ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

言及をするな英語でも勉強しろ。

 8月になろうとしている。夏と呼ばれる季節だ。俺は日本の四季には詳しくて、生涯をその道に捧げてきたと言っても過言じゃないくらい日本にいるというかなんなら日本国外に出たことがないのでもうこれは専門家と言っても間違いない。専門家の意見としては夏は暑い。

 蝉が元気に鳴いている。元気に鳴いているから元気に死ぬんだろう。そのへんは専門じゃないから間違っているかもしれない。

 

さて。

 

いいですか、主観です。

 

 なんども、なんども、なんどもなんども言ってきた、「喋るなオタク」に対して、最近僕の中に比較対象が生まれてきた。誤解を承知で一言でいうなら、論者、というあれである。あれはなんだ。ツイッターでなにかを論じるあれは。あれは喋りすぎたオタクの果てなのか。俺はそれなりにオタクを肯定的にみているけど、インターネットの野原に放つとあんな風に育ってしまうのか?最初から野生開放で行くのか?きみは言及が得意なフレンズなのか?雑な知識の振り回しはオタクのそれとは軸を異にする。いったいあれは。

 

 

 何かを論じるというのは難しい行為だ。小学生だってわかる。「~はなぜですか」て記述問題で訊かれると答えづらい。必要な知識は当然のこととして、さらにそれを自分の中で一貫した論理体型に落とし込む必要がある。そもそも日本語ができないと書けないし。ちなみに今回はそれなりに長くて整理がつかないので、同時並行で英語の勉強もしていこうと思う。

  何かを論じるというのは難しい行為だ。

答えのはっきりした問題でさえそうだ。ましてや答えの出にくい問題なんて。ああそうだ。今回僕は、安易な言及について書こうとしている。

  だって何かを論じるというのは難しい行為だからだ。

 

むずかしい 難しい

 

 

 

 答えの出にくい問題に、もしかしたらいけるんじゃないかと夢見て延々考えぬくことを、学問と呼ぶ。

 である以上言及というのは、最大限の謙虚さをもってなされるべきだ。政治であれ経済であれ、歴史恋愛教育にいたるまで、解決策があるならとっくにみんなハッピーになってるはずの問題だ。ああいうのはみんなでなんとか妥協案を探しあっていくために語り合うのだ。こうこう僕は思います。あなたはどうですか?怯えるくらいでちょうどいい。関係ないが僕は英語がペラペラ喋れる人と話すときいつも怯えている。

 

 議論のための指針をあたえるのが専門家であり、大学教授なんか見ればわかるように、まともにそういう問題と向き合うには長い年月が必要だ。もちろん論文とかは出すわけだけど、4,50歳を超えてからが後継を育てるだとか学生へ知識を還元する段階に入ると聞く。その段階の知識人というのはもう存在が一つの知識機構として機能するように思う。「個の極致」蟻の王にも見逃してもらえるレベルだ。それだって、むしろ学問を続ける人ほど、あくまで私は現状こう考える、という姿勢を貫いているように思う。全く関係ないが貫くという英語をpenetrateって覚えてから、ペネトレイターって名前の武器がゲームに登場するとテンションがあがる。

 

 そういった諸問題をインターネット論者は。

どうしてそんなに雑にたたき斬ることができるんだ。

 断定できないことを断定するという行為は知性への反逆だ。排他は傲慢だ。

わかってきたんですが、どうやら俺は断定することが嫌いらしいです。

 

 

インターネット論客との付き合い方の示唆として、①なぜ断定してしまうのか、②なぜ人気がでるのか、③自分たちもそういった言及をしてしまうのではないか。この三点を主軸にして考えていこうと思う。そういえば英作文とかスピーチあるあるなんだけど、とにかくI have three points!って叫んでからしゃべる人のことをスリーポインツおばけと呼んでいる。他意はない。

 

  • なぜ断定してしまうのか

 前提として、まともな思考回路をしていたら雑な断定言及などできるわけがないのだ、ということにしておきたい。これはフォロワーによる監査が入ることを考えればある程度保証される。本当に頓珍漢なことを言ってたら相手にされない。ちなみに英語が話せないと海外では相手にされない。

 

    とんちんかんな 

tonntinnkan

 
どうもとんちんかんだった. All you said is very tonntinnkann.Fuck off.

