ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

つまらないものをつまらないということは

 キンモクセイも落ちてしまった。
花は好きだ。季節の移り変わりに、てきとうな美しさをくれる。キンモクセイは花が自己主張激しすぎないのがいい。そのくせ遠くからもわかるのがいい。気づかない人には気づかれない高さで、当たり前のように咲いているのがいい。当たり前のような顔できれいに移り変わるものは美しい。雲だったり虫の声だったり風の温度だったり。そういうものが好きだ。とはいえ今回の話とは全く関係ない。


 モラルというのは難しい話でむっずかしい話でtoo difficultな話だから決して140字で話してはいけない。しかし、人間関係をやっていくためには、思考を整理しなければいけないときがある。ときにくだらない話を、一生懸命やらなきゃいけない時がある。削ぎ落とした言及はまあ、やはり、削ぎ落ちてしまっているのだろう。

 面白くないものという概念がある。設定にろくな整合性が取れていないSFや、源氏物語を永久に超えることのできない数多のラブコメ、目的や難易度が方向を見失ったゲームやシーンと音楽が絶妙に合わなかった舞台、横文字だらけの公約や声優へのクソリプ 、n度目に見たデスノートのセリフ入れ替え長文画像や、頭の悪い人が頭の悪いことを悠久に使いまわし続ける光景────

世の中には、面白くないものがたくさんある。

もちろん判断の基準は曖昧で、僕にとっては面白いことが人によってはつまらないということも当然ある。

だからこそ。おもしろくないものに対する姿勢は注意する必要がある。


いいですか、主観です。


おもしろくないものをおもしろくないというのは簡単なのだ。

ただ、それを人を傷つけずに行うのは難しい。言及はあまりにも安易に行われる。そこになぜ俺が引っかかるのか、まとめてある程度整理できるのかをやっていこう。きっとこれは、人間関係をやっていくうえでも役に立つはずだから。

 
感想を述べあうというのは共感を得るための活動だ。
だから、これはどうしようもなく主観しかないのだ。そこに正義はなく、信念しかないのだということを、まずは心に刻むことが、大切なんじゃないだろうかと思う。

極端な話をしよう。アマゾンのレビューには☆1しかつけずに無限に商品を非難し続ける人が無数に存在する。しかし僕はアマゾン☆1レビューオタクを叩くことができない。彼にとっては本当につまらないものだったかもしれないからだ。どんなゲームをやっても楽しめないとしたら悲しいことだが、そう思うことさえも僕のエゴにすぎない。ある人間が☆1レビューをするその瞬間に生きがいを感じているとしたら、その生き方に何を言えるんだ。なにか言えるほどの何かを僕は持っているのか。僕は、そういう人間だ。


 だけど僕らはその姿、その文を見てまず間違いなく傷つく。
さあ、なんで傷つくんだ?プレイしたこともないゲームの話を読んで、なんで腹が立つんだ?


 共感は確かにあるのだ。そこから始めさせてほしい。共有するべき規範はあるのだ。そこに正義はなく、信念しかないのだけれど。それぐらいは許してほしい。

 これは僕の文章で、
どうしようもなく俺の文章でしかないのだから。



①.おもしろいものをおもしろいということと、つまらないものをつまらないということは対偶ではないのだということ。
人の悪口を言ってはいけません。どうしてなんだろう?悪口を言うと敵をつくって生存確率を下げるから?社会生物としてうまくやる必要があるから?そういう話は別のところでやりましょう。この話に正義はありません。僕はダサいと思うからです。プラスの感情はいくら表出しようとうるさいくらいでその内容についてなかなか不快にはならないものだ。でもマイナスの感情の表出は途端に人を不愉快にさせる。単純に表裏の関係にはないのだ。これ、対人においてもそういう奴なら理解できるんだけど、ふだん常識人らしい人がコンテンツに対しては態度を豹変させるということがあって怖い。


②.否定は反例をひとつ示せばいいということの残酷さを
数学でやりましたね。正しいことの証明は大変なのに、間違っているものは一つ示せばいい。誰かの主張にくってかかるのは簡単なのだ。これを①と対応させる。面白いに対して人はそれに食って掛かろうとは思いにくい。でも、つまらないと言われたら気になるだろう。ならない?俺はなるんだよ。実はこれ自体はもう社会の中にけっこううまいこと組み込まれている。世のすべての主張はこれにのっとって論理が展開されているといっても過言ではない。「あなたはこう思っているでしょう、でも実はだめなんですよ、なんで?って思ったでしょう?それでは説明いたしましょう」これが全世界共通の論理展開だ。つかみとは驚かせることで、対話や理解のためにはどこかしらで相手の感情に対して煽りというか、揺さぶりをかけなければいけないのだ。それは全く当然である。
が、それとただ感想を表明することは軸を異にする。理由のあいまいな過度なマイナス感情の表明は、そのあと相手をもやもやさせる。慎重にするべきだ。共感性を十分に有した友達なんかならともかく、不特定多数に向けて叫ぶようなものではない。


