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              ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

望遠鏡を覗きこんでも見えないものは見えない

 そもそもね、テーマなんてなく書き散らすために始めて、その言い訳もきっちり終わらせたので、あとは何やってもいいだろう。

 今んとこジャンル分けみたいなことはしないし、キングダムハーツの話は書ききれないからやらないよ、しばらくは。

 

 じゃあふだんなかなか気づかない、目が悪いのってやだなーって話。

 実はめちゃくちゃ目が悪い。目が悪いアピールをするときは気をつけなくちゃいけないことがあって、失明の方がこの界隈では最強だ。緑内障とか糖尿病とかも最後は失明までいくから、単なる弱視はなかなか不幸自慢ができない。とはいえ視覚障害の一種には違いないわけで。 (障害者手帳もらえる視覚障害の定義はもっと狭いけど、さておき)

 ちょっとおもしろいのは、弱視というのはかなりなんとかなる障害だということだ。眼鏡かコンタクトレンズにすればまず人前で健常者に心配をかけるほどの不自由はおきない。ただ、逆にそのぶん失明みたいな明らかな障害と比べ、健常者からの配慮レベルも低い。当然なんだけど。

 で、こっからが本題で、弱視にもレベルがあるのだ。これが弱視同士でもなかなか気づかないことで、認識に相違があったりする。自分でも忘れてたりするから世話がない。

 

 その前に。

 

 たとえば視力0.3ってどれくらい目が悪いのだろう。知らない人のために補足しておくと、身近なところでは裸眼で視力0.6以上ないと警察官にはなれなかったりする。意外と知られてないかもしれない。当然俺はなれない。

あとはいうまでもないが、パイロットや宇宙飛行士にもなれない。人生ゲームの高給取り職業だともう石油王しかカードが残ってない。

 

 なんだけど。

 

 わかる人はわかると思うけど、実は視力0.3くらいだと、普通に暮らすにはほとんどなんの問題もない。自分の周り5mが見えればまず日常生活に支障はないし、本だって読める。壁にかかった時計がちょっとぼやけるくらいだ。声がかけられるくらいの距離なら友人の顔を見分けられるし、とくにふつうにしていればボロがでることはない。

 これ、自分では当然だと思ってたんだけど目のいい人は知らないらしい。最近思い至ってちょっとショックだった。さらにショックだったのは自分が眼鏡かけて見えてた右目が視力0.3だったということなんだけどまあいい。いやよくない。よくないんだよ。びっくりしたよ。0.3なのこれ!?見えてんじゃん、は?なんなの、と。この数年ずっと同じ眼鏡で健常者っぽい気持ちで生きてきたのに、あの世界は視力検査C判定の世界だったのか。 いやほんとに驚いた。こうしてだらだら書けるくらい驚いた。なんだよ、視力検査って一定以下はみんなD判定だから知らなかったよ。ABCD判定のなかでは後半だから仲間だねみたいな気分でいたのに騙したなおまえ、と、裏切られた気分でいっぱいだった。

 それで、眼鏡で左右視力0.7,0.3だったものを左右0.8に今回変えてもらったんですね。そうしたらもう世界の解像度が高いのなんのって。こんなに美しい世界でみんな死にたいとかツイートしてんのかよ、ふざけるな。

 そもそも左右視力差のせいで立体視がうまくできてなかったらしいんですよ。それが今回眼鏡変えたらこう、3DSの3Dスイッチをちょっと入れた感じ、と言えば伝わるだろうか、電信柱とかがくっきり飛び出して見えるというか、遠くの風景と近くの風景がはっきりしてるというか。(注:たぶんだいたいの皆さんが普段見てる視界)

 

 もしかして、近視のみなさんあるあるだと思ってきたこと、そんなにあるあるじゃない?

