ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

頑張るのすら言い訳が必要だからな

やろう。
やりましょう。
気になるものを見て、薦められたことに取り組み、そのうえで更に自分の好きを探そう。

できないことが増えていく。ライフステージの変化と見せかけて、実際は全然そんなことないと思う。

しかしどうしても本が読めないんですとか、薬のせいで起きれないんですとか、そう言われると返す言葉も無いので強い言葉はどんどん使えなくなっていく。
世界は努力を隠す方向に動いている。努力は暴力的だからだ。暴力的なものは怖いし、それにそもそも全然自分の力じゃないものを勘違いしているケースも多いからだ。
だが、努力をしなくていいという世論になっているというのは、その実で分断を産んでいるに過ぎない。
努力をする人間の一部は生まれながらにして努力をするし、一定以上のラインを超えると、そこには信じられない努力をする人間しかいない。
凡人がその頂に達することができないのは構わない。でも頂を見なかったことにしていいと言うのとは違うと思う。努力できない自分を認められない弱さに、向き合わないままではいけない。
黙って笑われる勇気が無いのは、駄目だ。いや、別に努力する人間は下を見ることも無いので、実際は笑われていると思い込んでいるのはやらない人間だけだけど…。
とにかく、やり方次第のやり方の部分を、しっかりやっていこうよ、という話をしないと。しないと自分が狂ってしまう。

一億総精神疾患時代。睡眠薬なんか猫も杓子も飲んでいる。
寝れない、本が読めない、起きれない、ゲームがクリアできない、家事ができない、できないことは個々の疾患と個性に紐づけられて、冒されない聖域として説明がついている。
私たち(健常者)は、彼らに常に末に寄り添い続ける必要がある。何かができない人間をバカにしないことが求められている。本質的に寄り添わなければならない。
それは必要なことだ。人間を、人間として認知し続けるために。人権は守りたい顔をしていないが、守りたい顔をしていないということ忘れてしまうよりは、まだ見つめたほうがいいだろう。心の破綻しない距離で。
それは過酷なことだ。あえて、過酷なことであると言い切ろう。
狂っている人の不安や苦しみ、無い焦燥感や無い孤独と、それをあるものだと心から信じて寄り添おうとする姿勢を持とうとすることの、どちらが苦しいかなんて、比べられるものではない。
ある種の脅迫観念もあると思う。すぐ間違えてしまう。間違えたいと思う。全人類にワンピースを全巻読んでいてほしいと思ってしまう。ワンピースを全巻読んでいない人間がのうのうと息をしていることが信じられない、怖い、理解しがたい、おかしい。
そんなの、変だよ。変な人だ。線引きをしたいと思ってしまう。すぐに逃げてしまう。これを逃げだと思うのはおかしいだろうか?今おれは精神疾患の話を理解しにくいもの一般とごちゃ混ぜにして話した。

俺にはおれのスタンスがあり、それはけっして当然のものでも楽にできることでもない、ということを、己のために書いておこう。
寄り添う必要のないマイノリティに寄り添って自分が狂う必要は一切ない。この辺はマジョリティとして声を大にして言いたいが、できないお前らに寄り添うことのメリットは、万に一つもない。
だとしたらなぜ、関わるのか。やっぱり、それが人間だということだからだとしか言えない。業の肯定、という言葉をこんな場面で使うのは全方位に失礼だろうか。しかし業だろう。
普通に生きるということの異常性は、普通に生きられない人間によって明確になる。ときには、その差を見極めることが、人とは何か、ひいてはグラデーションの中間にいる自分自身を考える契機にもなる。ダブスタへの開き直り。20歳の俺には無かったものかもしれない。
当然マイノリティは怒り狂うべきで、暴力などを用いて徹底的に立ち向かうべきだ。そのなかで、共存だの、妥協だのと言った言葉が生まれてくるのであり、しっかりとマジョリティを腐し続けるべきだ。

ここまで、言い訳を固めた。
何の話か?つまり、御託は良いから好きなことを一個ずつ消化していけという話です。そこに固有の事情なんか関係ない。躁鬱だろうが、バキバキのツーブロックだろうが、同じように扱うべき時がある。
これだけの言い訳をしないと、本を読みたかったら読めよバカ、という一言すら出せない。気を遣っている。
いいですか、これはおれの主観です。


朝起きることができるのは、決して簡単なことではないのだ。
本だって放置していれば放置したままになってしまう。仕事は強制されるから何とかやれている。

それでも、本を読むのだ。


ただでさえ普通に生きていても徐々に気力がなくなっていくアラサー。気軽にご飯を食べすぎることもできやしない。
労働は苦しい。残業は嫌だし、時間が純粋に削られていく。それでもだよ。やろう。やりましょう。本を読もう。漫画を読もう。
知らない世界へ出かけよう。
趣味というのは休みではない。ゆっくり休んで、好きなことでもして。という時、果たしてゲームが仕事より疲れないかというと微妙だろう。
好きなことをやるにも体力がいる、こんなことすらわかっていない人も多いと思う。
それでもやろう。できるだろ?やってみよう。やりたいことがたまっていて何もできない?まずは一番上に積んだそれを、やってみよう。


自分の管理がへたで、運動神経が悪いと、体力の要る活動はやりにくい。でもやろう。運動神経というのは、呼吸の仕方や、姿勢の話だ。体調が悪くなるタイミングを把握しろ。
自分が右側に体重をかけて歩くなら、気持ち左にかしいでいるくらいの心で歩いてみよう。けっこうこのあたりがダメな人は多く、自分のバランスが悪い時に「バランスが悪いんだ!」と自覚すれば治るかの如く考えていることが多い。
実際のところ、自覚はたいして役に立たない。結果というか、行動の後ろから初めて過去の自覚というのはついて来ることが多い。というか、自覚と同時にさまざまなことを治せる人間は全般的にバランスが良いやつだろう。
やろう。自分にとってどの出力がどれだけ続けば倒れるのか、それを感覚で把握できないなら活動を記録しろ。記録が上手にできないなら、できる仕方を考えろ。やる気で何かができるのは天才だけだ。客観的に、機械的に、分析しろ。

