ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

ネットで怒るのはめっちゃ楽しい

 やたらと大きな銃で人を撃つ夢を見た。案外難しいもので、全然当たりやしなかった。

 

 

 お久しぶりです。

今日もインターネットでは人が怒っている。自分の思い通りにいかなくて。他人の行為が許せなくて。理不尽な社会が大きすぎて。

春から夏にかけて人間は活発だ。なんの調査もしてないので証拠は一つもないけれど、いつもこの時期な気がする。新生活もひと段落、五月病も徐々に回復し、自分の生活にいっぱいいっぱいだった人たちが暑さに任せて戦いだすのかもしれない。暑いと体は元気なのにストレスがたまるので、暴論も捗るような気がする。まあ単に僕がこの時期疲れていることが多いからそう見えるだけかもしれない。元気いいなあ、何かいいことでもあったのかい、と、そう聞きたくなるほどにインターネットには怒りがあふれている。

 

 人間が怒る理由や、なぜ怒りやすい人間がいるのかずっと考えていた。何も言及できなくなったのでやめることにした。こういう人は怒りやすいとか、そういうことを書いた本やサイトは腐るほどにあるけれど、だいたいがいまさらどうこうできないことや、因果が逆なことばっかり書いていた。昔は怒るのとかほんとうに馬鹿かよなんて思っていたんだけれど、怒らなければ戦えない場面や、怒れないやつが死んでいく世界だってあって。そもそも防衛反応の一種だと考えると多くの怒りはなにかを守るためのものなんだろう。くだらないものだって本人にとっては大事なものかもしれない。

 

 問題はたぶん、怒るために怒っている人がいることだろう。娯楽として怒りを消費する機会が増えていることだろう。

匿名ゆえに罵倒の攻撃性が上がるという話はインターネットの文脈で長らく言われてきた。報復を恐れたり、相手の背景を気にしなくてよいと人は引くほど攻撃的になる。怒るのは楽しいのだ。勝てる相手をぶちのめすのは楽しい。それがなにも生まなくても。それが自分の品性を落とすことだとしても。そんなことは、知ったこっちゃないんだ。そりゃそうだろう。

簡単に楽しめる、中毒性がある遊びは楽しい!なあそう思うだろうハム太郎!?

炎上ビジネスが流行るのもしかたない。怒ってる人を煽るのは簡単だ。怒るのに慣れた人間を怒らせることほどちょろいこともなかなかない。向こうも好きで怒ってるんだ。感謝のひとつももらえてもおかしくない気がしてきた。あれ、感謝してもらえる気がしてきた。慈善活動の可能性がある。前向きに行きましょう。

 

怒るのは楽しい。

 

 

ネットがあると怒るのが簡単になる。合法ドラッグみたいなもんだ。情報は無限に与えられる。自分にあった情報を選んで怒ればいい。それが正しいかどうかなんて一切関係ない。ステージにあわせた怒り方がある。レベルアップするほどに多彩な怒り方ができるようになる。

 

 そうだ。すでに情報とは、正確さと切り離された概念だ。当たり前なんだけど、意外と意識されてない気がする。

 

 顔合成、音声合成技術が進んだそう遠くないポストポストトゥルースの世界では、一切の情報が信用できなくなると言われている。すでに炎上やデマで政権交代がバンバン起こっているこの世界は、このままいくと一周回って誰も間接的な情報を信じられなくなるようになるとかなんとか。俺はさほどおかしな話でもないと思う。

そもそも「完璧な情報」を得るのは無理なんじゃないか。最近はそんなことを思っている。完璧な情報を調べるには世界は速すぎるし、時間は少なすぎる。すべてを探し続けてたら僕たちは何もしゃべれなくなってしまうし、それを是とするにはあまりにも人は寂しがりだ。ニュースが知りたいんじゃない。大きな声でしゃべりたいのだ。人に伝える物語を必要としているのだ。ここで、娯楽としての怒りは陳腐なストーリーテリングとしての一面を見せる。そこには物語の主人公としての自分がいる。正義の味方として、次々と現れる悪の情報をやっつけるゲームだ。

 