 

 おそろしい話だ。たとえば夏は山か海か論争。山に決まってるじゃん海行ってもみんなのいるところに帰れない。パラソルが見えない。水着女子なんてどうでもいいなんせ性別くらいしかわからない。と思ってたんだけどもしかして少数第一位で終わる程度の視力ならそれほど問題ないのかもしれない。

 露天風呂とかものによっては段差とか怖くてじりじりと近づいていくんだけどそんなことない?友だちがどこ行ったかわかんなくなったら終わりだから必死でついていったりしない?

 

 じゃあ俺の視力ってどれくらいなんだよ

 

 目が悪いというと視力いくつって聞かれることは多いんだけど、一番上の段のCすら存在さえわからない派としては、少数第一位じゃ終わらないよくらいのことしか言えない。あんま興味もなくなるし。だから実は今この瞬間までちゃんと意識してなかった。ただ、今回レンズの説明書が同封されてたので見てみたんですよ。参考のためYahoo!知恵袋お母さんも見てみる。

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視力0.3の人間が1.0まで上げるには-1.5Dとのこと。ほう、さて自分は。
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-11.5Dて。桁違うじゃねえか。乱視も入ってるし。

 実はめちゃくちゃ目が悪い、実感の瞬間だった。そんなにか、そんなに悪かったのか。思えば小学校の頃から一度として自分より度の強いレンズパーソンを見たことがなかった。見えないだけにな。というかそんなに他人と自分の視界について話すこともないからなふだん。べつに視野が欠損してたりするわけでもなし。ジャンル分けすればごくふつうの弱視だから互いにわかった気でいる。

 

 でもわかってないんだなこれが

 

わかってないんだ。眼鏡かけてるからと言ってもレンズを超えた端は裸眼でしか捉えられない。そもそもレンズだって度数が上がれば歪むから真ん中しかまともに見えない。 

 コンタクトだって夜は外すしそうすればたいして見えなくなる。

 

 

 思うに、不便さというのはわからない。足のない人や耳の聞こえない人の不便さなんて俺だって知らない。願わくば知らないままでやっていきたい。 

 

 問題なのは、見えてないのは。

 

“違うということ”だ。それははっきり理解しとくべきだ。[俺にはよくわからんし別に知りたくもないけどおまえにとってはきついことがあるんだなーふーん」くらいが限界だと思う。でもそれは、「俺はきみのつらさがわかるよ」なんて言うよりずっと誠実だと思うのだ。 共感という機能は大切で、それが必要な時もある。ただたいていの場合相手のことなんてわかりやしないのだ。障害ならなおさらだ。想像は体験と一線を画す。わからないものはわからない。わかったふりをしてはいけないし、知らない振りも当然だめだ。

 

  どうやらそういうことが言いたかったらしい。つまるところ、わからないものをわからないままわからないと言うのはけっこう大事なんじゃないかということだ。わからないんだけれども。

 

 なんにもわからないまま、わかったふりだけが上手くなる。自分の目でさえこの有様だ。さてどこまで盲目に近づいていくのか。いつそのことに気づくのか。とりあえずは歌でも歌って難しいことから目を逸らす。

 

 

 

好きなものの話をするオタクを殺さないで

 オタクが人間関係をやっていくために。

  またはオタクと人間関係をやっていきたいと思う方のために。

  あとは僕がこれから自分の好きなコンテンツの紹介をするタイミングが来る、その前に。

 

 今回は"オタク"と"すきなもののはなし"と"コミュニケーション"という地獄の食べ合わせをどう料理して人間関係に落とし込むべきかという話がしたい。当然ながら俺の主観だけど、かなり研究した結果なので、汎用性は高いと思います。

 

