ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

文体について知っている唯一の。

 梅雨は嫌いじゃない。

思っているほど雨は降らないし、梅の実の緑は静かだ。

 

 なんだろう。前文というものを書くのが苦手なのかもしれない。適当な人間だから適当な文からしか始められないんだろう。もしかしたら適当な文を書いていないと、適当な人間にはなれないのかもしれない。


 文体は世界と対峙するための鎧だと誰かが言った。電話やメールの普及によって、むきだしのまま外界と対面する時代が来たと述べていらっしゃった。物書きと呼ばれる方々にとって文体とは強固な鎧だ。世界とつながるためには自分が作り上げた文体だけを頼りに進むしかない。それは宇宙服に似ている。いまでもそうだろう。

 

 そんな文体とは異なり、SNSの世において、文体は一つの人格そのものになりうる。文字で交流するのがまだまだ主流である以上、文体を通して世界と対峙することは変わらない。むきだしのまま世界と対峙することはまだまだ無理だ。しかし筆者の名前と文章がタグ付けされた時代は終わった。インターネットの文体はひとりでに歩き出す分身だ。複数のアカウントなんてのはその証拠だろう。だから正確には別物の概念なんだけど、ほかに言葉を知らないから文体と呼ぶことにする。

 長かった。さて、ここからが今日の本題だ。暑くなる前に怪談でもしましょう。文体が、アカウント人格を侵食していく恐怖について、考えていきましょう。
 前回「いちど選択したなんとなくが当然になっていく」ことについてちょこっと触れた。

iriwopposite.hatenablog.com

 あそこだとやや不自然な入れ方になってた気もするけれど、今回はそこのお話。わかりにくいので言い方を変えましょう。つまりその、一回やってしまうと心理障壁が下がるということについて、どれほど気にしているんだろうかという話だ。

文体は自分の性格、信条を反映している。そうすると、なんとなく使わない言葉っていうのもあるはずだ。そして同時に、それをたまには使ってみたくなることがあるはずだ。それは死にたいと呟くことことかもしれない。主語のない曖昧な感情で承認を満たそうとすることかもしれない。目についたバズツイートへのクソリプリツイートして馬鹿にすることかもしれない。それに抵抗を感じなくなるということだ。

 

 一つ一つの行為はやりたくなっても不思議ではない。いやするのは個人の勝手だから別に悪いとか言ってない。ただ、最初にするときは多少抵抗があったと思うんだ。それがだんだん平気になっていったとして、そのことを、どれだけ気にしているんだろうか。
 前の話で言ったら、根拠なく人生を肯定してくれるコンテンツを消費することにためらいがなくなるということ。まあ個人差はあって、今例に挙げているのは俺が心理的抵抗を感じるものばかりなのでピンとこない方にはそんなん抵抗ありませんがってなると思う。

でもその、例えば自撮りとかなんにも思わずあげれる人もいるとはいえ、その人にもその人なりの線引きがあるはずで、それも日々揺らいでいるのではないだろうか。価値観の揺らぎ、善悪の区別、好き嫌いの押し付け、どれも日常で当然起こることではあるんだけど、文体はそれを加速させる。アカウントに表出する自己は個人の一面だ。複数アカウントとかの場合はなおさら、一面にすぎないはずの思考や嗜好が、文体という肉体を手に入れて個人を侵食していく。

 

 ツイッターを始めたころと、キャラが変わっていない人はどれほどいるのだろう。もちろん人間的な成長によって変わることはあるけど、それとは別にして、文脈にひっぱられてツイート内容が変わっていく人も多いのではないだろうか。タイムラインという概念は、文体の持っていた自律的な要素を、さらに手の付けられないところまで大きくさせてしまう。ある一面で気に入った人々が、自分にもあるその一面に沿った発言をするのを眺めることで、自己の一部分にすぎなかった部分が大きくなる。不可逆的に。

ついでにいうと、ネガティブなことのほうが人間引っ張られやすいのだ。いわゆるメンヘラ(通院の是非によらない方の意味)はそうやって出来上がるんじゃないかと思う。どうですか。心当たりが、ありますか。
 
 モラルは拡張していく。拡張しないと、自分を受け入れられなくなるからだ。必然、アカウントの性質は変容する。

 ただえてしてそれは漸次的なものになってしまう。あれだ、アハ体験的なやつだ。ここまでならセーフ、がいつのまにかけっこうキツイこと言うアカウントになってたりしないだろうか。文体に飲み込まれてはいないだろうか。キャラに自分が定義づけされていないだろうか。このアカウントでは〇〇は言わない、そういう自己規定は悪いことではないと思う。それならそれできちんと守れているのだろうか。変わったとして、はたして望ましい変化だろうか。

 僕はツイッターで人の悪口は言わないことにしている。それはかっこつけとかもあるけど、なによりそれに現実の自分が呑まれるのが恐ろしいからだ。でも不謹慎なのでネタがあったら使えないかとは考えてしまう。そのとき、iriwoppositeというアカウントはどこまでやっていいのか、は馬鹿みたいに考える。あの馬鹿みたいなアカウントが、馬鹿のままでいられるかを何度も確認する。

 

 文体はひとりでに歩き出した。

 それに振り回されて得られるものは、新たな自分なんかじゃなくて、肥大化した自己の一面にすぎないことが多い。で、たいへん遺憾なことにたいてい美点っていうのは肥大化しない。

 

 文体はもはや鎧ではない。

 自己の延長であると同時にリアルと同じ規模まで力を持ち、下手したら食らいついてくる。

 

 でも文体は、自分自身だ。

  その感性は自分のもので、だからこそ丁寧に歪ませないように、大事に扱っていくべきで。
 

 どういうことかというと、その、つまり。

 

 クソみたいな情報があふれかえるインターネットのなかにさらされていようが、僕は梅雨は嫌いじゃないし、初夏の花は青くてきれいなんだよと、人に伝えられる適当なアカウントでありたいのだという話だ。