 だんだんわかってきた。すぐに怒ることがなぜ嫌なのか。

これはシナリオがつまらないクソゲーを見せつけられることへの不快感だ。もうちょいさ、もうちょい面白いゲームあるだろ、と思うけど人の勝手だからなかなか言い出せないアレだ。

 

怒るのは楽しい、これは前提だ。その上で、怒ってばっかりになってしまう人が少なくない理由をずっと考えている。シナリオがつまらないクソゲーをしたくなる理由はなんなのか。いまのところ大きく2つあるように思う。

 

 一つは何度も述べてきているように体験型のゲームは楽しいからだ。自分の体を動かしてスーパーマリオをやるなら僕だって1-1で三日は遊べる自信がある。ジャンプして敵をつぶすだけで無限に報酬系統が活性化されそうだ。でもそれだけじゃ流行るほどにはならない。こっちはプラス要素に過ぎないようだ。どちらかというとなんでこんな人が、って人が怒り散らしてたりする理由がこっちっぽい。

 

 メインとなるもう一つは、主語が大きくて抽象的になってしまうのだけれど、摂取してきた物語が少ないからではないかと思う。あんまり時間がなくて現状これ以上言語化できていなくてアレなんだけど。物語とはコンテンツだ。本でもなんでもいい。人とのコミュニケーションだって壮大な物語だ。学問だって一つの巨大な物語のようにとらえられるだろう。歴史なんかわかりやすいけれど、科学だって因果関係の連鎖であり、その背景には膨大な物語がある。物語の持つ力は想像力であり、読解力であり、要約する力であり、足りない情報を補う力だ。

短絡的に怒るほどに物語を吸収する時間は減っていき、物語が自分の中に少ないほど短絡的に怒るようになる。負の循環だ。

なんかすごいけどこの情報ほんとか?見出しはインパクトあるけど全体読んでみるか。対立する意見はどんなのがあるんだろう。誰かにとっての善は本当にみんなにとっての善なのか?そうじゃなかったとして自分は何を支持するんだ?

 

 それを論理的思考力だと、雑にまとめるのは簡単だ。でもそれだけじゃないんだと思う。もちろん必要不可欠だけど、それだけだったらある程度勉強してるはずの大学教授や専門家とされる人たちがクレイジーな発言をすることなんてありえないはずだ。だから「物語」という言葉をあえて使うことにした。ここには倫理観や複数の視点を持つといった概念が含まれる。フィクションであれノンフィクションであれ、体系だった物語を蓄積することは思慮を深めるための力となるんじゃないかと思う。物語をひとつ得ることは、他人のことを知ることだ。それはすなわち、他者の物語へ敬意を払うということだ。それを一定量こなしておくことは、一般に思われている以上に、これからの時代にかかせないことなんじゃないだろうか。

 

情報が多すぎて、なにも役に立たないということがある。判断の基準となる力はそれまで自分が築きあげてきたものでしかない。だから物語を摂取する時間が減っている世界は危ない気がする。なんにでも手を出せるからこそ、なんにも手を出さないということが少なくないように思う。

 

 単純な感情は大切だ。でも単純な感情に任せた生き方はダサいのだ。

 

 怒るのは楽しい。

 

 怒るのは楽しいから、怒ってばかりいると何もわからなくなってしまう。

 

完璧な情報を手に入れられない僕たちは、それでも何かを考えて。誰かと話さずにはいられない。

 

 

どうせやるならかっこよくやりましょう。

 

この平凡で凡庸で、無様で美しい人生は、一回きりしかないのだから。

 

 

 

 

 

当たり前の話を春にする

  毎日通る道の桜を眺めてたはずが、思い返すとその根元のホトケノザばっか見てたような記憶がある。意外とその辺の道端に咲いてる花が可愛かったりして、だから何だと言われると別にどうということでもないんだけれど。やっていくぞという強い意志は、案外そういうところからしか生まれないんじゃないかと思ったりする。

 