 まずは前提条件の確認をします。前提条件のすりあわせは大切だ。オタク、圧倒的に自覚が足りないことが多い。いくぞ。

オタクにとっての"すきなもの"は、へたしたらその個人の全存在である可能性がある

前提条件なので、ここをなめらかに、それはもう昨日の明日は今日だよ、くらいのテンションでパスしてほしい。

つまり、オタクにとっての"すきなもののはなし"は全存在をかけた自己PRなのである。すくなくとも、自分の魂の多くをコンテンツにつぎこんでいる。誇張じゃない。誇張であればいいのに。オタク同士では暗黙の了解なので本人でさえ自覚してなかったりする。マジかよ。マジだ。オタク同士のコミュニケーションは比較的スムーズに進む、というのはこれが大きな要因だと思う。自分と相手の間にコンテンツという道具をはさむことで、初対面のオタク同士が同じ釜の飯を食ったかの如く仲良く話し出すという異常な風景があたりまえのように現出するのを僕は何度も見てきたし、実感もしてきた。

 

しかしながら、かなしいかな、これは異常だ。

 

 本来初対面の人間と自分の本音をぶつけあって熱く語り合うなんてことが起こるわけないのだ。なんせ相手の好き嫌いなんてわからないからだ。さらにいえば、初対面から自分のすべてをぶつけるのは社会ルール違反だとまでいっても(たぶん)いい。なんせ自分がそいつのことをそこまで知りたいかなんて初対面ではわからないからな。

 

一般コミュニケーションとオタクコミュニケーションの一番の違いはここにある。イメージとしてはオタクは大量の自己紹介用の道具を持っていると考えてほしい。ただしそれはわかるひとにしかわからない

 

 さて、ここまでで地獄の蓋の入り口まできた。そのまま地獄に進む。

 

 今まで述べた一般コミュニケーションとオタクコミュニケーションがぶつかるとどうなってしまうのか。

 そこに生まれるのは拒絶だ。大量の自己紹介道具はなんの役にもたたない。オタクは小さな名刺を交換し合うような交流より、自分について書かれた分厚い(そしてたいていクソ重い)辞書を投げつけあうような交流を好むが、そんなのむこうは知ったこっちゃない。交流というのは拒絶されたらもうおしまいだ。後には何も残らない。僕たちには灰になったオタクの死体を海に撒くだろう。21gの魂を失ったオタクの死体は心なしか軽いかもしれない。

 

  結論から言おう。オタクがすきなもののはなしをするのは最終手段だ。そして、けっしてやりすぎてはだめだ。想定の半分でちょうどいいくらいだ。それで十分人は満足するし、それくらいなら「ちょっとくわしい人」枠に留まれる。横文字を使うな、あらすじを説明するな、文献を引用するな、過去編に突入するな、四字熟語を使うな、専門用語を並べるな。やりたいのはわかる、でもそれは求められているのか?

 

 コミュニケーションは相手のことを第一に考えるべきだ。初対面ならなおさらだ。オタク同士ならたとえ分かり合えなくとも好きなものへの熱意は共有できる。しかしそれを誰もに期待するな。死ぬぞ。悪意がないぶん容赦もないからな。ゴキブリだ、殺せ!くらいのノリで駆逐されてしまうからな。あと知らないことを聞くのが好きとかいう奴。あれは八割方嘘だと思え。少なくとも、おまえの"好き"と同じだと思うな。

 繰り返すが異文化交流だ。しかもむこうが多数派だということを死んでも忘れるな。忘れたときが最期だという意識を常に持つのが大事だ。

  全編通してオタクとそれ以外を二分化しているけれど、多少なりとも自覚があるなら全部オタク視点で対処すればいい。大は小を兼ねる。

 

 

 ───それでも語りたいのなら話をしよう。

 

 好きなものの、話をしようじゃあないか。

 

 

 

