ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

文体について知っているいくつかの、②

 久しぶりです。4月はなにかと大変でいたずらに神経を使ったり精神に悪いことが多いですが、あんまり深みにはまらないで、気楽にやっていきましょう。やっていきましょう。やっていきましょう。やるぞ。

 

 引き続き文体について。以前は文章を書くにあたってについて書いたように思う。

 

 とはいえ、実際にふだん人が長文を書くことは少ない。かわりに多くの人がやってるのは会話体の短文だ。メール、ライン、ツイッターをはじめとしたSNS。ここで使う文体はフォーマルなものにはなかなかならない。ならないよね?

ラインなどという暴利な個人情報叩き売りインターフェースについては思うところも多いですがそれはさておき。チャットという概念が通信形態を変えたのは大きい。文字の方がリアルタイムでの通信が楽だったから、というのが基本コンセプトだったとは思うけど、結果としてチャット文化は広く定着し、会話文としての文章技術は新しくなりつづけている。

 

 

 表情と声の調子がわからないのに会話をするという状態がそもそも異常なわけだが、それを解決するために顔文字だクエスチョンマークだといったデコレーションが発達したのかと考えると趣深いものがある。アスキーアートなんかが流行ったのも今は昔ですね。絵文字という概念もたしか日本起源だったと思う。日本から逆輸入してiPhoneアップデートで追加されたそうだ。英語でもEmojiって言うらしい。 

 

 文字コミュニケーションの利点はやっぱあれですね、顔が関係ないことですかね。どんなひどい発言してても美人なら許されたりしますよね、あれが排除されるのはありがたい。逆に言えば、自分の容姿に自信があるなら文字コミュニケーションに頼るのは悪手です。あとは頭で一回まとめてから発言できるのは大きいですね。情報をまとめて伝えやすい。そこらへんの必要な文章力とか考えると、一定学歴のキモオタクに優しいコミュニケーション手段といえるかもしれない。

 

 逆に悪い点は口論ができない点ですね。文字だけだとどうしても語調が強くなる。で、しかも悪いことに感情的な言葉って文字数短くてやたら打ちやすかったりする。はっきりいって感情的な言葉って言葉のままだと限りなく情報量少ないから、非常に扱いづらい。

今書いていてラインスタンプとかいう非言語曖昧ぼかしコミュニケーションツールへの言及をしそうになったけどこれはまた別の話で。

 

 書いたはいいものの難しいですね。データ量が少ないぶん文字にすれば一度に大量のことは伝えられるのだけれど。それについて話し相手はどう思っているのかは、限りなく伝わらない。ウソもつきやすい。ウソだと思ってないことが情報不足でウソになるなんてことも日常茶飯だからアレ。のくせに文字は残るんですよね、あれもなんでも消せるようにするのもなんだかなあと思うので難しいところだ。

 

あ、じゃあこういうのはどうだろう。

 

 ここまでぜんぶ爆笑しながら書いた、とか。実はチンパンジーに適当にキーボード叩かせたのかもしれない、とか。

 

文章なんて、そんなものかもしれないと思ったときの恐怖たるや。

春と対人と

おひさしぶりです。

 

四月が始まる。

 

 一年で一番出会いが多く、気分が高揚し、盛り上がる季節だ。一年で一番無意味な出会いが多く、無意味に気分が高揚し、無意味に盛り上がる季節だ。結果として心が疲れて五月病、というケースも多見する。常人でさえそうだ、いわんやオタクをや。

 

 さて、人間関係をやっていくための文章をこんなに書いておきながら今更だが、本質的に人付き合いとオタク趣味は相容れないものだ。金、時間、すべてが互いを否定する方向に働く。

具体的な話はきりがない。そこには世代をこえた確執と対立が存在し、血で血を洗う戦い(ほとんどオタクの血だが)が繰り広げられてきた。

 

しかしながら、人間関係をやっていくためには歩み寄らなければいけない。

 