 文章を書くのは狂気と似ている。ウソだ。狂気なんてかっこいいもんじゃない。愚の骨頂、正気の沙汰じゃない。ダサいし醜い言及はやめなければいけない。まともな人間なら自分の文をインターネットに流したりしない。かしこい人間なら思ったことは胸に仕舞っておくべきだ。それなのに何かを残しておきたいと思うのは、他人に伝えたいと思うのは。そのための使いこなせるツールが自分にとって文字しかないということは。どうしようもない愚行なら、意味なんてないとわかっているなら。笑い飛ばすしかないじゃないか。

 

 

 いいですか、主観です。 

 

多様性チャレンジという文脈です。

非常に難しい。

 

価値観というのは個人の中ですら変わりうる。だからそれを断定するのは意味が無くて、それもありだよねという話をしていきたい。ぼくは、少なくとも現時点では、多様性チャレンジは対症療法だと思っている。多様性チャレンジで得られるものはそういった人種がいることの認知と擬態の練習であって、多様性を受け入れざるを得ない世界で生き抜くためのライフハックであり、多様性なんて知らないほうが、安らかに生きていけると思う。

 


多様性チャレンジがなによりも大事だとおもっていた時期がある。生まれや育ちの違う人間とふれ、まったく知らないツイッターの海をさまよったり、深夜バイトをやったりすることで視野が広がると。いつかなにかしらのかたちで世に出て働くことになるなら世の人を知ることは大切で、象牙の塔の頂上で研究をする人間とは意識的にでも決別しなければいけないと思っていたことがある。勉強目的だので海外に行っても、同様の教育的文化素養をもった人間と接するならそのへんの公園でホームレスのおっさんと話した方がカルチャーショックはでかい。そもそも勉強が好きではないし、勉強するわけでもないのにほいほい海外行けるほど豊かな経済基盤もなかった。
幸か不幸か学のある強い人間はその最高峰まで視界に入る環境にいたけれど、高い塔のある村で塔に登るつもりがないのなら、社会的に多様な階層の人間と触れるべきだと考えていた時期がある。基本的には、今もその気持ちは変わらない。


良かったか悪かったかはわからないし、白黒つけるものでもないとは思うのだけれど、多様性チャレンジはべつに必要なことではないとわかったのは、馬鹿な俺にしては賢明な気づきだったと思う。結局多様な階層の人と触れたところで自分が属する社会コミュニティで生きていくわけで。そこで上を目指しているだけで十分メモリを使い切ってしまうのが普通なんだろう。恵まれた人間が恵まれない人間のことを気にしないとか叩かれるの、悪気とか全然なくて、見ているひまがないんだろう。それを見ているようなひまな人間には、それをどうにかできるほどの実力は身につけられない。ひとりが知覚できることはたかがしれている。 

 
 でも強い人みんな普通に多様性チャレンジとかせずに勉強とかしてて偉いと思う。強い人は本当に強くて、疑いとか持たず楽しいとか狂った理由でどんどん強くなっていくのですごい。あとがんばる自分が好きみたいな狂った理由でがんばる人間も存在しておりすごい。すごい人、行き詰ったときすぐ自分を責めたりするのもすごいと思う。俺にはとうていできない。そんなにすごくない人、頑張ってない人も不幸せかといえば全然そんなこともないの、すごいと思う。ほんとになんも考えてないんだなって人がだいたい一番幸せそうに見えることも多々あってすごいと思う。生きてるだけで頑張ってるよって人も頑張っててすごいねーって気分になる。なんでもいいんだよ。すごいときはすごいんだよ。ダメとか言ってても、できないことを嘆くとか改善できる才能だしすごいと思う。あきらめちゃえるのは能力をよく客観視できてるってことだからすごいことだ。

なにがすごいかなんてタイミングと個人の状態によるんだ。なんだってすごいし、すごくないと言われてしまえば、

 

 なにひとつすごいことなんてなくなってしまう。

 

 

 平凡な人間の、かけがえのない努力が、すごくないわけがないだろう。

「○○な人に届け」とかいって安易な自己防衛を語るようなアレがまあ苦手で。

一般化してはいけないことが世の中にはいっぱいあって、それを140字とかで雑に一般化するから無理が生まれる。

 言葉に無限の可能性なんて感じたことはないし、文字には限界がありすぎて、小さなことひとつ満足に伝えられない。

 だからせめて、目に見える世界には届くように、大事な人だけには届けられるように。丁寧な言葉を、文章を僕たちは目指すのだ。

 