それをしないのを、努力が足りてないというんだ。

できないならやり口を考えろ。考えろ、考えろ、考えろ、考えろ。
これでいいと割り切る、これ以上はダメだを把握するのは、才能ではない。努力が足りていないだけだ。これは伸ばせるものだ。
自分一人ではできないなら誰かに言って管理してもらえ!褒めてもらえ!叱ってもらえ!環境の整備は、まぎれもない工夫だ。
考え抜いて、相談をして、全力でやれ。気合で何かができるのは天才だけだ。何かができないと思ったことがあるのなら、あなたはすでに天才ではない。そして天才でないのであれば、前を向ける余地がある。

深呼吸をしろ。

趣味?趣味というのは、全力でやらないとできなくなるものだ。人は社会的な生き物だから、強制されずに、誰かを介さずに何かをすることは本来極めて難しいのだ。だから、真剣に、適切な努力をする必要がある。
したほうがいい?しなければいけない。なんとなくで楽しめるほど、趣味は簡単なものではない。そうしないと、一生ツイッターをだらだら見ているだけになる。それが嫌だと思うなら、自分にとっての取り組み方を考えないといけない。
考えないといけないんだよ。

多くの人の何かができなくなった、は、諦めと納得だろう。やりたいけどできなかった、それなら本当にやりたかったわけではないんだろう、出来なくても仕方ないんだろう。そういう大人の妥協だろう。
本当にそうか?本当の本当に、そう信じて、確信をもってやらなかったのかよ。

何かに取り組んだ結果が無い人間は、できないことへの諦めが早い。信じろ。できないのはやり方が悪い。信じろ。いつだってお前は、お前が思っているよりすごい。小さな、小さな一歩から進め。

大丈夫、大丈夫だ。一歩足が出たら、十歩足を出すだけだ。十歩足を出せたなら、遥か先まで行ける。


必ず行ける。

 

 

 

 

多様性チャレンジ_20221203

これは備忘録なので、行替えするごとに、話題は完全に飛躍する。

 

違和感がある人と話すということ。

ズレている人間はズレている、それに気づくのがおそらく自分は早く、しかしそれを避けないためにズレている人間と関わることが多い。普通の人間は、普通に正しいので、息苦しい。安心しないために常に変な人間と話し続けている。安心?諦念だ。諦念したくない、この世界は変だという感覚を忘れたくない。

 


金曜って実質土曜だから仕事できなくてもいいよね、とか、ふわふわのネコちゃんのことだけ考えていようよ、と言った言説は、こんなことはできないと多くの人がわかっているから、支持される。
わあ本当にその通りだ!なんて言っている人間はやはり、どこか、おかしい。
というか、こんなことはできない、と思うことを、何かいけないことだったり、恐ろしいことだと思っているのではないか、という気がする。難しいことは考えないで、ふわふわのネコちゃんのことだけ考えようよ、というのは、そうできたらいいのにね、であって、そうできたらいいのにね、はそうあるべき、ではない。そして、このような考え方をやたらに肯定したり、唆すような行為は、寄り添うようで突き放しているので、苦手だ。
沈むように、溶けていくように、というやつだ。優しくて、何も生まない、幼稚さの搾取に見える。

 

 

人権について4秒に7回くらい考えている。

 


社会保障というのは本当によくできている。人権というのは、心では絶対に理解できない。本当の弱者は、助けたくなるような顔をしていないから、制度で機械的に運用しないといけない。
それはそれ(それをまず、強く理解することが大前提なんだけど)として、どんな顔をしているか知るべきだというのは、ミーハーな好奇心として揶揄されたくはない。
両者は表裏一体で、どちらが欠けても理解には至らないと思う。どちらかを疎かにするのは、差別への加担だと思うが、もちろん、コスパは悪いし不快な人は耐えがたいので、一切やる必要はない。差別を許さないみたいのは、まあ、趣味の範囲でやるのがいい。

 

 

カタールに出稼ぎにきた人間が、たかだか1ヵ月の球蹴り大会のために数百人バタバタと死んでいようが、そんなのは僕たちの人生に何ら影響を与えない、クソどうでもいい、つまらないことだという事実を、まずは認めないといけない。

 

 

大森晴子は卒業しましたと言っていた後輩のこと、愛しすぎて笑ってしまった。

 


冷笑をやめろ、おおむね同意するけれど、それでも冷笑をやってしまうことについて、けっこう落ち込んでいたこともあるんだけど、前向きに自己弁護できるようになってきた。
冷笑を完全にやめられる人間、それは冷笑すらできない人間を切り捨てる側の人間だと思う。冷笑をやめろ、というのは完全に自分と近しい感性の人間としか付き合わないという宣言に聞こえる。絶対に理解できない他者に対して、アイロニーだけが正気を保つ手段になりえる。というか、冷笑という言葉の持つ範囲が大きい、というのはありますよね。近年流行りの陰湿金融文学なんてのは、やめろとしか思わないが、あれを持て囃す世界なんて馬鹿にしないとやっていけないだろうが。

 


まっ昼間のガストで「セックス完全に理解しました!」と叫んでいたフォロワーが3年くらいしてその異常性を笑えるようになったの、すごく嬉しかった。
人は自分自身で勝手に救われるし、昔よりずっと近い距離で話せるようになった気がした。

 

 