 異文化交流を行うときに大事なのは、投げ出さないことだと思う。もう少し言えば、投げ出さないように支えてくれるものがあることだ。ここで恋人とか思いつく人間なら読まなくても問題ない。いなかったとしても、その手の具体例に脳がつながるタイプの思考をしている人間は心配いらない。学生の会話、半分以上は恋バナしてれば何とかなる気がしていて、自分なんか激しい違和感で局所的な希死願望に包まれがちなんだけど、実際何とかなるし、そのたびに首をひねりがちだ。

 閑話休題

支えるもの、というと大げさかもしれない。知識、経験の類だ。わかりやすい俺自身の場合で言うと、たとえば、オタクだってオタクじゃない友達がいる、ということだ。いや一人もいないぜって場合でも、友人の友人はまったく自分と趣味が違うことはあるだろう。

 別にこれだけに限った話じゃないが、俺の場合はそれが異文化交流をする上で、何度となく自分を踏みとどまらせてくれるものとなっている。

 よく、“友だちが 嫌いな奴と 仲がいい”みたいなことで悩むのがいるが、そりゃチャンスだ。おかげで、他にむかつく奴がいたとしても、あのいけ好かねえ野郎の関係者は全員ぶっ殺してやらあ、みたいな考え方を鎮めることができる。

 

 結論から言って、何度でも繰り返すが異文化とわかりあえることはない。少なくとも俺はできない。でも交流しなきゃ人間関係はやっていけない。だから心に指針を持たなきゃいけない。身近な例からゆっくりと広げていけば、相手の価値観に近づくことは可能だ。それは、それを受け入れられるかとは違う。可能なことだ。

 

 これで締めたら良い話で終わるんだけど、最後に、その作業を通じて自分の心が壊れないようにする努力、という話があって。

  自分と相容れない価値観を理解することは、残念ながら、当然ながら、極度のストレスを伴う。ただでさえ好きなこと以外はろくにスタミナを使わないオタクにとって、この作業は過酷なものだ。また、人間関係をやるにはただ相手を理解するだけではなく、相手に無愛想だと思われないようにする必要もある。受け入れることはできない、とは言ったが、受け入れられねーよバーカ、と言い放って良いとは一言も言ってないのだ。いやなものをいやだと言っていいのは自分に関することだけだ。思想、考え方なんてなおさらだ。

 中にはもちろんいやなやつはいやだ!で生きている幸せな人もいるけれど、そういう人は人間関係をやっていこうとするオタクとは別の世界の住人だ。はいそこを勘違いして死んだオタクに黙祷一分。

 

知らない人間と話すときは、決してオタクだなんてカミングアウトするな。死ぬぞ。

 

四月は死月だメメントモリ、常に死を想え。

 

 

できないことが面白さにつながるというお話

 

 今ゼルダの伝説がアツいですね。初のオープンワールドとのことで。オープンワールド洋ゲーでは多いけれど、単にマシンのスペックが上がって広いワールドが作れるようになった、とそれだけではないと思う。

 和ゲー、とくに任天堂。が、なんでおもしろいのか、について。昔かなり面白い視点を得る機会があったので書こうと思う。

 

 それは、名前は忘れてしまったんだけど、オブジェクトによって人の行動をある程度操作する、という考え方だ。例えば駅前によくわからんグニャグニャしたオブジェを置いたり、ベンチに席ごとに手すりをつけるのは浮浪者が寝たり拠点にするのを防ぐためだそうだ。

もとからそうある地形に対してはなかなか疑問を抱かないというかそういうものだからしかたないわけだけど、普段から無意識のうちに行動を制限されているという視点は面白い。住宅がなければ大概のルートは直進できるという話だ。