かもしれないかもしれない何かの見方が

  ブログで稼ぐ、見るにはいい夢だが実行するには手間がかかる。まあまあ成功しているブロガーで、勉強と運動部を両立している人を見たことがない。成功するブロガー、たいてい他にやることなさそうな人間だ。逆に言えば、やるなら真面目に取り組め、他のことをやってる暇はない、ということだろう。だからやれない。意外とこの分野、努力が報われるらしく、真面目にやればそれなりに小金を稼いだりもできるようだ。ある程度日本語が書けて働きたくない人にとってはいい話だと思う。俺も大学入学時に知っていれば、アクセス数に一喜一憂する生活を送っていたかもしれない。

 

 閑話休題

 

 今回は、勉強してはじめて気づいたことを書いとこうと思う。

 

Googleで調べたのか、それとも調べさせられたのか

 Google先生。みんな大好きGoogle先生ゆりかごから墓場まで安心のGoogleだが、奴も人の子である。収益を狙うサイトというのは、まずこのGoogleを利用する。ここに発想の転換がある。Googleに見つけてもらうのではなく、Googleが見つけるようアピールしているわけだ。よく調べられるキーワードを区切って記事にしたりといった。

 つまり、“俺が調べたこのサイト”という考えは、あながち正しくもなくて、”おまえでも見つけられるように探させてやったサイト“なのかもしれない。おまえの功績はサイト運営者によって操作されたものなのかもしれない。一切の努力は無駄なのかもしれない。あんまりやりすぎると陰謀論好きっぽく見えるかもしれない。

 

 視点を変えたものの捉え方というのは、ふつうは知らなきゃできないということで、だとすれば、いろんなことをやる上でそういうところに意識をもっておくのは悪くないというお話。かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

駄文を書くための駄文を書くための

 Twitterのフォローボタンがつきました。ほかにも表示とか多少見やすくなったんじゃないでしょうか。HTMLなんて聞いてなかったので、何にも考えずに始めたあとであわあわしている。

 勉強したら案外世の中ブログで生きていきたがってる人が多いらしいことがわかってきた。好きなことして生きていくじゃん、すごい。 いやまったく考えていなかった。世の人がこんなに頑張っているとは。

 

 ミミズだってオケラだってアフィクソだってみんなみんな生きているんだなあ。

 

 さて、

 

 それでは何を書けばいいんだろうか。

毎日やる必要はないんだよ、かつて僕にそう言った先輩は校長の尻をキックして退学になってしまった。彼が毎日やらなかったのは勉強だったんだけど。

  毎日、少なくとも一定頻度で更新するなら好きな話しかできなくなるに決まってる。 もうひとつ、それと同時にテーマを決めるの無理じゃないかという話もうまれる。同じ毛色で話すのは無理だ。前回みたく偉そうにしてたらいつか人に刺される。確実に刺される。最近の人類は刺すのが上手だ。先日もマレーシアで著名人に針を刺してた。

  基本的にはツイッターで足りるような生き方しかしていないんだ。140字で語り尽くせる1日しか送っていない。 新しいことをするにはツイッターで語ってないことをしなきゃいけない。心をインターネットに垂れ流す準備だ。こんなのオタクしかできないだろ。

 

 というより。

 

 僕にはそういう文章しか書けないんだろう。たとえばお役立ち情報というのは拡散されやすい、とかの有名なアルファのたらればさんもおっしゃっていた。が、お役立ち情報、書けるか?俺に?人生をいかに無駄遣いするかくらいしか教えられることねえぞ。とりあえず運動部に入るといい。人生破滅の初手としては悪くないと思う。

どうもお役立ち情報ってだいたいみんな知ってることな気がしてきた。

 

 まとめると、一貫したことはできないし現段階ではするつもりもないよという話です。もし万が一(万が一)おもしろい小僧だ叩き潰してくれようみたいな方がいたら、そんなにおもしろいこと言わないよって話で、あれこいつ語ってやがるツマンネって方にはそんなに語り続けるのは難しいからまだわかんないよって話です。あ、でも今書いてきてオタクのコミュニケーション論みたいのはやってみたいような気がしてきたな、あーじゃあそれを基軸によろしくおねがいします。

 