①②はつまるところ、おもしろいは雑に使っても怒られにくいが、つまらないを雑に使うのはアウトだということである。



あまり強い言葉を使うなよ、弱く見えるぞ。
よくいったもので、程度がインフレした罵倒はそもそもがダサいのだ。たとえばちょっと転んだくらいで「マジ最悪死ねふざけんな」とか使ってしまう人って交通事故に巻き込まれたらなんていうんだろうな。言葉の使いすぎというか、結果としては使える語彙の制限、貧しさに繋がるように思う。もとの語彙が乏しいからという卵ニワトリ問題なのかも知れないけれど、それはまた別の話だ。あと、強い言葉というのは本質的にマウンティングするためにあるのだと思う。他人への命令や罵倒、これはつまるところ自分の相対的な地位を高めようとするものに相違ない。ならばそれをコンテンツに適用する人間はなんなのか。モノ言わぬコンテンツに対して罵詈雑言をあびせる意味とは。自分の立ち位置を高くして何の意味が…仮にクリエイターに対するものだとしてもダサいの極み…この行動がダサい2017…というか、それを無意識にしてしまっているとしたら…


 この③は僕が最も危惧する部分だ。ここにはなにかを否定するときに生じがちな自意識がある。なにかを肯定するときには、「これの良さがわからないお前らは愚かだ」理論は生まれにくいのですよ。もちろんないとは言わないよ。あんまりようわからんものを熱心にアピールされて、しかもお前はなんもわかっとらんとか言われたら驚いちゃうけれど。②で扱ったように、否定は肯定に比べてあまりに簡単なのだ。だから攻撃を受けやすい。同様に、なにかを否定するときに「これがだめだとわからないやつはだめだ」というニュアンスをまったく出さずに表現できる人がどれだけいるのか。いや、それを意識して発信する人すら、それを無遠慮に表出する人に比べてどれほどいるのか。
たとえ文章が稚拙だったとしても、否定したいのか批判しようとしているのかなんて一目見ればわかるものだ。雑に扱わない方がいい。ただの感情なら、そこには余計な言い訳をつけないほうがずっといい。
さらに言えば、「わからないやつはだめだ」、発生と同時に「わかる自分はすごい」というニュアンスが生まれる点も大きな問題だ。そのつもりがなくても生まれるのだ。この文章だって僕の全精神を集中して不快感を排除しようと努力してるけれど、それでも長くなればなるほど粗が出てくるのだ。どうしようもなく主観でしかないのだ。コンテンツの是非なんてほとんどないのだ。そして、ほんとうに希少な、みんなが共感して是非のわかるコンテンツに対して「自分はすごい」ってやるのは滑稽を通り越して悲しいものがあるのは言うに及ばない。


権威を笠に着るのはダサい
これはコンテンツだからこそみられるものかもしれない。すこし「コンテンツ」の枠を広げると思想家や政治の話につながって他人の人格否定まで進んでいく。背景知識を紹介することはなにも間違ってはいないと思う。深い知識に裏打ちされた言及には知性が宿る。ただし、一歩間違えればこれも「こんなこと知ってる自分すごい」が滲みだす。その話がどうつながっているのか、たんに知識をひけらかしているだけではないのか、難しい話こそいっちょかみのダサさは際立つ。さらにそれをする人間は(おそらく無意識に)③と結びつけて物事を語りだす。①も、たぶん②もわかっているような人でも簡単にやってしまう。とても正しそうな、まともなことを言っているような、誰かを傷つけるような、それを正当化するような、そんな文を書く人はこのあたりにいる。伝えるのは難しいことなのだ。一定の知識を共有した集団内でする会話なら許されることでも、インターネットで、足りない言葉で、安易に言い及ぶのは知性への反逆だ。





つまりは、





 つまらないことをつまらないというのは感情の問題で、そこには自分のことしか付け足してはいけないのだ。つまらないものがなぜつまらないのかを人に伝えたいなら、相手を馬鹿にしたり、自分を持ち上げたりしてはいけないのだ。
それがきちんとできるなら、どれほど難しいことなのかわかる。それでも叫ぶなら、長い文章が必要になる。言葉を尽くす旅路を。進もうとする覚悟が。



 どうしようもなく僕の主観にすぎない前提に、知らないだれかが喜ぶとうれしいという気持ちがあるんだ。知らない誰かを無意味に傷つけることに対する嫌悪があるんだ。それがきっと、おもしろいとおもしろくないに単なる裏表以上のイメージを持たせているのだ。


 だからおもしろくないものをおもしろくないというときには、誰よりも気を付けなければいけないのだ。できないならば、沈黙して座すしかないのだ。

○○は駄作だとかブロックしてやったとか

結論:おもしろくないものをおもしろくないと大きな声で叫ぶの、マジでダサいのでやめたほうがいい。

夏は紙を切って遊んでいたという話

 白を切っていた。淡々と、何も考えずに切っていた。

 

 

 切り紙というと残った地の部分が絵を形作るものだが、この夏やっていたのは対象を切り抜くタイプで、感覚としては一筆書きに近いような気がする。

自分でデザインできるほどの能力はないのでジブリのサイトを見たりだとか、いろいろやってイメージをつくり、多少改変したり、まるっと使わせたりしてもらって下絵を手に入れる。インターネット万歳。デザインナイフやカッターマットも今どきは100均で売っているので手軽な趣味っぽい。