 

だから、雑な断定というのはまともじゃない状況に置かれてしまったときに起こるものだ。(ということにしておきたい

 

 ツイッターにおいて個人に影響を与えうるものはいいねRT、そしてフォロワー数だ。リプは数値化できないので割愛する。これが増えることでクソ言及という行動へのインセンティブが高まってしまうと仮定できる。わかりやすいイメージだと権力といいかえてもいい。真面目に話しだすときりがないので適宜補ってください。政治家が自分の専門外のことにまで誤った論説を広げてしまうのに似ている。まともじゃない状態というやつだ。まともの定義も長くなるので察してください。

これはまるまる評論家に当てはめてもいいだろう。名声が上がるとトンデモ理論を語りだす人がいるのはこのためだろう。ただし匿名性の高いインターネットのほうがそのリスクは高いことに注意する必要がある。ところで匿名チャットで外国人とお話して英語力を上げるとかいう方法論あると思うんですけど、あれめちゃくちゃ怖くないですか?話とは関係ないんですけど。

 

 もう一つ、環境的な制約を考えると、140字しかないというのはあるだろう。140字でまともな意見を言うのは卓越した言語能力が必要だ。不可能とまでは言わないけれど、どうしても構成に不備が生まれるのは仕方のないことだとは思う。僕が相対的に英語がドチャクソ苦手なのは完璧に自分の責任だと思う。

 

  • なぜ人気が出るのか

何かを論じるというのは難しい行為だ。

 でもみんな考えたことを話したいのだ。ただゼロから考えるのは大変だから、それっぽいところからパッケージングされた思考をもってくる。いっちょかみほど簡単かつ知的活動した気になれる行為もなかなかない。あと、断定してもらえると安心できる。がんばればもしかして夢がかなうかも…といわれるよりも、お前はダメだと言われた方がありがたいのと似ている。(適当に書いたけどこれは多分違う気がする)この点に評論家という職業の意義があると僕は思う。社会に新しい切り口から物事をみるよう促す。思考しない人間の集団からは成長が失われるだろう。ちなみに英語は語学なので考えてから喋っているうちはだめだそうです。

 断定している人は答えを指し示してくれる人だ。少なくともそう見える。そう見えさえすればいい。ここで先ほどの断定するインセンティブに戻るけれど、インターネットでは発言に責任を取らなくていいというのもモラルハザードにつながる事実だと思う。

 クソリプの存在については今回は考慮しないことにしている。あくまで断定言及型の大規模アカウントとの付き合い方を考えよう。

だ っ て 流 れ て く る ん だ も ん 。

 

   だって流れてくるんだもん

itiiti uruse-yo damare

 

 

  • 自分たちもそういった言及をしてしまうのではないか 

 これ。これだよ。これが問題だ。いや断定言及で社会にもの申すはさすがにしないと思うんだけれども。自分が他人を攻撃してしまうタイミングというものは、どこまでも気にしておくべきだ。何よりも問題なのは自分の行動だ。人のふり見て己を直せ。

 

 言及なんかしてる暇はない。喋るなオタク。知識を磨け。

 

何かを論じるというのは難しい行為だ。

 

何かを論じるというのは難しい行為だなんて、わかっているはずなのだ。

 

なのに僕らはすぐ、何かを論じるというのは難しい行為だと、忘れてしまうのだ。

 

わすれる 忘れる

 

 
私は覚えてもすぐ忘れてしまう。
Even if I memorize that I will forget right 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文体について知っている唯一の。

 梅雨は嫌いじゃない。

思っているほど雨は降らないし、梅の実の緑は静かだ。

 

 なんだろう。前文というものを書くのが苦手なのかもしれない。適当な人間だから適当な文からしか始められないんだろう。もしかしたら適当な文を書いていないと、適当な人間にはなれないのかもしれない。


 文体は世界と対峙するための鎧だと誰かが言った。電話やメールの普及によって、むきだしのまま外界と対面する時代が来たと述べていらっしゃった。物書きと呼ばれる方々にとって文体とは強固な鎧だ。世界とつながるためには自分が作り上げた文体だけを頼りに進むしかない。それは宇宙服に似ている。いまでもそうだろう。

 

 そんな文体とは異なり、SNSの世において、文体は一つの人格そのものになりうる。文字で交流するのがまだまだ主流である以上、文体を通して世界と対峙することは変わらない。むきだしのまま世界と対峙することはまだまだ無理だ。しかし筆者の名前と文章がタグ付けされた時代は終わった。インターネットの文体はひとりでに歩き出す分身だ。複数のアカウントなんてのはその証拠だろう。だから正確には別物の概念なんだけど、ほかに言葉を知らないから文体と呼ぶことにする。

 長かった。さて、ここからが今日の本題だ。暑くなる前に怪談でもしましょう。文体が、アカウント人格を侵食していく恐怖について、考えていきましょう。
 前回「いちど選択したなんとなくが当然になっていく」ことについてちょこっと触れた。

iriwopposite.hatenablog.com

 あそこだとやや不自然な入れ方になってた気もするけれど、今回はそこのお話。わかりにくいので言い方を変えましょう。つまりその、一回やってしまうと心理障壁が下がるということについて、どれほど気にしているんだろうかという話だ。