  最後に装飾機能の練習がてら今日のワンポイントパワーワードを見出し太字にしておこう。

 

偉そうにしてたらいつか人に刺される。

 

 字が太いと説得力が増すなあ。

 

まあ偉そうにしてなくても刺されたりするしあんま意味ないかもね。みんな知ってるか、じゃあこれお役立ち情報ってことでいいですか。

オタクが受け入れられた世界でぼくらが振るう暴力を

 オタクは忙しい。そのことをもっとオタクは自覚していい。


 これだけ書くとバカっぽいわけだが、でも近年オタクを取り巻く環境はやわらかくなるばかりで、少なくとも首都圏におけるオタクの社会的地位はさほど悪くないものだと思う。俺がいうオタクは「なんかしらにハマって無限に時間を溶かせる変態」のことなのでアキバ系にはまったく固執しないが、自分が漫画ゲーム方向に位置するのでどうしてもそこらへんを起点に進めてしまうのは勘弁してほしい。

 先日、チャラ男先輩がオタクの彼女が忙しくて寂しかったみたいなバズツイートがあった。(https://twitter.com/yama_gisi1614/status/830565551831289856)ここのところ似たようなことを考えていたため、やはりバズる案件なのかと得心した。これ、オタクから見たら「あらおもしろ笑」、くらいですむと思うけど、おそらくこれをRTした人の中には「まじでオタクありえない、私よりゲームが大事なの?ほんと困った」みたいな経験をして共感した、って人も多かったはずだ。

 なにがいいたいかというと、オタクじゃない人というのはハマれるものが少ない、下手したら一切ない、ということに多くのオタクは気づいていないのだということである。
 オタクじゃない人はある意味、圧倒的にヒマなのだ。だって家にいてもやることないし、心血金銭を注ぐコンテンツもないのだ。やることがないからご飯や恋愛に精を出さざるを得ない。(ご飯や恋愛で得られる快感は生物として共通のものなので)(もちろんご飯オタクや恋愛オタクもいる)オタクの捨てぜりふにありがちな、「そんな暇ねえよ!」は案外的を得ていることも多いのかもしれない。


 これはオタク擁護ではなく、被害者面をしてはいけないという自省論だ。当然ながら俺自身も、“ハマるコンテンツがない”なんて意味わからねえしどうやって人生をやってきたんだ、なんて思ってしまうわけだが、どういうわけかオタクにならずに人生をやってきてしまう奴らがいるのは事実なのだ。そいつらのほうがまだまだ社会的強者であるのはくれぐれも肝に銘じなければならない。寝食セックスなんかよりもっとやりたいことがあるオタク、客観的に見て気味が悪い。自分を振り返ればなんにも不思議じゃないんだけども。
 意外とそこに気づくのは難しい気がする。視点の方向が違うだけなのに、相手を羨んでばっかりだ。

 ここでなんでこんな話を始めたかというとこに戻るんですが、僕はキモオタとオタクまじありえん派のハイブリッドとして生まれ育ったオタクなので、オタクの中ではまあまあ異文化交流をしている方だという自負があるんですね。漫画ゲームの話をしないように人と楽しく話す練習とかもやってきました。いわゆる人間関係をやっていく、というやつです。
 つまり、それだけふつうの人の中でやっていくことが怖かったわけです。偏差値の高い大学を志望した理由の9割は誇張じゃなくオタクのままやっていけるところでモラトリアムするためでした。オタクは他のオタクにも寛容であったり、分野がまたがってることが多いので、勉強オタクが多い高学歴社会にはオタクへの開かれた社会がありがちです。