 

どうも手軽な趣味が多い。趣味とかいうから聞こえはいいけど一人遊びが得意なだけで、人間と遊ぶのが苦手なだけだ。しかもなんか作って遊ぶとそのあと絶対人に見せたくなるからやっかいだ。

 

 

 対人の距離感の話は非常に面倒くさい。オタクはいわんや。そのまんま人間への関心度っぽい。これはキモいかどうかや、知識度が高いかどうかとはあまり関係ないようだ。

なんとなく最近思うのは、キャラ押しのオタクは人間とも仲良くやってて(やりたがってて)、設定とか世界観とか言っちゃうタイプの人間はワイワイする人間関係が極度にストレスっぽい。いいですか、主観です。

 

 世界観とか言っちゃうタイプの人間は自分の中の世界にたいする自覚がかなり激しいんだろうと思う。良くも悪くも非常に自己中心的なんだろう。これは解釈違いとかいう概念を聞くたびに思うことで、キャラ押しの人って同じキャラが好きでも戦争になったりするわけですよね。あれ、全体的に好きですパーソンから見ると本当にはーーーんってなることが多くて。別に好きなら好きで仲良くすればええねんなに争ってるアルか?といった気持ちになるわけです。

 

その一方で全体的に好きですパーソンの自分の殻はときにカップリングで騒ぎあう人よりも固いことも多くて。解釈違いになっても(へ~きみはそう思うんだまあそう思って楽しいならそれでもいいんじゃないかな俺は俺で楽しむし)的思考回路で両者スルーしあって結果仲良くやってる、みたいなことが多い気がする。このカッコ内の思考が悪意や皮肉なしに平常運転で行われるのがこの手のオタクの特徴だと思う。その際の”仲良く”はパーソナルスペースの確保を行ったうえで無害なもの同士つるむ、というものなので、共感などのしかたが一般的な友達を想定するとたとえば”冷たい”とか思われたりするのかもしれない。ラインを平気で既読無視できるかどうかでだいたいわかる。

 

 だから僕はドルオタの人間関係については心配したことないんですよ。オタクとしての活動方向性が人間に開けているから。コミュニケーション能力なんてのはあとから頑張れば一定レベル上昇のしようがある。でも活動方向性が人間に向かっていないオタクは難しい。オタク同士の結びつき方も差が出てくると思うのだ。

 

 もちろんどっちが悪いとかじゃないし双方混ざっていることが多い。

もっかいいうけどどっちが悪いとかじゃないし双方混ざっていることが多い。

 

 

 みたいなことを考えながら紙を切っていた。紙は俺が何を考えてようが何も言ってこないし、切った分新しいかたちができるので綺麗だし、淡々と作業が進んだ。 

 

白を切り、そこに現れるものを見たいと思った。静かだ。静かな空間に、紙で遊んでいる僕と、ただ紙があった。

 

そうしていくつかものをつくった。

 

 後日、人にあげたらすごく喜ばれた。ふだんからお世話になってる人だし、そういうのが好きな人だから喜ぶかなと思ってはいたけれど、本当に、とても綺麗に喜んでくれた。僕は綺麗に喜ぶのが苦手なので、それだけでなにか、美しいものを見た気分になったというのに。

 

ひとりで作ってたものでさえ、お前は他者の評価を必要とするのかという追及は、ポップアップカードだTシャツだなんだ作ったときも何度となく襲い掛かってきたもので、今もついてまわる。

 

つくることはときにあまりにも傲慢に人を振り回す。だってそうだろう?あんなにひとりで遊ぶのが好きなくせに。人と話すとすぐ疲れてしまうくせに。

 

 俺は自分がつくったもので人が喜ぶとうれしいのだ。

 

うれしかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

言及をするな英語でも勉強しろ。

 8月になろうとしている。夏と呼ばれる季節だ。俺は日本の四季には詳しくて、生涯をその道に捧げてきたと言っても過言じゃないくらい日本にいるというかなんなら日本国外に出たことがないのでもうこれは専門家と言っても間違いない。専門家の意見としては夏は暑い。

 蝉が元気に鳴いている。元気に鳴いているから元気に死ぬんだろう。そのへんは専門じゃないから間違っているかもしれない。

 

さて。

 

いいですか、主観です。

 

 なんども、なんども、なんどもなんども言ってきた、「喋るなオタク」に対して、最近僕の中に比較対象が生まれてきた。誤解を承知で一言でいうなら、論者、というあれである。あれはなんだ。ツイッターでなにかを論じるあれは。あれは喋りすぎたオタクの果てなのか。俺はそれなりにオタクを肯定的にみているけど、インターネットの野原に放つとあんな風に育ってしまうのか?最初から野生開放で行くのか?きみは言及が得意なフレンズなのか?雑な知識の振り回しはオタクのそれとは軸を異にする。いったいあれは。

 

 

 何かを論じるというのは難しい行為だ。小学生だってわかる。「~はなぜですか」て記述問題で訊かれると答えづらい。必要な知識は当然のこととして、さらにそれを自分の中で一貫した論理体型に落とし込む必要がある。そもそも日本語ができないと書けないし。ちなみに今回はそれなりに長くて整理がつかないので、同時並行で英語の勉強もしていこうと思う。