文体は自分の性格、信条を反映している。そうすると、なんとなく使わない言葉っていうのもあるはずだ。そして同時に、それをたまには使ってみたくなることがあるはずだ。それは死にたいと呟くことことかもしれない。主語のない曖昧な感情で承認を満たそうとすることかもしれない。目についたバズツイートへのクソリプリツイートして馬鹿にすることかもしれない。それに抵抗を感じなくなるということだ。

 

 一つ一つの行為はやりたくなっても不思議ではない。いやするのは個人の勝手だから別に悪いとか言ってない。ただ、最初にするときは多少抵抗があったと思うんだ。それがだんだん平気になっていったとして、そのことを、どれだけ気にしているんだろうか。
 前の話で言ったら、根拠なく人生を肯定してくれるコンテンツを消費することにためらいがなくなるということ。まあ個人差はあって、今例に挙げているのは俺が心理的抵抗を感じるものばかりなのでピンとこない方にはそんなん抵抗ありませんがってなると思う。

でもその、例えば自撮りとかなんにも思わずあげれる人もいるとはいえ、その人にもその人なりの線引きがあるはずで、それも日々揺らいでいるのではないだろうか。価値観の揺らぎ、善悪の区別、好き嫌いの押し付け、どれも日常で当然起こることではあるんだけど、文体はそれを加速させる。アカウントに表出する自己は個人の一面だ。複数アカウントとかの場合はなおさら、一面にすぎないはずの思考や嗜好が、文体という肉体を手に入れて個人を侵食していく。

 

 ツイッターを始めたころと、キャラが変わっていない人はどれほどいるのだろう。もちろん人間的な成長によって変わることはあるけど、それとは別にして、文脈にひっぱられてツイート内容が変わっていく人も多いのではないだろうか。タイムラインという概念は、文体の持っていた自律的な要素を、さらに手の付けられないところまで大きくさせてしまう。ある一面で気に入った人々が、自分にもあるその一面に沿った発言をするのを眺めることで、自己の一部分にすぎなかった部分が大きくなる。不可逆的に。

ついでにいうと、ネガティブなことのほうが人間引っ張られやすいのだ。いわゆるメンヘラ(通院の是非によらない方の意味)はそうやって出来上がるんじゃないかと思う。どうですか。心当たりが、ありますか。
 
 モラルは拡張していく。拡張しないと、自分を受け入れられなくなるからだ。必然、アカウントの性質は変容する。

 ただえてしてそれは漸次的なものになってしまう。あれだ、アハ体験的なやつだ。ここまでならセーフ、がいつのまにかけっこうキツイこと言うアカウントになってたりしないだろうか。文体に飲み込まれてはいないだろうか。キャラに自分が定義づけされていないだろうか。このアカウントでは〇〇は言わない、そういう自己規定は悪いことではないと思う。それならそれできちんと守れているのだろうか。変わったとして、はたして望ましい変化だろうか。

 僕はツイッターで人の悪口は言わないことにしている。それはかっこつけとかもあるけど、なによりそれに現実の自分が呑まれるのが恐ろしいからだ。でも不謹慎なのでネタがあったら使えないかとは考えてしまう。そのとき、iriwoppositeというアカウントはどこまでやっていいのか、は馬鹿みたいに考える。あの馬鹿みたいなアカウントが、馬鹿のままでいられるかを何度も確認する。

 

 文体はひとりでに歩き出した。

 それに振り回されて得られるものは、新たな自分なんかじゃなくて、肥大化した自己の一面にすぎないことが多い。で、たいへん遺憾なことにたいてい美点っていうのは肥大化しない。

 

 文体はもはや鎧ではない。

 自己の延長であると同時にリアルと同じ規模まで力を持ち、下手したら食らいついてくる。

 

 でも文体は、自分自身だ。

  その感性は自分のもので、だからこそ丁寧に歪ませないように、大事に扱っていくべきで。
 

 どういうことかというと、その、つまり。

 

 クソみたいな情報があふれかえるインターネットのなかにさらされていようが、僕は梅雨は嫌いじゃないし、初夏の花は青くてきれいなんだよと、人に伝えられる適当なアカウントでありたいのだという話だ。

肯定ペンギンとラインスタンプと伝えたいなにかと消えていく言葉が

 いいですか。主観です。

 

 誤解を恐れずいきましょう。ぼくは肯定ペンギンが怖い。

 次に誤解を全力で避けていこう。るるてあさんの絵柄はかわいいしペンギンもかわいいし好きだ。だじゃれもいい味出してるし見てるだけでゆるふわな感じになってすばらしい。べつにペンギン恐怖症でもない。

 

 でもいいねをしたこともない。

 

 いろいろあるんだけど、まずは表面的なことを言うと、人はそんなに曖昧に褒められていいのかと思うのがある。いや嘘だ。正確には、曖昧な存在に、曖昧に褒められていいのか、だ。