 で、そのわりには一つのものにハマりきらないわけだ俺は。いろんなものに顔をつっこむのは好きなのに、ある程度しかできない。ポケモンなんか例えやすくて、ストーリークリアまで楽しむのがふつうだとしたら99.Lvまで厳選するのがオタク、75.Lvまでは全部育てるくせにパタッと飽きるのが俺だ。その余剰時間で別のことをしてますます広く浅くを繰り返す。功罪あるので別にその気質自体はいいんだが、ちゃんと極めるオタクとも非オタクとも、話はできても根幹のとこであれ?ってなることが増えてきた。
 もちろん俺みたいなのもいるところにはいて全然特別なことではないんだけど、だいたい声が大きいのは両極端な人だというのは広く知られているわけで。おいオタク お前はここが 抜けている、みたいな指摘に頷きつつも、いやでもな オタクにそれは 酷なんだ みたいなことを考える生活に疲れた先が今のこの場というわけだ。

 
 で、話を戻すと、繰り返しになるがオタクが人間関係をやるにはめちゃめちゃ忙しい。俺だって彼女がいればスマホゲーなんかに課金しないとか言ってるお前は彼女ができてもレベル上げに邁進し続ける。デートから帰れば「今日はありがとー」なんてラインよりも読めなかった今週のジャンプを優先してしまう。組み立てられなかったプラモデルを夜を徹してやってしまうし、音ゲーの途中で着信でも来ようものなら確実に拒否ってブチ切り、コンボが途切れてそのまま自分がブチ切れるまである。
 その忙しさにオタクはあまりに無自覚だ。というか、みんなもそれくらい忙しいと思ってる。

 そんなことはないのだ。最初に言ったとおりどうしても自分基準で進めてしまう面があるが、勉強の好きなお前や服選びに半日かかるお前もみんな一緒だ。料理に手間をかけすぎるお前も毎日映画を何本も観てしまうお前もみんな見る人が見れば理解不能なキモオタクだ。

 みんなお前ほどそのことに興味ないし時間もかけてない。そんなに忙しくない。


 それは全く悪いことなんかじゃない。なにも恥ずかしいことじゃない。ただ、それが特別なことだということを自覚するのは大切だと、僕は思うのだ。
 謙遜は大事だ。増長するイキリオタクほど見苦しいものはない。しかし自分を卑下するオタクは案外多い。これが人を傷つけるということに、もっと注意深くならなくてはいけない。

 異文化理解という文脈ではよくある話だ。ただ、自分もそうだがどうもオタクのほうが趣味という避難所に隠れがちな印象を受ける。避難所から見た景色ほど、相手は怖くないし、自分は小さくもないのだ。

 
もう一度言おう、オタクは忙しい。そのことをもっとオタクは自覚していい。

ハヂメニ

 はじめましての方ははじめまして、はじめましてじゃない方は嘘をつくな。はじめてやってんだお前はどこで俺の存在を知ったんだ。ファンか?ファンなのか?ありがとう!

 いやあの。Facebookでですね、あ、僕のFacebookは序の文と近況とどうでもいい思索と結びの文からなるんですけど、あれ四分の一くらい(つまりどうでもいい思索の部分)はブログやるのめんどくさいからだったんですよ。
ただ家族がちょっとやってみるかみたいなこと言い出して家庭内にそういう話があったことや、最近先輩にSNS文章を不当に高く評価して頂いたこともあって、あとFacebookに長文書くと申し訳ないのもあって、これを機にいっちょやってみっかという次第です。最近の豚はおだてりゃ飛びますからね、覚悟しろよ。やつらは加減を知らない。

 ツイッターはあまりに性格に適しているので常用飲料水みたいな感じでゴクゴク使うとして、長文は長文のよさがある。ツイッターでは人格を消さない程度に個をおさえたアカウントを心がけているけど、ここではもう少し個人が滲み出る予定でいます。文が長いから当たり前っちゃそうなんだけど。

 やりたかったのは次に書く話なのでこれくらいで。ちょっとでも読んだりしてくれたらめちゃめちゃうれしいです。それでついでに俺と話が合いそうな人間に紹介してくれたりしたらもっとうれしいです。