「川は海に向かって流れる」という漫画を読みました。良かった。最近は話題になる漫画って多くがマイノリティの主人公なので、無意識にすごく傷ついていたみたいだ。色々複雑な事情があるんだけど、結局は男が女を好きになる話だったので自然な気持ちで読めた。ポリコレ疲れというと感じが悪いけど、自分でもちょっと驚いてしまった。
俺は物語に対するスタンスが遠いので、特に個にズームインするラブストーリーってどうしても、あーうるせ~、セックスしたら後で教えてくれ~みたいなテンションになってしまう。内面について見開き2ページ以上説明されるとオッケー!!!じゃあまた!ってなっちゃうことに気づいた。「川は〜」は作者のキャラへの距離感がちょうどよく遠くて、助かった。

 

 

努力は何も偉くない。生きているだけで偉いわけがない。
ただ努力している人間、いや、本当にすごい人間は努力を努力と認識していないが、つまり何かをやろうとしている人間は、面白い。
そして、何かをやろうとしている人間と同じくらい、何かをやらずに生きてしまっている人間も面白い。
いや、上下で考えてはいけなくて、外れたものが面白いと言える。

 

 

 

外れたものでも生きていて、それを包摂して黙って回る世界が変で、面白いのだ。

 

多様性チャレンジ_20220921

 

他人と喋ることで、得られるものは多い。ありがたいことだ。本当に。

できるだけそのときの感覚を正直に書いて、定期的にアウトプットできたらいいな~とおもう。

 

ワンピースの映画を観た

 

スピンオフ映画特有の全員に見せ場を作る演出や、プロット上都合のいい能力を持つ端役が急に出てくるやつとか苦手なんだけど、それを余りあってAdoが強いのと、ウタの演技がメチャクチャよかった。

 

端的に言うとウタがエッチだったので全部オッケーになった。

 

ワンピースFilmREDにはワンピースをほとんど読んでいない人間も観に来ていて、そういう人たちは何を感じるんだろうと思った。そこから原作を読む人が一人でもいれば成功なのかもしれないし、そもそも原作を読んでいない人が映画なら観に行こうと思うような力を持っている時点で作品が勝っているなーって思った。

 

知り合いに序の序しか読んでなくて何一つわかっていないままカイドウ以降の本誌を追ってツイッターの漫画オタクの言を読むのを楽しいと言い放つ狂人がいるんだけど、本当に怖い。少なくない層なのかもしれないけれど、俺は自分の友達にそのような人間が極めて少ないので怖くて怖くて仕方がない。

 

漫画を途中から読むとか、最新刊だけ買うとか全然わからないけど、これは高速化する世界で普遍化していくようにも思う。
物語を摂取することについて、大きな認識の相違がある。非常に断片的になんとなく脳に刺激を与えるためのものとして消費する層がいる。洋楽のサビだけ聴くとかに近い?バラエティ番組と同じ速度感で積み重ねられた世界を消費するという概念がある。

俺はそれを殺人と同等の、尊厳への冒涜だと強く思うけれど、この感覚はおかしいのだろうか。今こうやって書いていて初めて自覚したけれど、俺はこれを犯罪だと認識しているみたいで、だからこんなにもやもやするんだね。

 

しかし、そういう形でしか物語と向き合えない層もあるということに、思いを馳せる必要もある。(※1)文章が読める人は文章が読めないことに理解が及ばない。そして文章が読めることと物語が読めることにも、小さくて深い谷がある。
最近になって、国語の授業で論説文と物語文が分けられていることには結構意味があるのかもなと思った。俺にとっては水を飲むかコーヒーを飲むかの違いでしかなくても、カフェインが無理な人には一方は毒薬だ。

また、強度のある作品は切り取られた断片ですら十分なパワーを持つこともある。多くの、本当に多くの人が、煉獄さんと炭治郎のことしか名前知らないのに鬼滅は素晴らしい作品だと確信に満ちた口調で言っている。彼らは炭治郎が生殺与奪の権を誰に握らせようとしたかすら、知らない。

 

物語を読まずに十分生きていける人。物語を読めないまま現実ですり減る人。
最近はこれを考えていて、体調が悪かった。

 

俺は本もゲームも映画も漫画も、どの媒体であれ物語を理解し、楽しめる(と思う)
敢えて言えば邦画は苦手だけど食べれないこともないし味付け次第ではおいしくも感じる。画面酔いもしないから3Dゲームを何時間もやれる。
恵まれている。それはそうとしてできればそういう人としか付き合いたくない。できることなら。全く、ままならない。


(※1)…もちろん、物語が読めても途中からしか読まない人もいる。俺たちは誰一人分かり合うことはできない。

 

異国日記の話を人とした

 

上手な漫画だーと思い、思った。んだけど、たまたま複数人と意見を交わせる機会があってとてもためになった。


俺は作品に対して、「私の言いたかったことを代弁してくれて感動した、これは私のための物語だ」というタイプの受け入れ方が、あんまり無いな、と思った。

なんなら上手いこと言われるとムカつくかもしれない。それは俺が自分で見つけたかった言葉だと思うかもしれない。テスト勉強で人のノートを見ることは欠片も気にしなかったのに、自分の感情、感性を他者に説明されると、たとえそれが当たっていたとしてもまず先に悔しさが先行するような気がする。

あるいは、孤独に興味が無いのかもしれない。槇尾さんの言葉は常時そうだよね、としか思わなかったし、他の人々の気づきは他の人々の気づきでしかなくて、ああ、わかった。俺はあの手の作品に対して、他人の私生活をのぞき見しているような、悪いことをしているような気分の悪さがあるのだ。

 

さらに言えば、内心を常に詩的な言葉で独白している奴と仲良くなりたくない、という気持ちもちょっとあるかもしれない。
このように俺は内省が得意だけど、内省って時間のある暇人のやる高等遊戯だろみたいなコンプレックスがある。本当にすごい人って、ただ淡々とdoだけを進めていく印象がありませんか?あるんだよ。自分がそう思うからこそ、作品における現実での動きと内心描写のバランスは結構気になるのかも。


