非難し続ける人が無数に存在する。しかし僕はアマゾン☆1レビューオタクを叩くことができない。彼にとっては本当につまらないものだったかもしれないからだ。どんなゲームをやっても楽しめないとしたら悲しいことだが、そう思うことさえも僕のエゴにすぎない。ある人間が☆1レビューをするその瞬間に生きがいを感じているとしたら、その生き方に何を言えるんだ。なにか言えるほどの何かを僕は持っているのか。僕は、そういう人間だ。


 だけど僕らはその姿、その文を見てまず間違いなく傷つく。
さあ、なんで傷つくんだ?プレイしたこともないゲームの話を読んで、なんで腹が立つんだ?


 共感は確かにあるのだ。そこから始めさせてほしい。共有するべき規範はあるのだ。そこに正義はなく、信念しかないのだけれど。それぐらいは許してほしい。

 これは僕の文章で、
どうしようもなく俺の文章でしかないのだから。



①.おもしろいものをおもしろいということと、つまらないものをつまらないということは対偶ではないのだということ。
人の悪口を言ってはいけません。どうしてなんだろう?悪口を言うと敵をつくって生存確率を下げるから?社会生物としてうまくやる必要があるから?そういう話は別のところでやりましょう。この話に正義はありません。僕はダサいと思うからです。プラスの感情はいくら表出しようとうるさいくらいでその内容についてなかなか不快にはならないものだ。でもマイナスの感情の表出は途端に人を不愉快にさせる。単純に表裏の関係にはないのだ。これ、対人においてもそういう奴なら理解できるんだけど、ふだん常識人らしい人がコンテンツに対しては態度を豹変させるということがあって怖い。


②.否定は反例をひとつ示せばいいということの残酷さを
数学でやりましたね。正しいことの証明は大変なのに、間違っているものは一つ示せばいい。誰かの主張にくってかかるのは簡単なのだ。これを①と対応させる。面白いに対して人はそれに食って掛かろうとは思いにくい。でも、つまらないと言われたら気になるだろう。ならない?俺はなるんだよ。実はこれ自体はもう社会の中にけっこううまいこと組み込まれている。世のすべての主張はこれにのっとって論理が展開されているといっても過言ではない。「あなたはこう思っているでしょう、でも実はだめなんですよ、なんで?って思ったでしょう?それでは説明いたしましょう」これが全世界共通の論理展開だ。つかみとは驚かせることで、対話や理解のためにはどこかしらで相手の感情に対して煽りというか、揺さぶりをかけなければいけないのだ。それは全く当然である。
が、それとただ感想を表明することは軸を異にする。理由のあいまいな過度なマイナス感情の表明は、そのあと相手をもやもやさせる。慎重にするべきだ。共感性を十分に有した友達なんかならともかく、不特定多数に向けて叫ぶようなものではない。


①②はつまるところ、おもしろいは雑に使っても怒られにくいが、つまらないを雑に使うのはアウトだということである。



あまり強い言葉を使うなよ、弱く見えるぞ。
よくいったもので、程度がインフレした罵倒はそもそもがダサいのだ。たとえばちょっと転んだくらいで「マジ最悪死ねふざけんな」とか使ってしまう人って交通事故に巻き込まれたらなんていうんだろうな。言葉の使いすぎというか、結果としては使える語彙の制限、貧しさに繋がるように思う。もとの語彙が乏しいからという卵ニワトリ問題なのかも知れないけれど、それはまた別の話だ。あと、強い言葉というのは本質的にマウンティングするためにあるのだと思う。他人への命令や罵倒、これはつまるところ自分の相対的な地位を高めようとするものに相違ない。ならばそれをコンテンツに適用する人間はなんなのか。モノ言わぬコンテンツに対して罵詈雑言をあびせる意味とは。自分の立ち位置を高くして何の意味が…仮にクリエイターに対するものだとしてもダサいの極み…この行動がダサい2017…というか、それを無意識にしてしまっているとしたら…


 この③は僕が最も危惧する部分だ。ここにはなにかを否定するときに生じがちな自意識がある。なにかを肯定するときには、「これの良さがわからないお前らは愚かだ」理論は生まれにくいのですよ。もちろんないとは言わないよ。あんまりようわからんものを熱心にアピールされて、しかもお前はなんもわかっとらんとか言われたら驚いちゃうけれど。②で扱ったように、否定は肯定に比べてあまりに簡単なのだ。だから攻撃を受けやすい。同様に、なにかを否定するときに「これがだめだとわからないやつはだめだ」というニュアンスをまったく出さずに表現できる人がどれだけいるのか。いや、それを意識して発信する人すら、それを無遠慮に表出する人に比べてどれほどいるのか。
たとえ文章が稚拙だったとしても、否定したいのか批判しようとしているのかなんて一目見ればわかるものだ。雑に扱わない方がいい。ただの感情なら、そこには余計な言い訳をつけないほうがずっといい。
さらに言えば、「わからないやつはだめだ」、発生と同時に「わかる自分はすごい」というニュアンスが生まれる点も大きな問題だ。そのつもりがなくても生まれるのだ。この文章だって僕の全精神を集中して不快感を排除しようと努力してるけれど、それでも長くなればなるほど粗が出てくるのだ。どうしようもなく主観でしかないのだ。コンテンツの是非なんてほとんどないのだ。そして、ほんとうに希少な、みんなが共感して是非のわかるコンテンツに対して「自分はすごい」ってやるのは滑稽を通り越して悲しいものがあるのは言うに及ばない。


権威を笠に着るのはダサい
これはコンテンツだからこそみられるものかもしれない。すこし「コンテンツ」の枠を広げると思想家や政治の話につながって他人の人格否定まで進んでいく。背景知識を紹介することはなにも間違ってはいないと思う。深い知識に裏打ちされた言及には知性が宿る。ただし、一歩間違えればこれも「こんなこと知ってる自分すごい」が滲みだす。その話がどうつながっているのか、たんに知識をひけらかしているだけではないのか、難しい話こそいっちょかみのダサさは際立つ。さらにそれをする人間は(おそらく無意識に)③と結びつけて物事を語りだす。①も、たぶん②もわかっているような人でも簡単にやってしまう。とても正しそうな、まともなことを言っているような、誰かを傷つけるような、それを正当化するような、そんな文を書く人はこのあたりにいる。伝えるのは難しいことなのだ。一定の知識を共有した集団内でする会話なら許されることでも、インターネットで、足りない言葉で、安易に言い及ぶのは知性への反逆だ。





つまりは、





 つまらないことをつまらないというのは感情の問題で、そこには自分のことしか付け足してはいけないのだ。つまらないものがなぜつまらないのかを人に伝えたいなら、相手を馬鹿にしたり、自分を持ち上げたりしてはいけないのだ。
それがきちんとできるなら、どれほど難しいことなのかわかる。それでも叫ぶなら、長い文章が必要になる。言葉を尽くす旅路を。進もうとする覚悟が。



 どうしようもなく僕の主観にすぎない前提に、知らないだれかが喜ぶとうれしいという気持ちがあるんだ。知らない誰かを無意味に傷つけることに対する嫌悪があるんだ。それがきっと、おもしろいとおもしろくないに単なる裏表以上のイメージを持たせているのだ。


 だからおもしろくないものをおもしろくないというときには、誰よりも気を付けなければいけないのだ。できないならば、沈黙して座すしかないのだ。