 これは日常生活のことだから、さほど作為は感じない。作為的な場合もあるって言っても行政レベルの作為。だがこれがゲームだとどうだろう。100%隅々まで作為がある。作為しかない。どうして城から魔王のところまで直進ショートカットできないのだろう?どうして飛び越えた段差はのぼれず、モンスターの出てくるくさむらを通らなきゃいけないんだろう?その行動は一見当たり前で、プレイヤーの選択に見せかけられている。しかしそれは開発者の意図だ。そこに理由をつけるためのRPGのストーリーだ。俺自身はだから開発者が一番楽しいだろなんて思うのだけど、それはまた別の話だ。

 実は、そういった開発者による制約こそが多くのゲームの面白さにつながっているという見方は大事だ。

 たとえば正方形のマップをイメージしてもらいたい。左上がスタート地点で左下がゴールだとして、単に真下に行くだけでクリアできたとしたら果たして面白いだろうか?では右上にある鍵を手に入れなければ扉が開かないとしたら?左下の人物に、話しかけないと鍵を探しにいけないとしたら?

 “できない”ことによってゲームは複雑さを増すのだ。そして任天堂の名作と呼ばれる作品、たとえばマリオ、カービィゼルダといったものは、そのバランスが職人技といえるレベルで調整されている。

 具体的にマリオを例に挙げてみる。マリオの最大の特徴は何かと言えば、ダッシュとジャンプしかできないという点である。そして、“ジャンプの飛距離がそれによって変わる”という点である。ここに“できないこと”と“できること”のバランス調整という概念の極致がある。そういう目でいちど任天堂作品を捉えると、いかに変態チックなゲーム作りをしているかわかると思う。

 Youtubeなんかでも、縛りゲーというものをやっていらっしゃる方は多い。自分にあえて制約を課してクリアするとかだ。ナイフだけでバイオハザードクリアとか、コイキングだけでポケモンクリアとか。マゾかよとか言ってはいけない。できるようになるとチャレンジしたくなるのが人間なのだ。まああれはできるのにあえてやらない、ことにも意味があるから一概に同じ話にはできないのだけれども。

 逆に、制約があるせいで一本道だという考え方もある。しかし、ドラクエの新規性は、それまでどこになにがあるかなんて全くわからなかったゲームが、あからさまな立て札や助言によって進むべき道がわかりやすくなったことにあった。スペック、技術が追いついた今だからこそオープンワールドが叫ばれるが、昔はキャラの容姿もお察しの画質であるからして、会話イベントだ目的だのをしっかりしていることがロールプレイの要だったわけだ。

 

 今や単純なジャンプでゲームを楽しむには環境があまりに複雑になってしまった。それでも、根底にあるものを振り返るのは悪いことじゃない。オープンワールドったって結局は箱庭の延長だ。作意の形が変わっただけで、ユーザーとディベロッパーの関係は変わらない。ただまあ、せっかくユーザーをやるなら、より深く、神と同じ視点に立ったうえで、その手のひらの上で楽しむというのも、案外悪くないものだと、そう思う。

モンハンダブルクロスがでる前にゴッドイーターと

 はじめて、はじめてゲームの話をする。やったぜ。改めましてIriwoです。好きなゲームはキングダムハーツ勇者のくせになまいきだ、などを筆頭に、アクションRPG寄り全般。FFはⅦのCrisis Coreが一番好きで、ドラクエはⅤ、スーパーマリオは2とサンシャイン、ギャラクシー、星のカービィは64と鏡の大迷宮といったところです。グラセフもたいがい好きです。メタルギアもやる。ホラゲーは苦手だ。

 

 モンハンクロスを、やっている。ポータブルくらいからやっていて、3rdで止まってたから3DSは初めてだ。武器やモンスターが変わったのはいいとして、動作が全体的に早くなった。狩技とかいう必殺技もある。

 

………

 

 ゴッドイーターと似てきた?