葬送のフリーレンが好きなのは、お互いに確かめたり、自分の中で言葉で納得させないからかもしれない。

星野源の「意味なんてないさ暮らしがあるだけ」というフレーズも妙に好きなんだけど、このあたりの感情をまとめて言ってくれているような気がする。不思議なことに歌だと自分もこういう共感は働くのだ。キャラクターへの寄り添い方が違うのだろうと思う。キャラクターが何かを言った場合、その背後の作者と、物語全体の方向性について絶対に意識してしまうから、「このキャラって私だ」というタイプの読み方をしたことが一度もない。

また、感情に名前をつけるのはダサいと思う一方で、説明のつかない感情、みたいなものも正直よくわかっていない。
自分の心に対して、言葉にしようという努力を他人はそんなにしないんだよ、という話だったら、そうなのかもしれない。俺は自分が思っている以上に自分の心に興味津々で、たまたま比較的違和感なく説明できていることが多いのかもしれない。純粋に鈍感なのかもしれない。

 

槇尾さんがヘテロの女性だから笠松くんを許せるんだよという話についてはまた今度しようね。

 

 

筋が通せないやつを、許したいという難しさの話

 

表題の通りだよ。以上。

 

 

最近は労働をして、ネトフリで映画を観て、物語を考えて書いてみるみたいな日々を過ごしています。ゲーム?まあお前よりはしてるよ。たぶん。

 

 これは労働がどんどん忙しくなってくると人にやさしくできなくなっていくぜという話です。つらい話だ。

 

私も一般企業末端構成員として数年働き、労働への解像度も上がってきました。


ここでいう忙しくなってくるというのは、Aの仕事が徹夜しないとマズイとかいうことではなくて、AとBとCの仕事をそれぞれaさんとbさんとcさんに話していて、dの部署とも調整しないといけないけどeさんに先に話をしたほうがいいとかそういうのがどんどん立て込むということです。
このあたりが業種にもよると思いますがバイトと正社員の最大の違いという気がしますね。
少なくとも自分は学生の時には実感として認識できていなかったと思います。


忙しいが自分だけの忙しいでいいのか、他人を巻き込むのか、つまるところ責任というやつです。
学生のバイト7連勤の辛さとは軸を異にしますね。

 

自分のミスが、全然関係ない遥かかなたの誰かに迷惑をかけるというのは考えるだに凄いことだけど、組織労働というのはそれを構造として孕んでいる。「筋を通せ」と上司がキレる、とか言ってグダグダ泣いてるやつがカスだというのは、仕事をするというのはそもそも筋を通すということだからです。つらい話だ。

 

 こうして働いているとやはり、会社労働というのは本質的に人間の基礎スペックに対する信頼から生まれているというのがよくわかります。期日を守る、言ったことをやる、言われたことを忘れない、急に会社を休まない、それは能力から度外視されたところで、前提となっている。つらい話だ。
理解度とか、発展的なスキルは当然その後で、だから”普通”のことができないやつにできる仕事は無い。Fucking kidding。もちろんあるところにはあるが、外れ値みたいな話をしても仕方ないだろ。当然外れ値の人たちはそれを探さなきゃいけないわけだけど、そんなの俺の知ったことではないよ。

 

筋を通せない人間は人間ではないのだから、当然に処されるべきで、その価値観を内面化しないと自分の仕事が回らない。内面化しすぎるともう、それができない人間のことを許せなくなってしまう。


いいですか、主観です。どこで線を引くかという話をしている。

 


 労働問題とか社会の仕組みに無職が何かを言っていても世間がすべて無視しているのは、そういうことなんだろう。

たとえば僕は自分が浪人とか許してもらえない環境だったというのもあるんですが、
何留もして学部一つ卒業できないのにインターネットのレスバは年表作れるほど詳しいとか、実家の太い配偶者の下で無限の無職生活をエンジョイとか、朝起きれなくて無限に会社に遅刻するやつとかそういうのに厳しい気持ちはある。仕方ない?知らねえよ。

 

知らねえんだよ。お前の事情なんか。

 

でも知らねえよ、を知ろうとするというのが、優しくあるということだと思っている。提出物が出せない、春は起きれない、鬱病で一年何もできなかった。そういう事情を知る、知って、自分の感覚を宥め、その違いに理解を示す。理解して接することで自分の感覚を拡張させて、まあいいかという気持ちになる。それは諦めや拒絶とよく似ていて、でも違うのだ。なんというか、他人に優しくあろうとするというのは、自分の許せなさを許さないということだと思う。そもそもさっきの例だと高卒の人からみたら大学とか行って親のすねをかじってる時点でだいぶ俺も許されがたい存在なんですよね。

おれがなんとなくムカついてしまうのも、それが理性的は間違っていることも、きっちり受け止めて、腹落ちするまで誠実に向き合う努力に、意味がないとは思いたくないのだ。


これを諦めや拒絶と同一視して、自分はそういうのが得意だと言ってる人もよくいるけど、断じて違う。わからない人にはわからないけど、わかろうとしている人間にはわかる。諦めや拒絶は結果的に、出力されるアウトプットのフォーマットが他人を許している形に近いだけだ。低コストで広くカバーできるぶん、得てして優しいねと人に言われたりしていて、本人が一番無自覚だったりする。

 

優しくあろうとするのは、主体的で自覚的な、時に攻撃的でエネルギーが必要な行為だ。

 

 でもそんなこと毎回やってる暇ないし、どこかで人は物事を一般化させないと脳が追い付かなくなってしまう。
今のスタンスは、たとえば上の例なら、資本があるならもう”勝ち”なんだから何をやってもいいよなあ、という感じで、個々の理解までは億劫だからできないけど、自分の中でそれに目くじら立てないようにガワを許す方向にもっていって整合を取っていて。(※1)
でもこれってなんか本質的に資本主義に膝を屈していることになりませんか?というか、これって”諦め”ですよね?つらい話だ。これすごくつらいんですけど。一貫した主張ができていないじゃん。


