ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

できないことが面白さにつながるというお話

 

 今ゼルダの伝説がアツいですね。初のオープンワールドとのことで。オープンワールド洋ゲーでは多いけれど、単にマシンのスペックが上がって広いワールドが作れるようになった、とそれだけではないと思う。

 和ゲー、とくに任天堂。が、なんでおもしろいのか、について。昔かなり面白い視点を得る機会があったので書こうと思う。

 

 それは、名前は忘れてしまったんだけど、オブジェクトによって人の行動をある程度操作する、という考え方だ。例えば駅前によくわからんグニャグニャしたオブジェを置いたり、ベンチに席ごとに手すりをつけるのは浮浪者が寝たり拠点にするのを防ぐためだそうだ。

もとからそうある地形に対してはなかなか疑問を抱かないというかそういうものだからしかたないわけだけど、普段から無意識のうちに行動を制限されているという視点は面白い。住宅がなければ大概のルートは直進できるという話だ。

 これは日常生活のことだから、さほど作為は感じない。作為的な場合もあるって言っても行政レベルの作為。だがこれがゲームだとどうだろう。100%隅々まで作為がある。作為しかない。どうして城から魔王のところまで直進ショートカットできないのだろう?どうして飛び越えた段差はのぼれず、モンスターの出てくるくさむらを通らなきゃいけないんだろう?その行動は一見当たり前で、プレイヤーの選択に見せかけられている。しかしそれは開発者の意図だ。そこに理由をつけるためのRPGのストーリーだ。俺自身はだから開発者が一番楽しいだろなんて思うのだけど、それはまた別の話だ。

 実は、そういった開発者による制約こそが多くのゲームの面白さにつながっているという見方は大事だ。

 たとえば正方形のマップをイメージしてもらいたい。左上がスタート地点で左下がゴールだとして、単に真下に行くだけでクリアできたとしたら果たして面白いだろうか?では右上にある鍵を手に入れなければ扉が開かないとしたら?左下の人物に、話しかけないと鍵を探しにいけないとしたら?

 “できない”ことによってゲームは複雑さを増すのだ。そして任天堂の名作と呼ばれる作品、たとえばマリオ、カービィゼルダといったものは、そのバランスが職人技といえるレベルで調整されている。

 具体的にマリオを例に挙げてみる。マリオの最大の特徴は何かと言えば、ダッシュとジャンプしかできないという点である。そして、“ジャンプの飛距離がそれによって変わる”という点である。ここに“できないこと”と“できること”のバランス調整という概念の極致がある。そういう目でいちど任天堂作品を捉えると、いかに変態チックなゲーム作りをしているかわかると思う。

 Youtubeなんかでも、縛りゲーというものをやっていらっしゃる方は多い。自分にあえて制約を課してクリアするとかだ。ナイフだけでバイオハザードクリアとか、コイキングだけでポケモンクリアとか。マゾかよとか言ってはいけない。できるようになるとチャレンジしたくなるのが人間なのだ。まああれはできるのにあえてやらない、ことにも意味があるから一概に同じ話にはできないのだけれども。

 逆に、制約があるせいで一本道だという考え方もある。しかし、ドラクエの新規性は、それまでどこになにがあるかなんて全くわからなかったゲームが、あからさまな立て札や助言によって進むべき道がわかりやすくなったことにあった。スペック、技術が追いついた今だからこそオープンワールドが叫ばれるが、昔はキャラの容姿もお察しの画質であるからして、会話イベントだ目的だのをしっかりしていることがロールプレイの要だったわけだ。

 

 今や単純なジャンプでゲームを楽しむには環境があまりに複雑になってしまった。それでも、根底にあるものを振り返るのは悪いことじゃない。オープンワールドったって結局は箱庭の延長だ。作意の形が変わっただけで、ユーザーとディベロッパーの関係は変わらない。ただまあ、せっかくユーザーをやるなら、より深く、神と同じ視点に立ったうえで、その手のひらの上で楽しむというのも、案外悪くないものだと、そう思う。