 

モンスターハンター ゴッドイーター 違い」が死ぬほど使い古されているのは重々承知の上自分の言葉でまとめたい。

 

 今やハンティングアクションRPGの二大巨頭として無事に成長してきたこの2つだが、発売当初のゴッドイーターは後追いだからなんとかモンハンと明確な“差”をつけようとしていた。

 アニメ調のイラスト、設定、ストーリーがきちんとある、というのがひとつだ。モンハンはもうなんかとにかく村がモンスターの無限湧きスポットなのかよといった風に村長の言うとおり狩りまくるだけなのに対し、ゴッドイーターは人類の敵たるアラガミを倒すぜ、というそれなりに崇高な目的がある。

 また、ゴッドイーターのほうが圧倒的に速い。モンハンは回避や崖登り、採集に独特のもっさり感があって、そこにリアリティを出していくのが売りだが、それがイライラする人にとってはゴッドイーターのヒュンヒュンステップを踏み、ピョンピョン二段ジャンプとかするのがよかったと思う。

 あとは戦闘システムの差別化もうまいことやっていた。モンハンは“防具”の概念がかなり強く、スキルは防具で発動させる上、武器と違って頭、腕、胴、腰、足と5つも作らなきゃいけない、まあ逆に言えばその組み合わせを考えるのとかが売りだった。のに対してゴッドイーターは防御は“盾”ひとつで行う。武器も剣と銃が戦闘中に切り替えられる。スキルはこの3つそれぞれにもとからいくつかついている。

 

 じっくり考えてやりたいならモンハン、展開の早い戦闘が好きならゴッドイーターという感じだ。

 

 それが、それがだ。ゴッドイーター2、RB、リザレクションとすすみ、モンハンがクロスまでいく間に、両者が近づいてきたような気がするのだ。僕はどちらも高く評価しているのでこれは決して非難ではなく、正当な改良の結果として両者が行き着く先にめちゃくちゃ興味があるのだ。

 

 具体的には冒頭にもか述べたように“必殺技”があること。武器の他に、固有の必殺技からいくつかをセットしてミッションに臨めるのはゴッドイーター2からあるブラッドアーツシステムとほぼ被る。なんというか、モンハンはもっとリアル志向だったと思ってたのでかなり驚いた。例えばモンハンって斬りまくってると刃こぼれして砥石持ってないときつかったり、で、その研ぐのがやたら時間かかったりする。そういう生身の人間感に力を入れていたのが、だいぶ方向を変えた気がする。代わりに、研いだり、重いものをもって走るときとかの速度がずいぶん上がった。

 逆にゴッドイーターは一撃が重くなった。自分でちょっとでもゲーム作ろうとすればわかるんだけど、攻撃エフェクトだけじゃけっこう“軽い”。切った瞬間のフレーム調整が雑だと、切った気がしないのだ。そこらへんのメリハリがうまくなった。

 

 全体的に爽快感がどちらもあがって、一回のミッションにかかる時間は短くなっている。昔のモンハンなんて50分使い切ってなんぼみたいなクエストがバンバンあったのに、今やサクサク進む。俺が泣いたナルガはどこに消えたんだ。

 

 おもしろくなっていると思う。それとは別に、これが時代の流れというか、今の流行りなのかと思うとまた興味深い。先日発売されたFF15も、FFシリーズ初の完全なリアルタイムアクションになった。シミュレーション的なものが廃れたとは一概には言えないが、ライトユーザーは直感的に進められるアクションを求めがちなのかも。シミュレーション的なゲームがスマホでもだいぶ生まれてきたというのも一つなのかもしれない。

 

 ハンティングアクションというジャンルの注目すべき点は、もともとRPGでは目的地への行く手をさえぎるために存在していた“敵を倒す”というイベントを、そこだけにフォーカスして新たなゲームにしてしまったことにあると僕は考えている。つまり、手段と目的が入れ替わったのだ。むしろRPGが生まれる前に戻ったというべきか。“倒すために倒す”というシンプルな構造に落とし込んだ上で、いかにして倒すのか、の幅を広げた。箱庭系ゲームの亜種であり、そこにプレイヤーこそが勇者であるというロールプレイ要素をうまく噛ませることで、全く新しい感触のジャンルになった。そこで求められているものはいろいろあると思うが、今の時代ではそれが“早さ”なのかもしれないと思わされた。飽きっぽくなっているのか、それとも他のコンテンツが増えすぎたのか。説明をつけるのは野暮な分野だ。筋からずれる。