うるせえよ。人間が一貫した態度であるべきというのは発達に問題がある人々の幻想です。


一個人というより、たぶん集としての前提意識が一貫すべきであるというのが組織労働においては大切なんだろうな。
つまりこれが、「筋を通せ」ということです。


俺に異常性があるとすれば、社会の知らねえよ、をエミュレートしながら、知らねえよで済ませたくないと思っていることなんだろう。
その自我ですら、組織労働の前に毎日おろし金で引きちぎられているから、散逸する前に文章にしているのだろう。


早く自分の理解できない人間のことをバカにしてえよ、普通こうだろ!ってでかい声で叫びたいよ。そういう種族のフィクションの存在だと思って、きっと喋る言葉も違って、肌は青くて、無性生殖で暴力的な存在なんだと思っていたいよ。早く諦めたいんだよ、なあ?

 


そうじゃないから、困ってしまう。

困ってしまうんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※1…何一つ理由なく、普通ができないという可能性から、目を背けてはいけない。ほら、なにも許せないだろ?

 

 

 

 

 

 

 

たとえ1年に1冊でも、新しい本を読むという話

 

 見返している瞬間が増えた。
過去に触れたコンテンツを、再び見ている時間が増えた。気がする。


 何度見ても色あせない傑作というものは存在する。
ピンポンの漫画原作は全シーン頭で再生できるくらい読み込んでる。でもそれは、もっと能動的な気持ちだった気がするのだ。

なんか、どこからか惰性になっている。
理解する速度が落ちたのか?ノスタルジックな感傷に浸りたすぎるのか?
今年は新しいPCを買ってXboxのサブスクに入ったりして、純粋な手の届く範囲は増えたように思う。なのにどうしてか、気づくとヒロアカのアニメを見直したり、スプラトゥーンしたりしている。

 老化ってやつか?もうずっとひとりだ。俺と同じような社会/人間関係で、同じ熱量でゲームやってマンガ読んでるやつなんて周りにはとうにいなくなってしまった。それは構わない。最初の最初に決めたことだから何の問題もない。後悔は一度もしたことがないし、俺が一生かかってもこの世の本を読みつくせないとしても、それが俺が本を読まなくていい理由には一切ならない。

 

 今働いて老後にゆっくり好きなことをやる?笑わせるな。


今でさえろくに好きなものを見つけられない人間が、さらに体力の衰えた先で新しいものに能動的に取り組めるわけがないだろう。
結局昔好きだったものの派生でしか、凡人は物事に手を出すきっかけなんか生まれないのだ。もちろんあなたが天才なら、何の問題もない。馬鹿にしたまえよ。あるいは君が持っているバカ一覧.xlsxみたいなものにアーカイブ化してくれてもかまわない。

そうなんですよ~年を取ると新しいコンテンツに向き合うのが大変で~みたいなクソしょうもない共感なんか要らなくて、じゃあ今年はどうやってそれと立ち向かうかという一年だったという話を、する。いいですか、主観です。

 

 なんであれ、好きなことを諦めない、そういう話です。


アンテナは常に張らないといけない。世界はその美しさをわざわざ教えてくれるほどやさしくはない。見逃しているのはいつだって自分だ。
わかっている、わかっているからこそ、過去のコンテンツをなんとなく見返しているときへの焦燥感がすごい。

しかし焦燥感というのはこの手の話において最大の天敵だ。焦って何かがうまくいくなら、世の中のことは大体解決している。


リピートアフターミー、困難は分割せよ。
まずは問題を物理的(肉体的)、心理的側面に分割しましょう。


 物理的な話をしよう。実は、今回の問題を解決する現実的な手段はこれだと思う。
実に単純な話だ。

簡単にリピートできるのが良くない。
性能のいいPCと回線で、簡単にNETFLIXが開けるのがいけない。サブスクでいつでもゲームができると思うのがいけない。
思えば図書館で借りた本は、期日までに読まなくちゃいけなかったから頑張っていたような気もする。
大人になると(多くの場合は)学生時代よりはお金に余裕ができる。でもコンテンツの摂取はお金ではなく、本質的に時間との引き換えなのだから、買った本を積んでいても何の言い訳にもならない。買うのも趣味の一環ではあるだろうから、そのこと自体には問題がない。読まずとも何の問題もない、あるいは読めていないことよりも買っていないことのほうが問題だというのであればそれはそれでいいんです。


だけどもし、買っているのに読めていないという状態に一片でも後悔があるなら買わないほうがいい。
だいたいやったかな~と思ったらサブスクなんか解約するのも手だ。めちゃくちゃ雑な話をすると、スマホから遠ざかるだけであなたの読書効率は跳ね上がる。
いつでも見返せるのは豊かさであり、よほど強い精神を持たないと豊かさの中で新しいなにかを求めることはできない。PCを捨て、本棚を燃やせば過去は振り返ることは無いだろう。同時に、なかなか実践できることでもないだろうね。

 とはいえ、スマホを置いて喫茶店に本を持っていけば流石に本を読めるだろ。環境を物理的に変えることは手軽な割に効果抜群だ。分割、とか言ったけど、結局外的要因と内的要因には関連があるので、心のほうもそっちについていく面がある。まあ、アプローチとしてそういう見方もあるという話だ。

 


 さて、次は心理的側面だ。

心理的な障壁という話をすると、きっと、なんとなく見返すという行為が、新規のコンテンツに触れるより難易度が低いということがポイントになると思う。
そんな馬鹿な。中高生のころであれば一笑に付していたであろう。あのときの彼は一度読んだものを再び読むのは馬鹿のやることだと思っていた。明日にも死ぬ可能性があるというのに、そんな時間はないと。読み返すなら、何か発見がないと嘘だ、それに足る新たな刺激が必要だ、そう思っていたに違いない。

 しかし少年、これだけコンテンツを履修してくれば、ストーリーの展開だなんだはみんな似たり寄ったりではないか、かつて見たマスターピースを見て等価、場合によってはそれ以上の感動を摂取したほうがお手軽なんじゃないか?読み返すというのは実際大きな意味を持つこともある。

小さな彼はうるせえ読んでみなきゃわからねえだろうが!と叫び、僕はそれが簡単にできるほど今の僕に時間はないんだよと言い返す。
 そして実際、積み重ねた分だけ入り口は閉じていく。あれとこれって同じ展開だよね。このキャラってあの作品のあのキャラと似てない?ブログの文章と死体ってどっちも燃えるゴミの同じ袋に入れていいよね?