 

 

  それは、道端のちっぽけな花を綺麗だと思う気持ちにどこか似ている。

 だって俺は、でっかい桜の木のそばで咲いていたちっちゃい花を見たあのとき、それをなによりも美しいと思ったんだ。

あと5ミリずらしたら戦えそうな文を、5ミリずらさないということ

 梅の花がきれいだからといって、僕たちは空を飛べない。

 

 そういうことを、忘れないように。

 

 

 散文というか、箇条書き。なんか書けという声を頂いたので最近考えたことを羅列しておこうと思う。ありがたい話だ。言及の墓標。


・まえ文体の話したときに少し触れたけど「○○だが」っていうのほんと印象悪い。あれは省略することで文字数を抑えられるオタク仕草と学術書ほか偉そうな文章あるあるの「○○だが、であるが」的文体が夢のコラボレーションをしてしまったインタ―ネット文化なんだろうけど、にじみ出る偉そう感に涙がにじむ。オタク同士のコミュニケーションではわりと違和感なく使ってしまうがゆえに、インターネットでしかも偉そうなことを言うときは絶対に避けたい。なんかわからんけどインターネットオタクというより狭いインターネットでインテリしてる人間の方が言葉遣いが悪い気がするんだけどそのへんって誰かに殴られないとなかなか気づかないし情報交換にはわりかし便利なあたりたちが悪い。

 

・学問、分野ごとの断絶が激しくて激しくてふるえる。分野によって常識や方向性、テイストが軸を異にする。社会VS大学みたいな構図はわかりやすいけど全然実像ではないけどそれを実像じゃないと叫ぶのもまたくだらなくて。文系理系とかいうのでまだ騒いでいる人類なにもんだよとか思わなくもないけど思想は自由なので。大学の数減らせばいいんだよな、勉強した人間以外大学行けなくすればもう少しまともな議論ができると思う。べつに大学行って勉強しないならさっさと働いたほうが社会的にも各自にとってもありがたい話だと思うし、変な大学つくるくらいなら小学校の算数の復習とかする施設つくったほうがよほど国益にかないそうな気もする。できるできない以前に知らない科目とかいうのがあるのが本来悲しいことで、引け目と諦念が前へ進む力になるはずなんだけど、ちょっと社会活動をするとやってません文系なので!AOなので!みたいのがごろごろしてるのは確かだと思うしそこまでして何を学ぶんですか感もあるし、あと勉強が“好き”と“嫌いじゃない”もまた全然違う話なので難しい話ですよねおしまい。

 

・勉強オタクについてなんですけど、やっぱ羨ましい気持ちはあるんですけどあれは趣味が実益を兼ねてるから羨ましいのであってべつに偉くはないというのを勘違いしないようにしましょう。

 

漫画村、無くせるわけがなくてなんでかっていうとユーザーインターフェースがとてもよいし、例えば僕なんかからすれば図書館で借りるのと意識ほとんど変わらないからで、もちろん叩いたりするのは当然だし方向としては正義だと思うんだけど、利用者に喧嘩売ってもあんま意味ないし、本を買う人間基本的に資本レベルが高いので、けっきょく金持ちがなんか言ってるぜという反発が生まれるし戦うのは無意味ですよね。大事なのはうまいこと漫画村を全部買い取ったり、負けない仕組みをつくったりすることだと思う。と思ってたところに実はサイトひらいたらウイルスがどうのこうのみたいなデマが流れててリテラシーゼロ層をうまく狙った話だと思いましたがやっぱりこれも対処療法に過ぎないよな。

 

・死ぬの基本的にめちゃくちゃきついと思うし僕も40℃が1か月続いたころはほんと死ぬとかそういうことをこねくり回すひまもなかったのでやっぱり死ぬのはダサい。時代は生存。死をかっこよく使った文が書ける人間は、生きたい人間だけだということをもう少し共有したい。インパクトの強い言葉でうまいこと言ったと思ってる文、99%はダサい。