 

 二大巨頭は今後どのように差異をつけ、どのように新しくなっていくのだろう。ダブルクロスをプレイする予定はしばらくないが、楽しみだ。

 

 

 

文体について知っているいくつかの、①

 好きな話 、できる話というのはある程度幅があるはずなんだけど、いちど方向が決まるとなかなか変えづらい。雑記にしたいのに偉そうなことを言いまくったあげく刺されないかビクビクしてるのが現状だ。個人的にはARやリアル脱出ゲームといった体験型コンテンツの盛り上がりをドラクエあたりから追いかけたりしたいし、草間彌生の生命力ハンパねえなみたいな話や騎士団長殺し買うつもりはないけど誰か貸してとか、そういう話をしたいところなんだけれど、今できる話のネタが尽きるまではおいとくとして。後でフォルダ分けなんかしてもいいかもしれない。

 

 さて、目下のボスである文体の話をしよう。 “文体”、それは鎧であり、文字を通じてしか繋がれない人にとって、唯一無二の武器だ。文字は文字にすぎない。しかし、文章を書いたとき、そこには文体が生まれる。これすごくないか!?すごいよね!?同じことを説明するのに十人十色、誰1人として全く同じ言葉を使うことはない のだ。すごいひとつとっても、「すごい」「すげえ」「やばい」、俺の文体でもこれくらいは選択肢がある。すごーい!

 こうして長い文を書いていると、自分の文体というやつを否が応でも直視することになる。自分はどんな言葉を使いたがるのか、なにを避けるのか、それはなぜか。

 存外これはおもしろい。たとえば俺は「○○なんだが。」という結びを執拗に回避している癖がある。代わりに「○○だけれど。」「○○とはいえ。」を多用する。どれを使おうが意味は変わらないはずだ。なのになぜ、そうするのだろう。

 感じが悪い気がする、というのはある。上のほうがより偉そうに聞こえる。譲歩ではなく反語に聞こえる、気がする。あくまで主観だ。でもその結果、俺の文から「○○なんだが」という言い回しは消える。それはその言い回しを使う人の文章と、俺とを分かつ。

 

 文体の意識はそういうことへの意識だ。丁寧に、大切にやっていくといいような気がする。

 これを発展させた話題にラインの文章とか、ひいては会話にも文体みたいなものはないだろうかみたいな話があるんだけど、それをやる気力も時間もないからこのあたりで。

 

 ブログとかいうもの、俺なんかは身を削ってようやく人の目に入るかどうかといったところなので、好きでやってるとしたってほんとうに馬鹿みたいに気力と体力を使う。

 

 狂ってるとしか思えない。

 

 文章を書くというのは、文章で表現するというのは、文章で自分をさらけ出すということは、文章で世界と繋がりたいと望むことは。

 

 

人に伝えるために伝える人を失うオタクが僕は本当に

  

 自分が高機能障害を併発してる可能性は高いので寄っていく面はしかたないけれどなるたけ話題からは外していきたいとは思っているこの頃ですこんにちは。

 

 発達障害とオタクの親和性は高いのは事実なんだけど。それはともかく、特定の事柄に対して高い集中を見せるとかいうオタクの本質は知的好奇心と密接に結びつくと同時にいつだって障害者と紙一重だ。ただしそれを"異能"にまで高められる存在はごくまれだし、たいていの異能の力は魔女狩りに会う。自分が主人公をやれるって人は大切なものを失う瀬戸際まで"力"が目覚めるのを待つのも一興だけど、平々凡々と生きる小市民代表の俺としては歩く場所は地面のほうがいい。実際は地べたを這いつくばってるだけだとしても地面がなきゃ話にならない。ちなみに、いっしょに這いつくばってると思ったらハイハイが異常に速い能力者だったなんてホラーもざらにあるから気を緩めてはいけない。おもわず字を太くしてしまったけれど、ほんとうによくある。