 

 新鮮さは失われていく。思考は硬直化していく。ちっちゃいとき、いただろ、知らねえ昔の漫画の話とかするオッサン。あのオッサンも悪気はなかった、ただ彼には、今の漫画を読む時間と気力が足りなかっただけだ。でも、ダメなんだよ。オッサンはもう漫画の話をできるオッサンではなかった。かつて漫画を読んでいた謎のオッサンでしかなかった。
僕たちはどんどん年を取り、体力と気力を確定的に衰えさせながら、若いままではいられないということに誠実に向き合わないといけない。無理をしろなんて話はしていない。年相応というものはあり、経験と知識が感性に確かな深みを与えてくれるのは間違いない。

 

だけど、好奇心を経験で殺したとき、僕たちは一つ老いてしまうのだと思う。

 

 面白そうだけど面倒くさいと思ったとき心臓からは血が流れ、きっとあれと同じ話だとか思い込んで動くことをやめたとき、自分の手で首を切ろうとしているのだ。僕たちは忙しいから、本当は自分が血を流していることに気づかない。自分の手で殺した好奇心を抱えて泣きながら、仕事や年や、他人のせいにしてしまう。

 

仕方ないだろう?

 

仕方ないさ。誰を責められる話じゃない。いつか涙は乾いてしまい、好奇心なんか最初からいなかったと思い込む。だからここは地獄なんだ。ずっと言っているだろう。
俺は、この地獄でみっともなくもがくための話をしているんだ。

 

小さく、小さく。小さな一歩から進め。

心理的難易度を下げる第一歩はここにある。まずはそうだな、これって〇〇と同じじゃん、と言うのをやめよう。

俺は、俺が見捨てようとしている俺を、救わなければいけないのだから。

 


 結局のところ何が言いたかったかというと、老化だとか感性の劣化だとか、労働による精神の疲弊だとか、そんなものは何一つ、人が物語を摂取するための足かせにしていいものではないということだ。
 そしてそれでも歩み続けるのは大変だということ自体を、軽視してはいけないということだ。できないこともいっぱいある。それでもできることは全部やろう。なんとなく好きだったことを捨てるのはやめよう。できれば、もっと好きなことを増やそう。

 

なんだか明るいふんわりしたことを言っているけれど、ここで意地を張り続けるのは全然簡単じゃないと、改めて実感した一年だった。無様にしがみついているというのがせいぜいだろう。最悪だ。大変だ。誰も助けてくれないんだ。でも好きなものとはそういうものだ。そして諦めない限りどこかで、誰かと繋がっているのだ。

 


いつか必ず、ゲームをしない年が来るだろう。本をまったく読めない年が来るだろう。
そのときに、あのときならできたと、後悔をしたくないんだ。

だからこれは備忘録だ。

言い訳をしない人生を。ここにあったと言うための。

そのための、備忘録だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

竿竹で星を打てると、氷を叩いて火を求められると

 

 秋になる。夏の話をずっとしている。いや、夏なんて季節があったのかさえすぐにわからなくなってしまう。たまたま少し暑い日に、そういえば少し前にもこんな日があったような、くらいの気持ちになって、それを思い出すこともできずにベッドに倒れ伏すような日々を送っている。ずっと春のような気持ちで夏を越え……春?冬の間違いなんじゃないのか?’お前はその間、自分の感性を変えようとしたことがあったのか?’
さあ。それを知りたくて書いてんだよ。


 数か月前の話だ。反ワクチン派の人とSNSで出会ってしまい、いろいろと話した。
イベルメクチンは効果があるとは言えない。もちろん、効果が無いかどうかはまだわからない。
ワクチン打って死ぬ人も報道されたりしているが、治験の数が何百万人といて、たくさんの専門家が認めたエビデンスがある。交通事故にあうのと大して変わらんなら、なんもしないでかかるよりは打っといたほうがいい。何十年後かに実は…みたいな話が出てくると怖い、くらいの話になってくると揺らいでくるけど、少なくとも今コロナに対して確実に効果があるものであるのは事実だ。

まあ誰とも一切会話せず家から一歩も出ないなら別になにしようが構わないと思うし、若者の重症化がどうとか言ったとこで大して死んでないし、全般的にジジイの余命が学生の数年間に匹敵する輝きをもつとは思ってないし、近所の焼き鳥屋が潰れたとき自粛とかしてる奴は全員クソだと思った。そもそも病弱自慢をすると38℃は稼働可能範囲だし、なんかインフルエンザかかったことないみたいなそれだけで何百万円分人生得してるくせに自分の幸運に無自覚な人たちが比較的平等に死を意識して怯えてるのウケるから全然コロナやっててくれみたいな屈折した気持ちもある。(これは豆なんですが、普段健康な奴らって意外とちょっとの熱ですぐ動けなくなるんすよ、不良状態の身体の動かし方には”コツ”があるから(みっともないのでもうこの話はしません))


 だから、そこから先は信条の問題だと思うんですよ。「俺は絶対かからねえ」って思うならワクチン打たないのも仕方ないし、高齢の親が家にいて、リスクを取りたくないなら自粛をしっかりするのもそれは頑張らなきゃねという話だからよくて、ここまでのリスクは許容する、という線引きができてるなら自由にやればいい。