 

・趣味という言葉、オタクとノンオタクで解釈がだいぶ違っている気がする話。オタクにとっての趣味、なくなると死ぬものなのでそういうつもりで会話してて食い違うことがあった。仕事に全振りしてるような人間の語る趣味は別の意味言語だと思ってとらえたほうが齟齬が少なくてよさそう。

 

・頑張るのは大事だし人と仲良くするのは大事だということ。インターネットには異常者が多いのでそういうのをが心底無理で本心から否定して生きている方もいて、それは生き方だと思うけど、基本的には頑張るのは大事だし人と仲良くするのは大事で、そのへんで逆張りしてるオタクはダサい。多様性に引っ張られるのはおそろしいことなので、芯がないなら多様性チャレンジは本当にやめた方がいい。カリスマ性のある異常者は強いけど、異常者であることをくれぐれも忘れないように気をつけないと凡人は死ぬ。

 

・1人の相手と純愛n年はかっこいいし倫理性が高いのでどうしても信仰したくなるのはわかるんだけど、純愛パーソンの恋愛論ほど参考にならないものもないので話半分に聞くのがよい。やつら倫理がしっかりしてるからやたら人生に自信持ってんだよな。

 

・はあちゅー、童貞まわりの感覚以外まともなのほんとうに怖い。燃えてるときは炎上芸でマーケット絞ってるんだろうなって見方してたんですが謝ったり撤回しだしたあたりから本気だったんかって驚いてしまった。それだけでもいいんだけどもう少し話を拡張すると、結局すべてがわかってる人間はどこにもいなくて、鋭いことを言える人だってすべてにおいて完璧な突っ込みはできないんですよね。特に学問と違って体系化されてない知ってると思ってる文化っていうのが一番くせもので、メディアはなんでも言及させたがるし、どうしてもズレたこと言うタイミングって生まれてくるんだろうなって思った。それをズレてないと思うところから地獄が始まるっぽい。

 

徒然草苦手なんだけどあれは同族嫌悪だと思う。

 

ツイッターは弱者に優しいけど、やっていくしかないときはやっていかなきゃいけないんだとは思う。できるかはともかく、スタンスはね。

 

 

がんばろー!おー!

はやくておおすぎる

早くなっているのだ。


早くて多い。


早すぎて多すぎる。


バーチャルユーチューバーについて、初めて見たときの感想だ。3Dモデルの、かわいい女の子が、動作に合わせた声で、ウケそうな話題を持ってきて話す。どれ一つとっても話題になりそうなことが、たった5分やそこらのなかに凝縮されている。暴力的な情報量だった。これが2017年末に、オタクのたどり着いた地平か。

 

 

年末にまとめの駄文を書くはずが、時間がなくて正月も明けてしまっていました。正月は静かでいいですよね。月に一回くらい正月があればいいのに。でもないんですよね。そういうことが世の中には多い。

今回は現在の見え方と、なぜ俺がそう見ているのかについての一区切りつける文章です。「いいですか、主観です」の、主観の背景について一度整理しておきます。

どうですか?みなさんはなんでそのコンテンツが好きなんでしょう?

 

 1.iriwoppositeというオタクについて

 

かつてアニメを馬鹿にする人々は、本と違って受け手との対話がないと言った。対話がないというのはウソだろうと僕は思うけれど、視覚と聴覚を支配されたのはたしかに大きい。最近になって、自分のコンテンツの消費の仕方が、とことん受け身であることを自分に許さないようなものだったのだと、気づかされる機会が増えた。

メッセージ性がどうこうとか、考察厨みたいな話ではなくて。こう、形容しがたい負けるものかという気持ちがあることに気づいた。今までみんな持っているものだと思っていたのだけど、どうやら違うらしいのだ。なんで自分が心動かされちまったのかということに、意外と興味がない(自覚的でない?)のだろうか。まだあまり言語化できる段階にはないけれど、昔からいろいろあった違和感が最近解消されてきた用に思う。

極論、僕は自分でもつくれんじゃないかと思いながらあらゆるコンテンツに向き合っているようなのだ。で、オタクはみんなそうだと最近まで思っていた…。どうやら違うらしいのですが、みなさんはどうですか…?