  何かを論じるというのは難しい行為だ。

答えのはっきりした問題でさえそうだ。ましてや答えの出にくい問題なんて。ああそうだ。今回僕は、安易な言及について書こうとしている。

  だって何かを論じるというのは難しい行為だからだ。

 

むずかしい 難しい

 

 

 

 答えの出にくい問題に、もしかしたらいけるんじゃないかと夢見て延々考えぬくことを、学問と呼ぶ。

 である以上言及というのは、最大限の謙虚さをもってなされるべきだ。政治であれ経済であれ、歴史恋愛教育にいたるまで、解決策があるならとっくにみんなハッピーになってるはずの問題だ。ああいうのはみんなでなんとか妥協案を探しあっていくために語り合うのだ。こうこう僕は思います。あなたはどうですか?怯えるくらいでちょうどいい。関係ないが僕は英語がペラペラ喋れる人と話すときいつも怯えている。

 

 議論のための指針をあたえるのが専門家であり、大学教授なんか見ればわかるように、まともにそういう問題と向き合うには長い年月が必要だ。もちろん論文とかは出すわけだけど、4,50歳を超えてからが後継を育てるだとか学生へ知識を還元する段階に入ると聞く。その段階の知識人というのはもう存在が一つの知識機構として機能するように思う。「個の極致」蟻の王にも見逃してもらえるレベルだ。それだって、むしろ学問を続ける人ほど、あくまで私は現状こう考える、という姿勢を貫いているように思う。全く関係ないが貫くという英語をpenetrateって覚えてから、ペネトレイターって名前の武器がゲームに登場するとテンションがあがる。

 

 そういった諸問題をインターネット論者は。

どうしてそんなに雑にたたき斬ることができるんだ。

 断定できないことを断定するという行為は知性への反逆だ。排他は傲慢だ。

わかってきたんですが、どうやら俺は断定することが嫌いらしいです。

 

 

インターネット論客との付き合い方の示唆として、①なぜ断定してしまうのか、②なぜ人気がでるのか、③自分たちもそういった言及をしてしまうのではないか。この三点を主軸にして考えていこうと思う。そういえば英作文とかスピーチあるあるなんだけど、とにかくI have three points!って叫んでからしゃべる人のことをスリーポインツおばけと呼んでいる。他意はない。

 

  • なぜ断定してしまうのか

 前提として、まともな思考回路をしていたら雑な断定言及などできるわけがないのだ、ということにしておきたい。これはフォロワーによる監査が入ることを考えればある程度保証される。本当に頓珍漢なことを言ってたら相手にされない。ちなみに英語が話せないと海外では相手にされない。

 

    とんちんかんな 

tonntinnkan

 
どうもとんちんかんだった. All you said is very tonntinnkann.Fuck off.

 

だから、雑な断定というのはまともじゃない状況に置かれてしまったときに起こるものだ。(ということにしておきたい

 

 ツイッターにおいて個人に影響を与えうるものはいいねRT、そしてフォロワー数だ。リプは数値化できないので割愛する。これが増えることでクソ言及という行動へのインセンティブが高まってしまうと仮定できる。わかりやすいイメージだと権力といいかえてもいい。真面目に話しだすときりがないので適宜補ってください。政治家が自分の専門外のことにまで誤った論説を広げてしまうのに似ている。まともじゃない状態というやつだ。まともの定義も長くなるので察してください。

これはまるまる評論家に当てはめてもいいだろう。名声が上がるとトンデモ理論を語りだす人がいるのはこのためだろう。ただし匿名性の高いインターネットのほうがそのリスクは高いことに注意する必要がある。ところで匿名チャットで外国人とお話して英語力を上げるとかいう方法論あると思うんですけど、あれめちゃくちゃ怖くないですか?話とは関係ないんですけど。

 

 もう一つ、環境的な制約を考えると、140字しかないというのはあるだろう。140字でまともな意見を言うのは卓越した言語能力が必要だ。不可能とまでは言わないけれど、どうしても構成に不備が生まれるのは仕方のないことだとは思う。僕が相対的に英語がドチャクソ苦手なのは完璧に自分の責任だと思う。

 

  • なぜ人気が出るのか

何かを論じるというのは難しい行為だ。

 でもみんな考えたことを話したいのだ。ただゼロから考えるのは大変だから、それっぽいところからパッケージングされた思考をもってくる。いっちょかみほど簡単かつ知的活動した気になれる行為もなかなかない。あと、断定してもらえると安心できる。がんばればもしかして夢がかなうかも…といわれるよりも、お前はダメだと言われた方がありがたいのと似ている。(適当に書いたけどこれは多分違う気がする)この点に評論家という職業の意義があると僕は思う。社会に新しい切り口から物事をみるよう促す。思考しない人間の集団からは成長が失われるだろう。ちなみに英語は語学なので考えてから喋っているうちはだめだそうです。

 断定している人は答えを指し示してくれる人だ。少なくともそう見える。そう見えさえすればいい。ここで先ほどの断定するインセンティブに戻るけれど、インターネットでは発言に責任を取らなくていいというのもモラルハザードにつながる事実だと思う。