 

 だからその、肯定ペンギンがどうこうというより、肯定ペンギンが数万RTされることにとまどいを覚える。言うなれば、恐怖を覚える。

 

 知らない人になんか言われて救われた気持ちになる、そういうのもあるかもしれない。そういうのと同じだ、と言われるとそんな気もしなくはない。けどほんとか?そんな一種の奇蹟みたいなことを、数万人が感じてるとでもいうのか。あ、誤解しないでもらいたいのだけれど、これから書く文に対してそこまで目くじらたてる話じゃないだろう馬鹿みたいだ、っていう意見は俺だって半分くらいそう思ってるからな。これは俺の感想文であって、論説文ではない。

 

 多くの人はなんとなくだ。なんとなくいいな、と思い、どちらかといえば好きだから、そういう気持ちでいいねやリツイートをする。それは、それ自体は、なんらおかしいことではない。俺だってそうだ。

しかしなんとなくは徐々に行動や意識を固定していく。最初はどっちかといえば右かな~くらいだった意識が、何回と繰り返すうちに必ず右を選ぶようになる。詳しくは今度考えるとして、今回の話の肯定ペンギンに戻る。

 肯定ペンギンの最大のポイントは、根拠なく自己肯定感を満足させてくれることだ。根拠ないからこそ、そこにおもしろさやポップ感が生まれ、かつかわいらしいペンギンについいいねの手が伸びる。だけどやっぱり、伸びすぎじゃないかと怖くなる。

 

 ラインスタンプに感じる空恐ろしさと共通する面もある。ラインスタンプが悪だというつもりはない。文章でできる情報伝達には限界があり、それを越えうる可能性がスタンプには存在する。遠隔コミュニケーションに共感を持ち込みやすくする、画期的なアイデアだとは思っている。だけど、どんな文明の利器も使い方次第である。

日本語はあいまいさを好む。あいまいな言の葉に込められたものを、言外の相手のすべてから読み取ることを望む。いい悪いの話ではない。そういう文化的土壌がある。逆に用件を伝えるなら短い文で済む。電報、ポケベルがはやり、メールがトラブルを生みがちだった前提だ。だからこそスタンプは日本で爆発的な人気を見せた。個人的な視点では、ラインは日本語チャットコミュニケーションのパラダイムシフトと言っても過言ではないと思う。(同様の機能は他アプリにもあったが、環境整備などの速度でラインがいわゆるone takes  all状態にあり、影響力が大きかったのは周知のことと思う)

 長くなってしまった。何が言いたかったかというと、スタンプ自体はイノベーションだということ、一定の評価がされるべき発明品だということだ。会話の補助としては革新的なアイテムだと思っている。

 そしてそのうえで僕が言いたいのは、スタンプで加速度的に生まれた、“かわいらしい絵柄でなんとなくごまかすタイプの文化”が、僕は心底苦手だということだ。区別もつきにくいし誰しもやりがちなことなので面と向かっても叩きにくいあたりもたちが悪い。

 極論を言えば嘘をついたり、言わなくてもいいことを言わない、そういう会話をより悪質にしたものだ。苦手だ、というのは、そういうコミュニケーションがあるのは仕方ないことだからだ。しかし、かわいい絵柄にはなんの罪もなく、やっていることへの意識を無限に薄めてしまう。僕はそのことがあまりにも怖い。悪意が、悪意とは言わないまでも決して明るくはない心が、ポップな絵柄で軽々と、堂々と宙に舞うことが。

 

 繰り返すけれど、肯定ペンギンはなにも悪くないです。るるてあさんの絵柄はむしろ好きだしかわいいしこれからもいっぱい描いてください!って思ってる。

 

 論点はそこじゃなく。

 

なにげなく肯定ペンギンが数万RTされてしまう社会は、“かわいいから”で済むのかと。

漠然とした不安が、そこにはあると。うす気味悪く思う。

 

 ついでなので、毎日なにげない一言で救ってくれる存在がいるのは素晴らしいことだから、みんな自分にとっての自分だけの肯定ペンギンを見つけられるといいですね、といい感じに締めて終えようと思う。

もちろん、そんなもんがいなくたって、やっていかなきゃいけないのは一緒だけどな。

特に意味はありませんが見出しにするとやたら大きくていいね。

 

 ああそうだ、そして。うれしいことがあったなら、いやなことがあるならば、自分の言葉で伝えて欲しいのだ。代弁者ではなく。代弁するつもりがあるのかもわからない、誰かのつくったモノでなく。できる限りの言の葉を、尽くしたさきに伝わるものを、大切にしていきたいのだ。俺は身勝手で、察するのが苦手なので。

 