 

コンテンツにたいして、心のどこかで戦う気持ちがあると、その作り手というものに対する意識が生まれる。それがすげえもんをつくりやがったなあという気持ちになって、心の底から楽しめるのだと思う。いつだって、コミュニケーションは相手への尊敬を根底に置いたほうが気持ちよく楽しめるように思う。広く浅くやってしまうのも、結局はそのあたりかもしれない。それはコンテンツに興味がないんじゃなくて、その奥にいる作者の考えにより興味があるからなのかもしれない。どんな媒体の表現であろうと、気持ち悪いオタクが誰かの感情を動かそうという神をも恐れぬ邪悪な心からつくりだしたものであることには変わりない。そういう意識がある。映画であれ、本であれ、料理や写真しかり、もちろんゲームも。気持ち悪いオタクに感謝を。その熱量へ敬意を。

 

 2.早くて多いものが求められるという話


『これは、俺の物語だ』のキャッチコピーで有名なのはFF10だった。けど、RPGでは主人公の見る世界を追いかけるしかなかった。みんな入り込むための、壮大なストーリーを必要としていた。

いま、「自分の物語」はあまりにも当然に毎日生み出されている。こうやって文章を書くのだって、ちょっと前までは大きな手間がかかったことのはずだ。

 

スマートフォンはカメラを手軽に、世界への発信も容易にした。手軽さは早さで、早さは正義だ。

インスタグラムは「自分の物語」の時代の象徴であるように俺には思える。「すごい作品に出会った」感動さえも、「すごい作品に出合った自分がいた」ということの感動にくらべれば陳腐だ。誰だって自分が大好きで、自分のリアルこそが自分にとっての最大のエンターテイメントだ。ストーリーテラーたりえない僕たちは、「自分の物語」をより感動的に、飾り付けることに夢中になっている。モノやヒトのインターネット、グローバルな世界は「自分の物語」をつくるための手助けをどんどんやっているし、誰もが主人公になりえる社会はきっと昔に比べて素晴らしいんだと思う。問題は、それは「自分にとっての感動」しかない点なんだろうけど、そのへんは置いとく。

 

世界に「自分の物語」を発信できる時代、「他人の物語」はときおり無造作に投げ捨てられている。料理がおいしかったのか、「料理を食べた自分」が大事なのか、旅行で行った場所がすばらしかったのか、「旅行に行ったこと」に意味があるのか、映画がおもしろかったのか、それとも「映画を観た自分」を主張したいのか。一瞬をきりとったはずの写真は得てして切り取ったことそれ自体にようわからん意味をつけてふわふわインターネットを漂っている。


自分の物語の発信は簡単で、それなのに楽しすぎる。そしてこれは、サブカルチャーと非常に相性がいい。誰もが感動的な自分の物語を作れる時代、簡単に消費出来て、自分の物語の中に取り込めるものが好まれる。目的は自分の物語の拡張にある。自分の物語は簡単に作れるけれど、それではみんなと一緒なのだ。当たり前の話で。そんなに簡単に他人に影響を与えるほどのオリジナリティだ、ユニークさだというものは生まれやしない。なけなしのオリジナリティが、サブカルチャーに託される。簡単に消費できる知識と文化で、自分の物語を武装する。そのときコンテンツはその向こう側にいる作り手を必要としていない。経験したというための経験。空っぽでないと言うためにつめこんだものに、作者との対峙、尊敬を感じるひまはないのかもしれません。メインはそこにないのだから。あるいは、もうそれこそが多くの人にとってのメインなのだという意識がけっこう大事かもしれない。

 

さて。

一昔前の識者が無限に書いてた「アニメやゲームは本と違って作り手と対話することができない」、というのは大きな間違いだと思う。注意深く接すればいくらでも考える余地はある。ただ、「対話しなくても消費できる」かどうかといわれれば、そうかもしれない。本なんかと違って、やろうと思えば口空けて思考停止してるだけでも勝手に進んでくれるのが映像だ。五感のどこまでをむこうに握られているのかという話なのかもしれない。VRコンテンツが主流になった日には、本格的にこちらの操作余地はないのかもしれない。