 クソリプの存在については今回は考慮しないことにしている。あくまで断定言及型の大規模アカウントとの付き合い方を考えよう。

だ っ て 流 れ て く る ん だ も ん 。

 

   だって流れてくるんだもん

itiiti uruse-yo damare

 

 

  • 自分たちもそういった言及をしてしまうのではないか 

 これ。これだよ。これが問題だ。いや断定言及で社会にもの申すはさすがにしないと思うんだけれども。自分が他人を攻撃してしまうタイミングというものは、どこまでも気にしておくべきだ。何よりも問題なのは自分の行動だ。人のふり見て己を直せ。

 

 言及なんかしてる暇はない。喋るなオタク。知識を磨け。

 

何かを論じるというのは難しい行為だ。

 

何かを論じるというのは難しい行為だなんて、わかっているはずなのだ。

 

なのに僕らはすぐ、何かを論じるというのは難しい行為だと、忘れてしまうのだ。

 

わすれる 忘れる

 

 
私は覚えてもすぐ忘れてしまう。
Even if I memorize that I will forget right 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文体について知っている唯一の。

 梅雨は嫌いじゃない。

思っているほど雨は降らないし、梅の実の緑は静かだ。

 

 なんだろう。前文というものを書くのが苦手なのかもしれない。適当な人間だから適当な文からしか始められないんだろう。もしかしたら適当な文を書いていないと、適当な人間にはなれないのかもしれない。


 文体は世界と対峙するための鎧だと誰かが言った。電話やメールの普及によって、むきだしのまま外界と対面する時代が来たと述べていらっしゃった。物書きと呼ばれる方々にとって文体とは強固な鎧だ。世界とつながるためには自分が作り上げた文体だけを頼りに進むしかない。それは宇宙服に似ている。いまでもそうだろう。

 

 そんな文体とは異なり、SNSの世において、文体は一つの人格そのものになりうる。文字で交流するのがまだまだ主流である以上、文体を通して世界と対峙することは変わらない。むきだしのまま世界と対峙することはまだまだ無理だ。しかし筆者の名前と文章がタグ付けされた時代は終わった。インターネットの文体はひとりでに歩き出す分身だ。複数のアカウントなんてのはその証拠だろう。だから正確には別物の概念なんだけど、ほかに言葉を知らないから文体と呼ぶことにする。

 長かった。さて、ここからが今日の本題だ。暑くなる前に怪談でもしましょう。文体が、アカウント人格を侵食していく恐怖について、考えていきましょう。
 前回「いちど選択したなんとなくが当然になっていく」ことについてちょこっと触れた。

iriwopposite.hatenablog.com

 あそこだとやや不自然な入れ方になってた気もするけれど、今回はそこのお話。わかりにくいので言い方を変えましょう。つまりその、一回やってしまうと心理障壁が下がるということについて、どれほど気にしているんだろうかという話だ。

文体は自分の性格、信条を反映している。そうすると、なんとなく使わない言葉っていうのもあるはずだ。そして同時に、それをたまには使ってみたくなることがあるはずだ。それは死にたいと呟くことことかもしれない。主語のない曖昧な感情で承認を満たそうとすることかもしれない。目についたバズツイートへのクソリプリツイートして馬鹿にすることかもしれない。それに抵抗を感じなくなるということだ。

 

 一つ一つの行為はやりたくなっても不思議ではない。いやするのは個人の勝手だから別に悪いとか言ってない。ただ、最初にするときは多少抵抗があったと思うんだ。それがだんだん平気になっていったとして、そのことを、どれだけ気にしているんだろうか。
 前の話で言ったら、根拠なく人生を肯定してくれるコンテンツを消費することにためらいがなくなるということ。まあ個人差はあって、今例に挙げているのは俺が心理的抵抗を感じるものばかりなのでピンとこない方にはそんなん抵抗ありませんがってなると思う。

でもその、例えば自撮りとかなんにも思わずあげれる人もいるとはいえ、その人にもその人なりの線引きがあるはずで、それも日々揺らいでいるのではないだろうか。価値観の揺らぎ、善悪の区別、好き嫌いの押し付け、どれも日常で当然起こることではあるんだけど、文体はそれを加速させる。アカウントに表出する自己は個人の一面だ。複数アカウントとかの場合はなおさら、一面にすぎないはずの思考や嗜好が、文体という肉体を手に入れて個人を侵食していく。

 

 ツイッターを始めたころと、キャラが変わっていない人はどれほどいるのだろう。もちろん人間的な成長によって変わることはあるけど、それとは別にして、文脈にひっぱられてツイート内容が変わっていく人も多いのではないだろうか。タイムラインという概念は、文体の持っていた自律的な要素を、さらに手の付けられないところまで大きくさせてしまう。ある一面で気に入った人々が、自分にもあるその一面に沿った発言をするのを眺めることで、自己の一部分にすぎなかった部分が大きくなる。不可逆的に。

ついでにいうと、ネガティブなことのほうが人間引っ張られやすいのだ。いわゆるメンヘラ(通院の是非によらない方の意味)はそうやって出来上がるんじゃないかと思う。どうですか。心当たりが、ありますか。
 