 追記:肯定ペンギンの初出はハナウタさんだってさ

追記2:今回は“かわいい”が孕む怖さについてフォーカスしたかったのでこうなったんですが、序盤に一瞬ふれた恐ろしさについては以下のツイートが本当にきれいにまとまっているのでぜひご覧ください。

(主に能力と労力の兼ね合いで)言及をぼかしたところへの鋭い指摘です。個人的には、肯定ペンギンはその二つの合わせ技の面があって、より破壊力(拡散力)が増しているのではないか、と思う。

 

 このように書き漏らしは多々あるんですが、今回の文章の流れは途中も言ったように今度書くおっきめな文章を書くための下準備です。ですので、一面に限定したものとしてみてもらえるとありがたいです。自分でつっこめる範囲で怠ける時例に突っ込まれて精神によくないな。反省した。

スクエニの専務のお話が聞けてうれしかった話

 やっと時間ができた。今回は完全にゲームの話です。なんてったって、もう二週間以上前のこと。

 スクウェア・エニックス・ホールディングス専務執行役員こと橋本真司さんの講演を聞く機会に恵まれた。タイトルはまんま「ファイナルファンタジー30周年を振り返る」。30周年なんですよね。終わるはずだった物語が30年。橋本さんを知らない人は

橋本真司 - Wikipediaでも読んでください。あんまり情報がないんですが、Ⅶ以降ほぼすべてにかかわってる人です。ITCイノベーターとしてのゲーム業界からの参加という形なので、企業、事業としてのゲームのお話ですね。

 

 はじめに態度を明確にしておくんですけど、僕はキングダムハーツが大好きです。厨二病は治らない。まあ確かにFF13レベルの神だの云々が生理的に無理って人もわかるけど、俺は大丈夫だ。キングダムハーツはいいぞ。大丈夫、分かり合えなくても気にするな、俺も無理には勧めない、いくぞ。

 

 いくぞとは言ったんですけど別にFF各論とかをするつもりはないんですよ。長いし。そんな暇あったらソーセージレジェンドか大胸筋RPGやります。あ、これスマホの良ゲー(要出典)。頭が悪いのでおすすめです。よし。はい、開幕当初はもちろんあれです、FF15のお話から始まりました。しかしまあ、お察しというか、そもそも場が場だったのでゲームを普段からする人が少なかった。ドラクエをやったことある人って質問でノリノリで手を挙げた方がめちゃくちゃ好印象だった。どうでもいいな。FF15は叩かれてるっていいますが、僕は基本CMやパッケージを見て自分の心で決めるので人の評価は見ることはないんですが、掲示板とかで叩くのってなんか本当にダサいですよね。お前に何がわかるんだ感がすごい。このお前に何がわかるんだ感がすごい2017。それにひきかえ中の人のお話は説得力がありました。以下箇条書きでトピックを。

FF15PS4も売れているという話

 PS4。売れているらしいですよ。確かに日本で話を聞かない割にソフトのラインナップは魅力的だとおもってた。FF15も売れているとのこと。へえ。そうらしいんだよ。つまりその、海外で。日本のコンシューマーゲーム市場は今とっても小さいらしい。そもそも人口に占めるゲーマーの割合が少ない。結構やるってひとも10%程度。対し北米では人口の半分近くがゲームをするとのこと。いや驚いた。なんだろうな、土地がでかいから友達の家にチャリで行けないのかな。ヨーロッパもそれなりにみんなゲームやってるそうです。逆に日本ではスマホゲーム市場がバカみたいに大きい。9700億円、アメリカとほぼ同規模だそうです。人口考えろよおかしいだろ。理由はわからないけど、橋本さんの個人的な印象では日本は通勤時間における何もできなさがすごいそうだ。路線網が複雑で集中しており混雑、短くはない通勤時間にできることがスマホを触ることくらいしかない。一理ある。にしてもやっぱりソシャゲは収益がすごいらしいです。僕は通信環境などの問題もあってソシャゲはやらないんですが、課金の単位があり得ないそうですね。で、話戻ってFF15、売り上げは先月もアメリカだけで700万本突破だそうで。まだまだ売れてるし利益バンバン出てるとのことです。お話を聞く感じ日本は見てないって感じでした。日本国内でみれば騒がれていたとおりなんでしょうがね。国内売り上げという点でAAAタイトルのゲームを見るのはもう遅いのかもしれない。国外の話で思い出した次の話。