 

 さて冒頭から最悪な文章ですが、今回は何度か言っている「しゃべるなオタク」を少し一般化させた話をします。まず始める前に、しゃべるなオタク、ここで声に出して何度も繰り返しておきましょう。神社の手水みたいなもんですね。あ、あと僕の文章に滲む主張のすべてはオタクが人間関係をやっていくためのものなので、オタクコミュニティで一生やっていくぞという羨ましすぎる界隈には関係ないです。いくぞ。

 

 人間関係をやっていくうえで自分の得意な話をし続けるのは自殺行為だという話をした。http://iriwopposite.hatenablog.com/entry/2017/02/19/014305

誰も興味ないことが得意だというのは特異だということで、すくなくともこのジャパニーズソサエティで特異な存在は魔女狩りにあうことは広く知られている。ヨーロピアブレンド、和洋折衷の文化だ。ただ、今回は身近に多い、高機能コミュニケーション不全に陥りがちなオタクに焦点を当てる。要するに、勉強オタクだ。

 語彙力の低いオタクはいい。そもそも長くしゃべれないし、論理でもちょっとおかしくなったら容赦なく無視されても本人も文句が言えない。結果淘汰されおとなしくなんとか適応していくことが多い。

 しかし残念ながらオタクは基本的に語彙力が豊富だ。その分野についてたくさん知っているわけで、それは当然としても、さらにそれを人にきちんと説明する国語能力まであると厄介だ。弁が立つオタクはゴキブリ並みの生命力を持った災害指定種である。そもそも成人するまで社会淘汰されずに生き残ってしまったオタクなんてものはその群れで固まり続けたか、出すぎる杭は打たれない理論で一人成層圏のかなたまで飛んでいってしまった場合に限るわけで、そういうのが一番多いのが高学歴層だ。僕自身もその構成員の一端を担うのは事実であり、高学歴オタクが筋の通った含蓄のあることを豊富な語彙を活かして論じてくれるたびにしゃべるなオタクと繰り返し念じるのは、それがまるごとブーメランであるからに他ならない。

 オタクに厳しい家庭で育ったため批判的な目は意識していたが、俺自身が高学歴オタクの一角をなしている以上なかなか身内のことは見えていなかった。今もまだまだ見えてなんかいないんだろうとは重々承知しているが、しゃべるなオタクのご誓文を特に意識するようになったのは、東京大学の生徒が坂◯忍にボロクソ言われるテレビ番組を見てのことだった気がする。俺のTLはおおむねオタクに同情的だったし、俺もそのころまでは何の疑いも持たず正しい主張だと思っていた。まったく知らない方なので申し訳ないんだけど一番まとまっていた主張がこれだと思う。

 

しかし今なら断言できるけどボロクソ言われて文句は言えない。

 

 人間関係をやっていく際の負けの定義は拒絶されることだと考えていいと思う。そして拒絶、交流しようと思う気持ちの放棄、これにダイレクトにつながるのがオタクの早口に他ならない。

 高学歴オタクの言い分はこうだ。物事を正確に伝えるためにはどうしても話が長くなってしまい、それを短縮するために難解な語彙を使用するのはやむを得ず、それでも長くならざるを得ないから早口になる。それを理解しないのはお前が悪い。人が説明してやってるというのに理解しようという努力もしないどころか挙句の果てにもっとわかりやすく言えとはなにごとだ、と。

 

 うるせえもっとわかりやすくしろ。 

 