 問題は、狂った知識で狂った行動になってる場合で。自粛して!って言いながらウレタンマスクしてる学生とか、家族を心底心配しながら、ワクチンだけは受けないように啓蒙活動を行ってる主婦とか、そういうのにどう向き合うのが正解なんだ。

正解は「向き合わない」です。間違いない。理解の及ばない倫理を振りかざす人間にまじめに取り合っていたら自分の気が狂うから。

向き合わないほうがいい。間違った知識を信奉している狂信者とは。向き合わないほうがいい。間違った知識にアクセスしてしまうような情弱とは。向き合わないほうがいい。大半の人間が疑問も持たず取り組んでる事柄に違和感を覚えるような人間とは。皆ができることができない人間とは。自分とは違う人間とは。

 

こうして僕たちはまた、盲目になっていく。欠けた視野を正しい世界と呼んで、存在しない普通を作り出す。

さすがにオリンピック廃止になるでしょって言ってたみんな、元気にしているか。俺のことです。元気だよ。まあオリンピックはさすがに国が悪いだろうけどさあ。
政治がおかしいっていうのはみんな政治はおかしいと思っているので簡単で、頭のおかしいとしか思えない政策をじゃあなんで人が支持しているのかという話になると、途端に目を背けだす。


 夫婦で経営してる定食屋が、命よりも大切な店を売り払うほど追い込まれて、これは誰かの陰謀に巻き込まれているのではないかと"真実"に辿り着くことを誰が責められる。

ふだん息子のお弁当や家族の幸せをぽつぽつと投稿するようなやわらかな主婦アカウントが、ワクチンに関してだけ異常な理解をしていたんだ。やんわりと公的機関の情報にも目を向けてはとオブラート5重くらいにして伝えたら、「考え方は人それぞれですもんね」と返ってきたんだ。悲しかったのは彼女が、「自分の考えを無理に人に押し付けたりしてはいけないし、無知な人を頭ごなしに否定したり、バカにしたりしてはいけない」とわかっている、至って思いやりのある誠実な方だったであろうことが伝わったからだ。誰が責められるよ。

 

 誰が責められるんだよ。

 

 人が努力して身につけた価値感をたとえその努力の方向性がおかしかったとして、それはですね(笑)と鼻で笑いながら否定することの、どこに正義がある。誤った知識を土台にした認知のゆがみに対して、勉強不足とか、ちゃんと調べればわかるはずとかいうのが、どれほど傲慢な指摘なのか、そういう話をしている。価値観のアップデート、本題としてはそう言い換えてもいい。価値観のアップデートという言葉は実現不可能という意味の慣用句としてしか使ったことは無いけれど、タイトルとしてはそのほうがわかりやすかったかもしれない。

でも俺は、氷を叩いて火を求めることを、それがどんなに愚かな行為だとしても、馬鹿にしたくないんだ。

 

この話は、これで終わりだ。

 

 

Ex:余談


 人に話を聞いてもらうにはどうすればいいんだろう。人の話を聞けるようになるには、どうすればいいんだろう。
どうすればもっと優しくなれるんだろう。
ふだん僕たちは権威のある言葉を聞いて、親しい人々の言葉を聞いて、自分の考えを巡らせている。実在する権威のことを信じられないなら、隣にいる人の言うことを信じられなくなってしまったら、どこまで行けばいいんだろう。

ここに至ってすらいつものように僕は、物語を信じている。幼稚なまでに信じている。僕の手が届くきっかけがそこにしかないからだ。もしも僕が、誰かにとって優しい人間ならば、それはこの世界に物語があったからだからだ。何が呪いだ。これは俺に与えられた祝福だ。縋るべきよすがだ。

問題を解決しない無駄な雑談が、今この現実と遠く離れた世界の危機が、僕らとよく似た、どこにもいない人たちが織りなす物語が、心のどこかに入り込んで隙間を広げる可能性を信じてやまない。まったく関係のない言葉が、ふいに狭まった視野に疑問を投げかけるんだ。嘘の世界の物語だから、本当はみんな同じ人間の話だとわかるんだ。その奇跡を願ってやまない。

 

 ときに、どこにも行けない人のために物語は存在することがある。

遠く遠く、ここではないどこかで、その言葉を信じなくても自分が脅かされることのない場所で、誰かの声を聴いて、景色に触れる、きっとその瞬間のために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

RTAinJapanが面白かった話を、恥をしのんでやります

RTAinJapanが面白かったという話

 

Ⅰ 

 ふだん自分が実況動画を見ることは少ない。
ここで皆無だと言えると論旨に迫力がでてくるのだけれど、悲しいかな、
ホラーゲームは怖くてできないので見ています。
既プレイのゲームを他人が上手くやってる動画とか見てしまう。

友達の家でゲームやるの見てるときの感覚を、拡張した感じだろうか。スパチャとか、あるじゃんそういうの。
まずは先に謝らないといけない。
あれ全く楽しくなかったんだけど、楽しい人もかなり多いということをハタチ過ぎるくらいまでわかっていなかったんですよ。
で、さらに言うとラジオ的な感覚で聞いている、見ている人も多いということで、そういうことへの理解が最近まで全くなかった。面白そうなゲームの動画を見る=自分もやりたいから見る、もしくはハードが無いから仕方なく動画を見る、だと信じこんでいました。理解の無いオタクくんだった。
 
おまえら、ゲームしたい訳じゃないのな。
 
 バーチャルYouTuberがおれがやろうと思ったゲームをへったくそな操作とつまんねえ喋りででチンタラプレイしているあいだに金が入っていく構造がマジで全くわかっていなかった。そこじゃなかったんだな。いや、そこじゃないことにはずっと気づいていたんだけど、それでいいんだということへの抵抗感がずっとあった。鉄オタには悪いがおれは人生で一度も鉄道に対してかっこいいという感情を抱いたことはないし、交通手段以上の価値を見いだしたことがない。そういうことだろ。ゲーム実況配信が好きな人間は別にゲームが好きなわけでも、プレイしたいわけでもないという事実を、受け入れられていなかっただけだ。