 モラルは拡張していく。拡張しないと、自分を受け入れられなくなるからだ。必然、アカウントの性質は変容する。

 ただえてしてそれは漸次的なものだ。あれだ、アハ体験的なやつだ。ここまでならセーフ、がいつのまにかけっこうキツイこと言うアカウントになってたりしないだろうか。文体に飲み込まれてはいないだろうか。キャラに自分が定義づけされていないだろうか。このアカウントでは〇〇は言わない、そういう自己規定は悪いことではないと思う。それならそれできちんと守れているのだろうか。変わったとして、はたして望ましい変化だろうか。

 僕はツイッターで人の悪口は言わないことにしている。それはかっこつけとかもあるけど、なによりそれに現実の自分が呑まれるのが恐ろしいからだ。でも不謹慎なのでネタがあったら使えないかとは考えてしまう。そのとき、iriwoppositeというアカウントはどこまでやっていいのか、は馬鹿みたいに考える。あの馬鹿みたいなアカウントが、馬鹿のままでいられるかを何度も確認する。

 

 文体はひとりでに歩き出した。

 それに振り回されて得られるものは、新たな自分なんかじゃなくて、肥大化した自己の一面にすぎないことが多い。で、たいへん遺憾なことにたいてい美点っていうのは肥大化しない。

 

 文体はもはや鎧ではない。

 自己の延長であると同時にリアルと同じ規模まで力を持ち、下手したら食らいついてくる。

 

 でも文体は、自分自身だ。

  その感性は自分のもので、だからこそ丁寧に歪ませないように、大事に扱っていくべきで。
 

 どういうことかというと、その、つまり。

 

 クソみたいな情報があふれかえるインターネットのなかにさらされていようが、僕は梅雨は嫌いじゃないし、初夏の花は青くてきれいなんだよと、人に伝えられる適当なアカウントでありたいのだという話だ。

肯定ペンギンとラインスタンプと伝えたいなにかと消えていく言葉が

 いいですか。主観です。

 

 誤解を恐れずいきましょう。ぼくは肯定ペンギンが怖い。

 次に誤解を全力で避けていこう。るるてあさんの絵柄はかわいいしペンギンもかわいいし好きだ。だじゃれもいい味出してるし見てるだけでゆるふわな感じになってすばらしい。べつにペンギン恐怖症でもない。

 

 でもいいねをしたこともない。

 

 いろいろあるんだけど、まずは表面的なことを言うと、人はそんなに曖昧に褒められていいのかと思うのがある。いや嘘だ。正確には、曖昧な存在に、曖昧に褒められていいのか、だ。

 

 だからその、肯定ペンギンがどうこうというより、肯定ペンギンが数万RTされることにとまどいを覚える。言うなれば、恐怖を覚える。

 

 知らない人になんか言われて救われた気持ちになる、そういうのもあるかもしれない。そういうのと同じだ、と言われるとそんな気もしなくはない。けどほんとか?そんな一種の奇蹟みたいなことを、数万人が感じてるとでもいうのか。あ、誤解しないでもらいたいのだけれど、これから書く文に対してそこまで目くじらたてる話じゃないだろう馬鹿みたいだ、っていう意見は俺だって半分くらいそう思ってるからな。これは俺の感想文であって、論説文ではない。

 

 多くの人はなんとなくだ。なんとなくいいな、と思い、どちらかといえば好きだから、そういう気持ちでいいねやリツイートをする。それは、それ自体は、なんらおかしいことではない。俺だってそうだ。

しかしなんとなくは徐々に行動や意識を固定していく。最初はどっちかといえば右かな~くらいだった意識が、何回と繰り返すうちに必ず右を選ぶようになる。詳しくは今度考えるとして、今回の話の肯定ペンギンに戻る。

 肯定ペンギンの最大のポイントは、根拠なく自己肯定感を満足させてくれることだ。根拠ないからこそ、そこにおもしろさやポップ感が生まれ、かつかわいらしいペンギンについいいねの手が伸びる。だけどやっぱり、伸びすぎじゃないかと怖くなる。

 

 ラインスタンプに感じる空恐ろしさと共通する面もある。ラインスタンプが悪だというつもりはない。文章でできる情報伝達には限界があり、それを越えうる可能性がスタンプには存在する。遠隔コミュニケーションに共感を持ち込みやすくする、画期的なアイデアだとは思っている。だけど、どんな文明の利器も使い方次第である。

日本語はあいまいさを好む。あいまいな言の葉に込められたものを、言外の相手のすべてから読み取ることを望む。いい悪いの話ではない。そういう文化的土壌がある。逆に用件を伝えるなら短い文で済む。電報、ポケベルがはやり、メールがトラブルを生みがちだった前提だ。だからこそスタンプは日本で爆発的な人気を見せた。個人的な視点では、ラインは日本語チャットコミュニケーションのパラダイムシフトと言っても過言ではないと思う。(同様の機能は他アプリにもあったが、環境整備などの速度でラインがいわゆるone takes  all状態にあり、影響力が大きかったのは周知のことと思う)

 長くなってしまった。何が言いたかったかというと、スタンプ自体はイノベーションだということ、一定の評価がされるべき発明品だということだ。会話の補助としては革新的なアイテムだと思っている。