 わかりやすくしなきゃだめなんだよ。言われてんじゃねえか。なにが長くならざるを得ないだ、なげえから聞く気もなくすんだよ。

 とまあはっきり言ってしまったが何度も言うように俺自身も高学歴オタクなので気持ちはよくわかるのだ。わからないなら勉強してくれよ、一面だけ切り取った情報で誤解させたらまずいな、文が長いなもっと短い熟語使えないかな。

 これは、最近はやりの言葉で言うなら、部族の慣習に他ならない。国立大学、特に東大なんかだと記述問題が圧倒的多数を占める。そこでは"知っている限り多くの情報を"、"制限字数に収めつつ"、"制限時間内に"書き切る必要がある。ほら、さきほどのオタクの言い分だ。アカデミックな世界ではそれが正義であり、作法であるからしかたがない。

  しかし、繰り返すがこれは部族の慣習だ。火の回りを踊るのと一緒だ。いったん外に出たらそうはいかない。人間関係をやっていくためには、部族の正義を人に押し付けてはいけない。おいオタク、お前の使う難解な熟語、理解できない人間の方が多くないか?それで何を伝えられるんだ?コミュニケーションとは、和訳すれば伝達である。相手に伝わらない言葉はコミュニケーションでは使えない。使ってはいけない。日本人にわざわざ英語で話しかけるのとおんなじだ。英語くらいなら腕一本折るくらいで我慢してやろうという気にもなるが、複数言語の組み合わせなんてされた日にはかかわる気もなくしてしまう。それとほとんど同じ話だ。そういう言語オタクもいる。もちろん殺意以外の感情が湧いたためしがない。

 次にやってくる反論は短い断片的な情報は危険だ、というものだ。

 だから、これも部族の慣習だ。槍もってウホーの延長にすぎない。部族の中では筋道だっているかもしれないが、傍からみたらいい迷惑でしかない。へたに体系化された知識をもっているオタクは義務感をもって説明にあたるが、日常会話に際限なく注釈つけていったら広辞苑のできあがりだ。読めるかそんなもん。"理屈っぽい"と言い換えてもいい。会話をする際に、無駄に情報量の多い話をするのはNGなのだ。もちろんオタク同士でやるぶんには構わない。存分にでかい辞書を振り回していってほしい。

 

 テレビ番組というのは今や最悪なコンテンツの代表ではあるが、それでも大衆というものをなによりも意識した時代の遺物であることは重視するべきだ。そこで高学歴オタクが叩かれる理由を考えるのは悪いことではないと思う。

 思うに、強いオタクの武器は異常な知的好奇心とそれを探求、理解、吸収する無駄のない無駄なスペックだ。それ自体はなんら非難されることではない。だがそれを他人に強制するのは部族根性だ。即刻捨て去る努力をはじめていい。もちろん、はじめも言ったとおり部族の中で一生をやっていく方には関係ない話だ。とくに高学歴オタクの村には高い塔が立っているので、族長まで上り詰めれば他の村からも無下には扱われない。

 しかし塔に登れない凡庸な村人は、村を追い出されてもやっていけるような心構えが必要だ。このとき真言として唱えるだけで効果があるのが、「しゃべるなオタク」ということになる。まああとは強いオタクの村人、たとえ塔に登るにしても、自分がオタクだったからできたに過ぎない異常な行動の数々(一日何十時間も勉強したり、好きなことのために寝食犠牲にしたり)を人に求めるのはよしたほうがいいとは思う。

 

 

すべては村の外を出ても人間関係をやっていくために。

 

凡庸にサヴァイヴするための、備忘録だ。

 

 

 

 

 

好きなものの話をするオタクを殺さないで

 オタクが人間関係をやっていくために。

  またはオタクと人間関係をやっていきたいと思う方のために。

  あとは僕がこれから自分の好きなコンテンツの紹介をするタイミングが来る、その前に。

 

 今回は"オタク"と"すきなもののはなし"と"コミュニケーション"という地獄の食べ合わせをどう料理して人間関係に落とし込むべきかという話がしたい。当然ながら俺の主観だけど、かなり研究した結果なので、汎用性は高いと思います。