 やろうと思えばファスト映画的な方向性で買ってもないゲームのネタバレだけ享受するな!みたいな話もできるけど、さっきも言った通り僕もホラーゲームは実況見てしまうのでダメだった。
それにおそらく、いや絶対に実況配信の影響で売り上げがあがるというのはあるはずで、実況しか見ない人間の裏に実際に買う人間も山ほどいるんだろうと思う。

 Youtuberは個人の魅力をどれほど売り込めるかだ。
動画と、個人体験と、その共有という面で、ビデオゲームは親和性が高かった。いいんだ。
うまい棒が本当に好きな人間は、きっとうまい棒100本買って食わずに捨ててるやつのことを殺したいほど憎んでいたはずだ。そういうことだろ。
ゲームをだしにされるのが本質的に不快だ。プレイしないで知った気になる行為も、動画からの考察厨も、はっきり言って狂っていると思っている。でも違うんだろ。
本を装丁で買うのも、駅の写真を撮るために鉄道に乗るのも、全部おかしな趣味なんかじゃない。
「Detroit: Become Human」はビルの上で鳴り響く風音こそが解放の象徴であり、「ラストオブアスⅡ」は呼吸音と明滅する廊下の光が、けっして泣くことを許さないのだ。

でも、興味のない人間もいるんだ。画面上で動くキャラと、喋っているプレイヤーが視覚と聴覚に適度な刺激を与えてくれる、それをずっと好む人間だっているんだ。
サッカーをやらなくてもサッカー観戦が好きな人なんて星の数ほどいるんだ。たまたまお前が力を入れてやってるものがゲームだっただけだ。

お前が、お前の趣味を人に押し付けるな。
そういうことの、延長にすぎないとわかっている。
だいぶ前から知っていたんだ。
だけどなんだかすごく寂しいんだ。
それだけなんだ。
 

 だから、RTAinJapanが面白かったのはすごいことだった。
RTAのことはもちろんずっと知っていた。
縛りプレイがそんなに好きなタイプではないから(そう、おれのゲーム好きなんて本当に、限られた一部分のこだわりに過ぎないのだ)、なんかやってんなあくらいの認識だった。
RTA動画が面白いという、ゲームやってない人間の声が不快だったから、ちょっとネガティブな目線で見てしまうこともあった。
でも、RTA目的でゲームを始める人間はそんなにいないだろうし、ふつうにクリアしたうえでやり込みとしてやってるプレイヤーの姿はなんとなく好ましかった。
まずあんな動き相当練習しないと出せねえだろ。それだけで不思議な尊敬が生まれる。もし動画収益目的であの動きを身に着けられるなら、もう頑張ればサーカスとかでも稼げるだろ。

 本来のゲーム内容とあまりに外れた内容だから、ネタバレしてもネタバレにならない。
知っているゲームであればそんなこともできるのかと驚ける一方で、知らないゲームでも面白い。
走者の熱が伝わるのがいいのだろうか。
今これが流行っているからという理由でよく知らないゲームをなんとなくたれ流す実況者より、10年以上前のゲームを妙な手順で生き生きとプレイする人のほうが見ていてずっと面白い。


他の人にとってなんの意味もない努力だ。


だけど本人にとっては何にも代えがたい意味があるのだ。その熱が伝わるから、純粋な気持ちで応援できた。
きっと非営利だからできるんだろう。クソみたいな資本主義の拝金ユーチューバーどもが何百年かかっても生み出しえない感動があった。
今のはただの悪口で、その発生は仕方のないことなのであんまり言わない。インターネットと金稼ぎは蜜月を通り越してぐっちゃぐちゃになっている。
そもそもRTAinJapanという企画が成功した要因なんて、まともに言い出したらキリがない。
動画として長すぎない、ある意味「忙しい人のための」シリーズみたいなもんだし、「巣ごもり」期間のちょうどいい娯楽として受け入れられたのも、時流に乗っていたからだ。
まだマイナー枠にいるから民度が低くないという話もあるし、スピードランの世界がメジャーになれば、もうゲイビデオでゆっくりを作っている場合ではなくなるぞ、という気持ちももちろんある。

 

だけど、どの走者の方も、主体をゲームに置いていた。
本人は集中してゲームしてるんだから当然なんだけど、解説も普段走者としてやっているだけあって、徹底してプレイを立てる配信なのが心地いい。
正直そのへんの実況よりずっと走者の努力があって成り立つコンテンツだと思うのだけれど、みんな謙虚なのが気持ちよかった。
このゲームが本当に面白いから、こんなに人が見てくれているんだと、強く信じている姿が格好良かった。
「この動画を見たひとりでも多くの人が、このゲームをプレイし、できれば、RTAをしてくれることを願ってやみません」
こういうセリフを皆が言っていた。


俺はまさに、救われたのだ。

 

もちろんゲーム実況者といったってピンキリだ。人気のある方は当然ゲームが主体になるよう強く意識していらっしゃるし、ライブチャット中のネタバレやリスペクトのない発言に強く怒る方もいて、素晴らしい実況をされている。
だからこれは俺の小さな世界の話だ。
でも俺の小さな世界は、RTAとかいう酔狂な趣味を持つオタクの一声に救われたのだ。

 

有名になったとはいえ走者として頑張るにはなかなか時間的、体力的コストのかかる趣味だ。いまの立ち位置から大幅に変わることは無いように思うけど、今後どうなるのか楽しみだ。
ありがとうRTAinJapan。
気が向いたらブラッドボーンのRTAやってみるよ。