いいですか。主観です。
誤解を恐れずいきましょう。ぼくは肯定ペンギンが怖い。
次に誤解を全力で避けていこう。るるてあさんの絵柄はかわいいしペンギンもかわいいし好きだ。だじゃれもいい味出してるし見てるだけでゆるふわな感じになってすばらしい。べつにペンギン恐怖症でもない。
でもいいねをしたこともない。
いろいろあるんだけど、まずは表面的なことを言うと、人はそんなに曖昧に褒められていいのかと思うのがある。いや嘘だ。正確には、曖昧な存在に、曖昧に褒められていいのか、だ。
だからその、肯定ペンギンがどうこうというより、肯定ペンギンが数万RTされることにとまどいを覚える。言うなれば、恐怖を覚える。
知らない人になんか言われて救われた気持ちになる、そういうのもあるかもしれない。そういうのと同じだ、と言われるとそんな気もしなくはない。けどほんとか?そんな一種の奇蹟みたいなことを、数万人が感じてるとでもいうのか。あ、誤解しないでもらいたいのだけれど、これから書く文に対してそこまで目くじらたてる話じゃないだろう馬鹿みたいだ、っていう意見は俺だって半分くらいそう思ってるからな。これは俺の感想文であって、論説文ではない。
多くの人はなんとなくだ。なんとなくいいな、と思い、どちらかといえば好きだから、そういう気持ちでいいねやリツイートをする。それは、それ自体は、なんらおかしいことではない。俺だってそうだ。
しかしなんとなくは徐々に行動や意識を固定していく。最初はどっちかといえば右かな~くらいだった意識が、何回と繰り返すうちに必ず右を選ぶようになる。詳しくは今度考えるとして、今回の話の肯定ペンギンに戻る。
肯定ペンギンの最大のポイントは、根拠なく自己肯定感を満足させてくれることだ。根拠ないからこそ、そこにおもしろさやポップ感が生まれ、かつかわいらしいペンギンについいいねの手が伸びる。だけどやっぱり、伸びすぎじゃないかと怖くなる。
ラインスタンプに感じる空恐ろしさと共通する面もある。ラインスタンプが悪だというつもりはない。文章でできる情報伝達には限界があり、それを越えうる可能性がスタンプには存在する。遠隔コミュニケーションに共感を持ち込みやすくする、画期的なアイデアだとは思っている。だけど、どんな文明の利器も使い方次第である。
日本語はあいまいさを好む。あいまいな言の葉に込められたものを、言外の相手のすべてから読み取ることを望む。いい悪いの話ではない。そういう文化的土壌がある。逆に用件を伝えるなら短い文で済む。電報、ポケベルがはやり、メールがトラブルを生みがちだった前提だ。だからこそスタンプは日本で爆発的な人気を見せた。個人的な視点では、ラインは日本語チャットコミュニケーションのパラダイムシフトと言っても過言ではないと思う。(同様の機能は他アプリにもあったが、環境整備などの速度でラインがいわゆるone takes all状態にあり、影響力が大きかったのは周知のことと思う)
長くなってしまった。何が言いたかったかというと、スタンプ自体はイノベーションだということ、一定の評価がされるべき発明品だということだ。会話の補助としては革新的なアイテムだと思っている。
そしてそのうえで僕が言いたいのは、スタンプで加速度的に生まれた、“かわいらしい絵柄でなんとなくごまかすタイプの文化”が、僕は心底苦手だということだ。区別もつきにくいし誰しもやりがちなことなので面と向かっても叩きにくいあたりもたちが悪い。
極論を言えば嘘をついたり、言わなくてもいいことを言わない、そういう会話をより悪質にしたものだ。苦手だ、というのは、そういうコミュニケーションがあるのは仕方ないことだからだ。しかし、かわいい絵柄にはなんの罪もなく、やっていることへの意識を無限に薄めてしまう。僕はそのことがあまりにも怖い。悪意が、悪意とは言わないまでも決して明るくはない心が、ポップな絵柄で軽々と、堂々と宙に舞うことが。
繰り返すけれど、肯定ペンギンはなにも悪くないです。るるてあさんの絵柄はむしろ好きだしかわいいしこれからもいっぱい描いてください!って思ってる。
論点はそこじゃなく。
なにげなく肯定ペンギンが数万RTされてしまう社会は、“かわいいから”で済むのかと。
漠然とした不安が、そこにはあると。うす気味悪く思う。
ついでなので、毎日なにげない一言で救ってくれる存在がいるのは素晴らしいことだから、みんな自分にとっての自分だけの肯定ペンギンを見つけられるといいですね、といい感じに締めて終えようと思う。
もちろん、そんなもんがいなくたって、やっていかなきゃいけないのは一緒だけどな。
特に意味はありませんが見出しにするとやたら大きくていいね。
ああそうだ、そして。うれしいことがあったなら、いやなことがあるならば、自分の言葉で伝えて欲しいのだ。代弁者ではなく。代弁するつもりがあるのかもわからない、誰かのつくったモノでなく。できる限りの言の葉を、尽くしたさきに伝わるものを、大切にしていきたいのだ。俺は身勝手で、察するのが苦手なので。
追記:肯定ペンギンの初出はハナウタさんだってさ
追記2:今回は“かわいい”が孕む怖さについてフォーカスしたかったのでこうなったんですが、序盤に一瞬ふれた恐ろしさについては以下のツイートが本当にきれいにまとまっているのでぜひご覧ください。
〜が生きてるだけで褒めてくれるbot系も苦手なので、可愛さに曖昧さゆえの危うさなどを埋め込んでしまうというよりはむしろそうした不特定に曖昧な肯定がむき出しに消費されていく光景がそもそも私にとってはこわいんだろうな
— カーブミラー取り付け位置 (@ioriveur) 2017年6月5日
(主に能力と労力の兼ね合いで)言及をぼかしたところへの鋭い指摘です。個人的には、肯定ペンギンはその二つの合わせ技の面があって、より破壊力(拡散力)が増しているのではないか、と思う。
このように書き漏らしは多々あるんですが、今回の文章の流れは途中も言ったように今度書くおっきめな文章を書くための下準備です。ですので、一面に限定したものとしてみてもらえるとありがたいです。自分でつっこめる範囲で怠ける時例に突っ込まれて精神によくないな。反省した。