 

 まずは前提条件の確認をします。前提条件のすりあわせは大切だ。オタク、圧倒的に自覚が足りないことが多い。いくぞ。

オタクにとっての"すきなもの"は、へたしたらその個人の全存在である可能性がある

前提条件なので、ここをなめらかに、それはもう昨日の明日は今日だよ、くらいのテンションでパスしてほしい。

つまり、オタクにとっての"すきなもののはなし"は全存在をかけた自己PRなのである。すくなくとも、自分の魂の多くをコンテンツにつぎこんでいる。誇張じゃない。誇張であればいいのに。オタク同士では暗黙の了解なので本人でさえ自覚してなかったりする。マジかよ。マジだ。オタク同士のコミュニケーションは比較的スムーズに進む、というのはこれが大きな要因だと思う。自分と相手の間にコンテンツという道具をはさむことで、初対面のオタク同士が同じ釜の飯を食ったかの如く仲良く話し出すという異常な風景があたりまえのように現出するのを僕は何度も見てきたし、実感もしてきた。

 

しかしながら、かなしいかな、これは異常だ。

 

 本来初対面の人間と自分の本音をぶつけあって熱く語り合うなんてことが起こるわけないのだ。なんせ相手の好き嫌いなんてわからないからだ。さらにいえば、初対面から自分のすべてをぶつけるのは社会ルール違反だとまでいっても(たぶん)いい。なんせ自分がそいつのことをそこまで知りたいかなんて初対面ではわからないからな。

 

一般コミュニケーションとオタクコミュニケーションの一番の違いはここにある。イメージとしてはオタクは大量の自己紹介用の道具を持っていると考えてほしい。ただしそれはわかるひとにしかわからない

 

 さて、ここまでで地獄の蓋の入り口まできた。そのまま地獄に進む。

 

 今まで述べた一般コミュニケーションとオタクコミュニケーションがぶつかるとどうなってしまうのか。

 そこに生まれるのは拒絶だ。大量の自己紹介道具はなんの役にもたたない。オタクは小さな名刺を交換し合うような交流より、自分について書かれた分厚い(そしてたいていクソ重い)辞書を投げつけあうような交流を好むが、そんなのむこうは知ったこっちゃない。交流というのは拒絶されたらもうおしまいだ。後には何も残らない。僕たちには灰になったオタクの死体を海に撒くだろう。21gの魂を失ったオタクの死体は心なしか軽いかもしれない。

 

  結論から言おう。オタクがすきなもののはなしをするのは最終手段だ。そして、けっしてやりすぎてはだめだ。想定の半分でちょうどいいくらいだ。それで十分人は満足するし、それくらいなら「ちょっとくわしい人」枠に留まれる。横文字を使うな、あらすじを説明するな、文献を引用するな、過去編に突入するな、四字熟語を使うな、専門用語を並べるな。やりたいのはわかる、でもそれは求められているのか?

 

 コミュニケーションは相手のことを第一に考えるべきだ。初対面ならなおさらだ。オタク同士ならたとえ分かり合えなくとも好きなものへの熱意は共有できる。しかしそれを誰もに期待するな。死ぬぞ。悪意がないぶん容赦もないからな。ゴキブリだ、殺せ!くらいのノリで駆逐されてしまうからな。あと知らないことを聞くのが好きとかいう奴。あれは八割方嘘だと思え。少なくとも、おまえの"好き"と同じだと思うな。

 繰り返すが異文化交流だ。しかもむこうが多数派だということを死んでも忘れるな。忘れたときが最期だという意識を常に持つのが大事だ。

  全編通してオタクとそれ以外を二分化しているけれど、多少なりとも自覚があるなら全部オタク視点で対処すればいい。大は小を兼ねる。

 

 

 ───それでも語りたいのなら話をしよう。

 

 好きなものの、話をしようじゃあないか。