 そしてそのうえで僕が言いたいのは、スタンプで加速度的に生まれた、“かわいらしい絵柄でなんとなくごまかすタイプの文化”が、僕は心底苦手だということだ。区別もつきにくいし誰しもやりがちなことなので面と向かっても叩きにくいあたりもたちが悪い。

 極論を言えば嘘をついたり、言わなくてもいいことを言わない、そういう会話をより悪質にしたものだ。苦手だ、というのは、そういうコミュニケーションがあるのは仕方ないことだからだ。しかし、かわいい絵柄にはなんの罪もなく、やっていることへの意識を無限に薄めてしまう。僕はそのことがあまりにも怖い。悪意が、悪意とは言わないまでも決して明るくはない心が、ポップな絵柄で軽々と、堂々と宙に舞うことが。

 

 繰り返すけれど、肯定ペンギンはなにも悪くないです。るるてあさんの絵柄はむしろ好きだしかわいいしこれからもいっぱい描いてください!って思ってる。

 

 論点はそこじゃなく。

 

なにげなく肯定ペンギンが数万RTされてしまう社会は、“かわいいから”で済むのかと。

漠然とした不安が、そこにはあると。うす気味悪く思う。

 

 ついでなので、毎日なにげない一言で救ってくれる存在がいるのは素晴らしいことだから、みんな自分にとっての自分だけの肯定ペンギンを見つけられるといいですね、といい感じに締めて終えようと思う。

もちろん、そんなもんがいなくたって、やっていかなきゃいけないのは一緒だけどな。

特に意味はありませんが見出しにするとやたら大きくていいね。

 

 ああそうだ、そして。うれしいことがあったなら、いやなことがあるならば、自分の言葉で伝えて欲しいのだ。代弁者ではなく。代弁するつもりがあるのかもわからない、誰かのつくったモノでなく。できる限りの言の葉を、尽くしたさきに伝わるものを、大切にしていきたいのだ。俺は身勝手で、察するのが苦手なので。

 

 追記:肯定ペンギンの初出はハナウタさんだってさ

追記2:今回は“かわいい”が孕む怖さについてフォーカスしたかったのでこうなったんですが、序盤に一瞬ふれた恐ろしさについては以下のツイートが本当にきれいにまとまっているのでぜひご覧ください。

(主に能力と労力の兼ね合いで)言及をぼかしたところへの鋭い指摘です。個人的には、肯定ペンギンはその二つの合わせ技の面があって、より破壊力(拡散力)が増しているのではないか、と思う。

 

 このように書き漏らしは多々あるんですが、今回の文章の流れは途中も言ったように今度書くおっきめな文章を書くための下準備です。ですので、一面に限定したものとしてみてもらえるとありがたいです。自分でつっこめる範囲で怠ける時例に突っ込まれて精神によくないな。反省した。

スクエニの専務のお話が聞けてうれしかった話

 やっと時間ができた。今回は完全にゲームの話です。なんてったって、もう二週間以上前のこと。

 スクウェア・エニックス・ホールディングス専務執行役員こと橋本真司さんの講演を聞く機会に恵まれた。タイトルはまんま「ファイナルファンタジー30周年を振り返る」。30周年なんですよね。終わるはずだった物語が30年。橋本さんを知らない人は

橋本真司 - Wikipediaでも読んでください。あんまり情報がないんですが、Ⅶ以降ほぼすべてにかかわってる人です。ITCイノベーターとしてのゲーム業界からの参加という形なので、企業、事業としてのゲームのお話ですね。

 

 はじめに態度を明確にしておくんですけど、僕はキングダムハーツが大好きです。厨二病は治らない。まあ確かにFF13レベルの神だの云々が生理的に無理って人もわかるけど、俺は大丈夫だ。キングダムハーツはいいぞ。大丈夫、分かり合えなくても気にするな、俺も無理には勧めない、いくぞ。

 

 いくぞとは言ったんですけど別にFF各論とかをするつもりはないんですよ。長いし。そんな暇あったらソーセージレジェンドか大胸筋RPGやります。あ、これスマホの良ゲー(要出典)。頭が悪いのでおすすめです。よし。はい、開幕当初はもちろんあれです、FF15のお話から始まりました。しかしまあ、お察しというか、そもそも場が場だったのでゲームを普段からする人が少なかった。ドラクエをやったことある人って質問でノリノリで手を挙げた方がめちゃくちゃ好印象だった。どうでもいいな。FF15は叩かれてるっていいますが、僕は基本CMやパッケージを見て自分の心で決めるので人の評価は見ることはないんですが、掲示板とかで叩くのってなんか本当にダサいですよね。お前に何がわかるんだ感がすごい。このお前に何がわかるんだ感がすごい2017。それにひきかえ中の人のお話は説得力がありました。以下箇条書きでトピックを。

