ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

好きなものの話をするオタクを殺さないで

 オタクが人間関係をやっていくために。

  またはオタクと人間関係をやっていきたいと思う方のために。

  あとは僕がこれから自分の好きなコンテンツの紹介をするタイミングが来る、その前に。

 

 今回は"オタク"と"すきなもののはなし"と"コミュニケーション"という地獄の食べ合わせをどう料理して人間関係に落とし込むべきかという話がしたい。当然ながら俺の主観だけど、かなり研究した結果なので、汎用性は高いと思います。

 

 まずは前提条件の確認をします。前提条件のすりあわせは大切だ。オタク、圧倒的に自覚が足りないことが多い。いくぞ。

オタクにとっての"すきなもの"は、へたしたらその個人の全存在である可能性がある

前提条件なので、ここをなめらかに、それはもう昨日の明日は今日だよ、くらいのテンションでパスしてほしい。

つまり、オタクにとっての"すきなもののはなし"は全存在をかけた自己PRなのである。すくなくとも、自分の魂の多くをコンテンツにつぎこんでいる。誇張じゃない。誇張であればいいのに。オタク同士では暗黙の了解なので本人でさえ自覚してなかったりする。マジかよ。マジだ。オタク同士のコミュニケーションは比較的スムーズに進む、というのはこれが大きな要因だと思う。自分と相手の間にコンテンツという道具をはさむことで、初対面のオタク同士が同じ釜の飯を食ったかの如く仲良く話し出すという異常な風景があたりまえのように現出するのを僕は何度も見てきたし、実感もしてきた。

 

しかしながら、かなしいかな、これは異常だ。

 

 本来初対面の人間と自分の本音をぶつけあって熱く語り合うなんてことが起こるわけないのだ。なんせ相手の好き嫌いなんてわからないからだ。さらにいえば、初対面から自分のすべてをぶつけるのは社会ルール違反だとまでいっても(たぶん)いい。なんせ自分がそいつのことをそこまで知りたいかなんて初対面ではわからないからな。

 

一般コミュニケーションとオタクコミュニケーションの一番の違いはここにある。イメージとしてはオタクは大量の自己紹介用の道具を持っていると考えてほしい。ただしそれはわかるひとにしかわからない

 

 さて、ここまでで地獄の蓋の入り口まできた。そのまま地獄に進む。

 

 今まで述べた一般コミュニケーションとオタクコミュニケーションがぶつかるとどうなってしまうのか。

 そこに生まれるのは拒絶だ。大量の自己紹介道具はなんの役にもたたない。オタクは小さな名刺を交換し合うような交流より、自分について書かれた分厚い(そしてたいていクソ重い)辞書を投げつけあうような交流を好むが、そんなのむこうは知ったこっちゃない。交流というのは拒絶されたらもうおしまいだ。後には何も残らない。僕たちには灰になったオタクの死体を海に撒くだろう。21gの魂を失ったオタクの死体は心なしか軽いかもしれない。

 

  結論から言おう。オタクがすきなもののはなしをするのは最終手段だ。そして、けっしてやりすぎてはだめだ。想定の半分でちょうどいいくらいだ。それで十分人は満足するし、それくらいなら「ちょっとくわしい人」枠に留まれる。横文字を使うな、あらすじを説明するな、文献を引用するな、過去編に突入するな、四字熟語を使うな、専門用語を並べるな。やりたいのはわかる、でもそれは求められているのか?

 

 コミュニケーションは相手のことを第一に考えるべきだ。初対面ならなおさらだ。オタク同士ならたとえ分かり合えなくとも好きなものへの熱意は共有できる。しかしそれを誰もに期待するな。死ぬぞ。悪意がないぶん容赦もないからな。ゴキブリだ、殺せ!くらいのノリで駆逐されてしまうからな。あと知らないことを聞くのが好きとかいう奴。あれは八割方嘘だと思え。少なくとも、おまえの"好き"と同じだと思うな。

 繰り返すが異文化交流だ。しかもむこうが多数派だということを死んでも忘れるな。忘れたときが最期だという意識を常に持つのが大事だ。

  全編通してオタクとそれ以外を二分化しているけれど、多少なりとも自覚があるなら全部オタク視点で対処すればいい。大は小を兼ねる。

 

 

 ───それでも語りたいのなら話をしよう。

 

 好きなものの、話をしようじゃあないか。