・FFの顔がホストなのはなんで

 ありますね、美形すぎやろ問題。や、僕そこまで気にならないんですけどねあれ。だってキャラクターが不細工だったら厳しいでしょう。なんでマリオの鼻はでかいんだみたいな的外れな指摘を感じる。そういうもんなんだと思えばいいじゃんかね。でも面白かった話としては、あれはドラクエとの完全な差別化を狙ったものだということでした。FF6まではぶっちゃけドラクエとFFの区別は外人にはつかなかったらしいんですね。ドット絵だと海外ではみな同じに見えたという。で、FF6は海外で売れなかったらしい。世界的に受け入れてもらうことが橋本さんがFF7にかかわるにあたっての前ディレクターからの宿題だったとのこと。ドラクエは世界の鳥山明がバックについているから。でも国内ではドラクエの圧勝だけれども実際の売り上げではFFの方が上だとのことでした。さっきの国内ゲーマーの少なさの話とかかわってくる。あれでもFF15はだいぶ日本よりで、完全に海外ユーザーを考えると男はみんなゴリマッチョにすべきみたいな話もあったとか。

・国外展開という話

 先ほどもあげたように、欧米での売り上げってふつうに黒字らしいんですよ。任天堂が死んでる中もスクエニは悠々と黒字決算だったからな。で、ゲーム業界にはアジア展開、ひいては中国という最大市場が未開のまま残されているという話題があって(中国ではそういうのが輸入禁止されているので)。ここでどうせめるかみたいなことを仰っていた。あとシンガポールだったか台湾だったかから密輸されてるらしくて統計データがあてにならないというかあわせて考える必要があるとかなんとか。

コンシューマーゲームで収益を上げるとは

 FF15も開発に10年かかっている。10年て。引くわ。今ではある程度の規模のコンシューマーゲームは百億円規模が当然となりつつある。でもソフトはめちゃくちゃ高くはできない。じゃあどこで稼ぐか。やっぱりグッズ化が一番大きいそうです。あとメディアコラボ。FF15もカップヌードルとかとやってたね。あとはブランド力。FF13とルイヴィトンのコラボとか検索するとありますからね。FF7ACとかいうあの映像作品もカンヌまでいってるし。大手は叩かれがちですけど、30年ってやっぱすごいわけで、ちょっと前までスマホアプリで一山あてた若手社長らが最近ちょくちょく面会に来るそうです。そのノウハウというか、精神みたいなのを聞きに。

・携帯ゲーム機の将来

 これは僕が直接質問した。難しいところだそうです。子供に最初に与えるゲームとしての携帯ゲーム需要はまだなくならないとのこと。その点子供、家族向けの市場展開ができている任天堂は強いと。でも橋本さんも2DS には苦笑いしてましたね、次元が上がるのはわかるが、次元が下がる新商品は初めてだと。あれはあれでなんだかんだうまくいってるらしい。子供向けといえば、FFのちびキャラが活躍するやつ、あれは北米ではなかなかヒットしてるらしいです。ユーザーの年齢層が上がりすぎてしまったことはスクエニの課題っぽい。まあやろうとおもえばハードは気にしなくていいのがサードパーティとしての圧倒的強みなんだろうけれども。Vitaはもう、本格的に手が付けられない状態みたいですね…残念すぎる。ソニースマホゲーム向けの子会社を一つ独立させ、そこにVitaとかの開発メンバーが入ってるとのこと。どうなっていくんだろうね。

 

 だいたいこんなもんかな。あと印象に残ったのは全くゲームをやらない女性からの質問でそういう層とどう向き合うのかみたいなのがあって、それに対して東京ガールズコレクションの横ブースで刀剣乱舞のイベントカフェやってて、どっちも満員だったみたいな話をされていた。つまりいわゆるオタク文化はもうどこまでも浸食してきていて境界はないんじゃないかと(これは質問者のかたの言い方が少し挑発的だったのもあった。あとゲームは男の子のやるもの、みたいな意見も述べられていたのに対する返答の意味合いもあった)。

 

 全体としてとても面白かった。よかったです。

 

 

 

 

文体について知っているいくつかの、②

 久しぶりです。4月はなにかと大変でいたずらに神経を使ったり精神に悪いことが多いですが、あんまり深みにはまらないで、気楽にやっていきましょう。やっていきましょう。やっていきましょう。やるぞ。

 

 引き続き文体について。以前は文章を書くにあたってについて書いたように思う。

 

 とはいえ、実際にふだん人が長文を書くことは少ない。かわりに多くの人がやってるのは会話体の短文だ。メール、ライン、ツイッターをはじめとしたSNS。ここで使う文体はフォーマルなものにはなかなかならない。ならないよね?