FF15PS4も売れているという話

 PS4。売れているらしいですよ。確かに日本で話を聞かない割にソフトのラインナップは魅力的だとおもってた。FF15も売れているとのこと。へえ。そうらしいんだよ。つまりその、海外で。日本のコンシューマーゲーム市場は今とっても小さいらしい。そもそも人口に占めるゲーマーの割合が少ない。結構やるってひとも10%程度。対し北米では人口の半分近くがゲームをするとのこと。いや驚いた。なんだろうな、土地がでかいから友達の家にチャリで行けないのかな。ヨーロッパもそれなりにみんなゲームやってるそうです。逆に日本ではスマホゲーム市場がバカみたいに大きい。9700億円、アメリカとほぼ同規模だそうです。人口考えろよおかしいだろ。理由はわからないけど、橋本さんの個人的な印象では日本は通勤時間における何もできなさがすごいそうだ。路線網が複雑で集中しており混雑、短くはない通勤時間にできることがスマホを触ることくらいしかない。一理ある。にしてもやっぱりソシャゲは収益がすごいらしいです。僕は通信環境などの問題もあってソシャゲはやらないんですが、課金の単位があり得ないそうですね。で、話戻ってFF15、売り上げは先月もアメリカだけで700万本突破だそうで。まだまだ売れてるし利益バンバン出てるとのことです。お話を聞く感じ日本は見てないって感じでした。日本国内でみれば騒がれていたとおりなんでしょうがね。国内売り上げという点でAAAタイトルのゲームを見るのはもう遅いのかもしれない。国外の話で思い出した次の話。

・FFの顔がホストなのはなんで

 ありますね、美形すぎやろ問題。や、僕そこまで気にならないんですけどねあれ。だってキャラクターが不細工だったら厳しいでしょう。なんでマリオの鼻はでかいんだみたいな的外れな指摘を感じる。そういうもんなんだと思えばいいじゃんかね。でも面白かった話としては、あれはドラクエとの完全な差別化を狙ったものだということでした。FF6まではぶっちゃけドラクエとFFの区別は外人にはつかなかったらしいんですね。ドット絵だと海外ではみな同じに見えたという。で、FF6は海外で売れなかったらしい。世界的に受け入れてもらうことが橋本さんがFF7にかかわるにあたっての前ディレクターからの宿題だったとのこと。ドラクエは世界の鳥山明がバックについているから。でも国内ではドラクエの圧勝だけれども実際の売り上げではFFの方が上だとのことでした。さっきの国内ゲーマーの少なさの話とかかわってくる。あれでもFF15はだいぶ日本よりで、完全に海外ユーザーを考えると男はみんなゴリマッチョにすべきみたいな話もあったとか。

・国外展開という話

 先ほどもあげたように、欧米での売り上げってふつうに黒字らしいんですよ。任天堂が死んでる中もスクエニは悠々と黒字決算だったからな。で、ゲーム業界にはアジア展開、ひいては中国という最大市場が未開のまま残されているという話題があって(中国ではそういうのが輸入禁止されているので)。ここでどうせめるかみたいなことを仰っていた。あとシンガポールだったか台湾だったかから密輸されてるらしくて統計データがあてにならないというかあわせて考える必要があるとかなんとか。

コンシューマーゲームで収益を上げるとは

 FF15も開発に10年かかっている。10年て。引くわ。今ではある程度の規模のコンシューマーゲームは百億円規模が当然となりつつある。でもソフトはめちゃくちゃ高くはできない。じゃあどこで稼ぐか。やっぱりグッズ化が一番大きいそうです。あとメディアコラボ。FF15もカップヌードルとかとやってたね。あとはブランド力。FF13とルイヴィトンのコラボとか検索するとありますからね。FF7ACとかいうあの映像作品もカンヌまでいってるし。大手は叩かれがちですけど、30年ってやっぱすごいわけで、ちょっと前までスマホアプリで一山あてた若手社長らが最近ちょくちょく面会に来るそうです。そのノウハウというか、精神みたいなのを聞きに。

・携帯ゲーム機の将来

 これは僕が直接質問した。難しいところだそうです。子供に最初に与えるゲームとしての携帯ゲーム需要はまだなくならないとのこと。その点子供、家族向けの市場展開ができている任天堂は強いと。でも橋本さんも2DS には苦笑いしてましたね、次元が上がるのはわかるが、次元が下がる新商品は初めてだと。あれはあれでなんだかんだうまくいってるらしい。子供向けといえば、FFのちびキャラが活躍するやつ、あれは北米ではなかなかヒットしてるらしいです。ユーザーの年齢層が上がりすぎてしまったことはスクエニの課題っぽい。まあやろうとおもえばハードは気にしなくていいのがサードパーティとしての圧倒的強みなんだろうけれども。Vitaはもう、本格的に手が付けられない状態みたいですね…残念すぎる。ソニースマホゲーム向けの子会社を一つ独立させ、そこにVitaとかの開発メンバーが入ってるとのこと。どうなっていくんだろうね。

 

 だいたいこんなもんかな。あと印象に残ったのは全くゲームをやらない女性からの質問でそういう層とどう向き合うのかみたいなのがあって、それに対して東京ガールズコレクションの横ブースで刀剣乱舞のイベントカフェやってて、どっちも満員だったみたいな話をされていた。つまりいわゆるオタク文化はもうどこまでも浸食してきていて境界はないんじゃないかと(これは質問者のかたの言い方が少し挑発的だったのもあった。あとゲームは男の子のやるもの、みたいな意見も述べられていたのに対する返答の意味合いもあった)。

 

 全体としてとても面白かった。よかったです。