ラインなどという暴利な個人情報叩き売りインターフェースについては思うところも多いですがそれはさておき。チャットという概念が通信形態を変えたのは大きい。文字の方がリアルタイムでの通信が楽だったから、というのが基本コンセプトだったとは思うけど、結果としてチャット文化は広く定着し、会話文としての文章技術は新しくなりつづけている。

 

 

 表情と声の調子がわからないのに会話をするという状態がそもそも異常なわけだが、それを解決するために顔文字だクエスチョンマークだといったデコレーションが発達したのかと考えると趣深いものがある。アスキーアートなんかが流行ったのも今は昔ですね。絵文字という概念もたしか日本起源だったと思う。日本から逆輸入してiPhoneアップデートで追加されたそうだ。英語でもEmojiって言うらしい。 

 

 文字コミュニケーションの利点はやっぱあれですね、顔が関係ないことですかね。どんなひどい発言してても美人なら許されたりしますよね、あれが排除されるのはありがたい。逆に言えば、自分の容姿に自信があるなら文字コミュニケーションに頼るのは悪手です。あとは頭で一回まとめてから発言できるのは大きいですね。情報をまとめて伝えやすい。そこらへんの必要な文章力とか考えると、一定学歴のキモオタクに優しいコミュニケーション手段といえるかもしれない。

 

 逆に悪い点は口論ができない点ですね。文字だけだとどうしても語調が強くなる。で、しかも悪いことに感情的な言葉って文字数短くてやたら打ちやすかったりする。はっきりいって感情的な言葉って言葉のままだと限りなく情報量少ないから、非常に扱いづらい。

今書いていてラインスタンプとかいう非言語曖昧ぼかしコミュニケーションツールへの言及をしそうになったけどこれはまた別の話で。

 

 書いたはいいものの難しいですね。データ量が少ないぶん文字にすれば一度に大量のことは伝えられるのだけれど。それについて話し相手はどう思っているのかは、限りなく伝わらない。ウソもつきやすい。ウソだと思ってないことが情報不足でウソになるなんてことも日常茶飯だからアレ。のくせに文字は残るんですよね、あれもなんでも消せるようにするのもなんだかなあと思うので難しいところだ。

 

あ、じゃあこういうのはどうだろう。

 

 ここまでぜんぶ爆笑しながら書いた、とか。実はチンパンジーに適当にキーボード叩かせたのかもしれない、とか。

 

文章なんて、そんなものかもしれないと思ったときの恐怖たるや。

春と対人と

おひさしぶりです。

 

四月が始まる。

 

 一年で一番出会いが多く、気分が高揚し、盛り上がる季節だ。一年で一番無意味な出会いが多く、無意味に気分が高揚し、無意味に盛り上がる季節だ。結果として心が疲れて五月病、というケースも多見する。常人でさえそうだ、いわんやオタクをや。

 

 さて、人間関係をやっていくための文章をこんなに書いておきながら今更だが、本質的に人付き合いとオタク趣味は相容れないものだ。金、時間、すべてが互いを否定する方向に働く。

具体的な話はきりがない。そこには世代をこえた確執と対立が存在し、血で血を洗う戦い(ほとんどオタクの血だが)が繰り広げられてきた。

 

しかしながら、人間関係をやっていくためには歩み寄らなければいけない。

 

 異文化交流を行うときに大事なのは、投げ出さないことだと思う。もう少し言えば、投げ出さないように支えてくれるものがあることだ。ここで恋人とか思いつく人間なら読まなくても問題ない。いなかったとしても、その手の具体例に脳がつながるタイプの思考をしている人間は心配いらない。学生の会話、半分以上は恋バナしてれば何とかなる気がしていて、自分なんか激しい違和感で局所的な希死願望に包まれがちなんだけど、実際何とかなるし、そのたびに首をひねりがちだ。

 閑話休題

支えるもの、というと大げさかもしれない。知識、経験の類だ。わかりやすい俺自身の場合で言うと、たとえば、オタクだってオタクじゃない友達がいる、ということだ。いや一人もいないぜって場合でも、友人の友人はまったく自分と趣味が違うことはあるだろう。

 別にこれだけに限った話じゃないが、俺の場合はそれが異文化交流をする上で、何度となく自分を踏みとどまらせてくれるものとなっている。

 よく、“友だちが 嫌いな奴と 仲がいい”みたいなことで悩むのがいるが、そりゃチャンスだ。おかげで、他にむかつく奴がいたとしても、あのいけ好かねえ野郎の関係者は全員ぶっ殺してやらあ、みたいな考え方を鎮めることができる。

 

 結論から言って、何度でも繰り返すが異文化とわかりあえることはない。少なくとも俺はできない。でも交流しなきゃ人間関係はやっていけない。だから心に指針を持たなきゃいけない。身近な例からゆっくりと広げていけば、相手の価値観に近づくことは可能だ。それは、それを受け入れられるかとは違う。可能なことだ。

 

 これで締めたら良い話で終わるんだけど、最後に、その作業を通じて自分の心が壊れないようにする努力、という話があって。

  自分と相容れない価値観を理解することは、残念ながら、当然ながら、極度のストレスを伴う。ただでさえ好きなこと以外はろくにスタミナを使わないオタクにとって、この作業は過酷なものだ。また、人間関係をやるにはただ相手を理解するだけではなく、相手に無愛想だと思われないようにする必要もある。受け入れることはできない、とは言ったが、受け入れられねーよバーカ、と言い放って良いとは一言も言ってないのだ。いやなものをいやだと言っていいのは自分に関することだけだ。思想、考え方なんてなおさらだ。

 中にはもちろんいやなやつはいやだ!で生きている幸せな人もいるけれど、そういう人は人間関係をやっていこうとするオタクとは別の世界の住人だ。はいそこを勘違いして死んだオタクに黙祷一分。

 

知らない人間と話すときは、決してオタクだなんてカミングアウトするな。死ぬぞ。

 

四月は死月だメメントモリ、常に死を想え。

 

 

できないことが面白さにつながるというお話

 

 今ゼルダの伝説がアツいですね。初のオープンワールドとのことで。オープンワールド洋ゲーでは多いけれど、単にマシンのスペックが上がって広いワールドが作れるようになった、とそれだけではないと思う。

 和ゲー、とくに任天堂。が、なんでおもしろいのか、について。昔かなり面白い視点を得る機会があったので書こうと思う。

 

 それは、名前は忘れてしまったんだけど、オブジェクトによって人の行動をある程度操作する、という考え方だ。例えば駅前によくわからんグニャグニャしたオブジェを置いたり、ベンチに席ごとに手すりをつけるのは浮浪者が寝たり拠点にするのを防ぐためだそうだ。

もとからそうある地形に対してはなかなか疑問を抱かないというかそういうものだからしかたないわけだけど、普段から無意識のうちに行動を制限されているという視点は面白い。住宅がなければ大概のルートは直進できるという話だ。

 これは日常生活のことだから、さほど作為は感じない。作為的な場合もあるって言っても行政レベルの作為。だがこれがゲームだとどうだろう。100%隅々まで作為がある。作為しかない。どうして城から魔王のところまで直進ショートカットできないのだろう?どうして飛び越えた段差はのぼれず、モンスターの出てくるくさむらを通らなきゃいけないんだろう?その行動は一見当たり前で、プレイヤーの選択に見せかけられている。しかしそれは開発者の意図だ。そこに理由をつけるためのRPGのストーリーだ。俺自身はだから開発者が一番楽しいだろなんて思うのだけど、それはまた別の話だ。

 実は、そういった開発者による制約こそが多くのゲームの面白さにつながっているという見方は大事だ。

 たとえば正方形のマップをイメージしてもらいたい。左上がスタート地点で左下がゴールだとして、単に真下に行くだけでクリアできたとしたら果たして面白いだろうか?では右上にある鍵を手に入れなければ扉が開かないとしたら?左下の人物に、話しかけないと鍵を探しにいけないとしたら?

 “できない”ことによってゲームは複雑さを増すのだ。そして任天堂の名作と呼ばれる作品、たとえばマリオ、カービィゼルダといったものは、そのバランスが職人技といえるレベルで調整されている。

 具体的にマリオを例に挙げてみる。マリオの最大の特徴は何かと言えば、ダッシュとジャンプしかできないという点である。そして、“ジャンプの飛距離がそれによって変わる”という点である。ここに“できないこと”と“できること”のバランス調整という概念の極致がある。そういう目でいちど任天堂作品を捉えると、いかに変態チックなゲーム作りをしているかわかると思う。

 Youtubeなんかでも、縛りゲーというものをやっていらっしゃる方は多い。自分にあえて制約を課してクリアするとかだ。ナイフだけでバイオハザードクリアとか、コイキングだけでポケモンクリアとか。マゾかよとか言ってはいけない。できるようになるとチャレンジしたくなるのが人間なのだ。まああれはできるのにあえてやらない、ことにも意味があるから一概に同じ話にはできないのだけれども。

 逆に、制約があるせいで一本道だという考え方もある。しかし、ドラクエの新規性は、それまでどこになにがあるかなんて全くわからなかったゲームが、あからさまな立て札や助言によって進むべき道がわかりやすくなったことにあった。スペック、技術が追いついた今だからこそオープンワールドが叫ばれるが、昔はキャラの容姿もお察しの画質であるからして、会話イベントだ目的だのをしっかりしていることがロールプレイの要だったわけだ。

 

 今や単純なジャンプでゲームを楽しむには環境があまりに複雑になってしまった。それでも、根底にあるものを振り返るのは悪いことじゃない。オープンワールドったって結局は箱庭の延長だ。作意の形が変わっただけで、ユーザーとディベロッパーの関係は変わらない。ただまあ、せっかくユーザーをやるなら、より深く、神と同じ視点に立ったうえで、その手のひらの上で楽しむというのも、案外悪くないものだと、そう思う。