 

どんどん早くなっている。人間はより多くの情報を、より短時間で受け取っていく。思考ゼロで楽しめる、それがアニメの醍醐味だと言われたこともある。コンテンツが進化するほどに、表現の可能性が増していくほどに、何も考えずともそれを消費する層が増えていっているのかもしれない。少なくとも、考えるのが難しくなっているのは事実だと思う。作者のカタチすら見せないバーチャルユーチューバー、思考停止で消費せざるを得ない点でコンテンツの新たな極致なんじゃないでしょうか。

フェイクニュースだっけ。ポストトゥルースとかその文脈だって、早くて刺激的なものが好まれるという話だった。正確な情報や、難しい理論は難しい。興味を引いて、軽く知識欲を満たすジャンクフードが世界を席巻する。二郎系ラーメンみたいなコンテンツの暴力に、うまいうまいと毎日おぼれているようだ。

 

 

なにがすごいって、溺れたまま死ぬまでやっていけるのが今の時代だ。というか、意識しなければ溺れていることにすら気づかず、何かを自分の物語に組み込んだつもりで流れ続けてしまうんじゃないだろうか。誰もが自分の人生のクリエーターであることが圧倒的に目に見える形で存在する時代こそ、同様に存在する「他人の物語」への尊敬、そして他人をまきこめるほどの強い熱量というものへの敬意が大事になってくるのではないだろうか。

 

 

早くて多いのだ。 

 

いちいち噛み砕いていられないほどに。

 

早く早くもっとたくさんの、考える暇もないほどの、大量の、大量の情報を!

 

何かを考えた気になれるような、誰かの薄っぺらい言説を読む暇があったら、もっともっと、ほら急がなきゃ!なんにも考えず飲み込んで!すごいすごいと口を開けて!そうやって、そうやって、そうやって。

ゲームが最強のコンテンツだと思う瞬間の話 

 久しぶりにゲームの話をしましょう。したいんだ。させてくれ。ゲームだからこそできる表現技法について。

 

 UNDER TALEという今年最大級に売れたインディーゲームを終えました。間違いなく今年最高のゲームのひとつといっていい。MOTHERと東方にインスパイアされたという本作はそのレトロな雰囲気や軽妙なセリフ回し、モンスターと会話できたり、エンカウントバトルに弾幕を持ち込む独特の戦闘システムなどもさながら、シナリオのみごとな分岐システムにひさしぶりに泣きそうになった。と、まあそれくらいにして。

 RPGのもつメタ性をきちんと使うということについてです。多くの物語がこれに挑戦しているものの、スパッと決めた作品は多くないこのメタ性の使い方。昔ならともかく、メタ的な視点がある程度使い古されてきたこの頃では没入状態にいかにもっていくかがカギとなるように思う。

  俺が知っている範囲で幅広く具体例を挙げて考えていきたいし、ぜひ考えてほしい。

 

 ここからはいくつかの名作のネタバレが含まれるから、これからぜひやるぞという方は見ないで欲しいんですが、具体的にはMOTHER2Metal Gear Solid  3とThe Last of Usについてはがっつり話すのでそのつもりでお願いします。

 結論ありきで言うなら、『プレイヤーに「自分がやった」と思わせる』表現方法についてです。

 

 

 

 

 僕の知識なんてたかがしれてるのでこれこそ○○の始まりみたいなことはほとんど言えないのだけれど、MOTHER2が世界のRPGに与えた影響というのは無視できないと思う。

 

 MOTHER2のラストは、「みんなの力だけでは立ち向かえないんだ…」と画面越しに戦う仲間達を見てプレイヤーはなにもできない。だけど名前を呼ばれるのだ。きみの力が必要だと。そのときプレイヤーはゲームの中にたしかに存在することが可能になる。いや、はじめから自分の世界と画面の中の世界が繋がっていたことに気づくのだ。共に旅をしていたことに。たしかに自分も「みんな」の中に含まれているのだということに。そのとき、MOTHER2という架空の世界は、圧倒的なリアリティを持ってプレイヤーの記憶に刻み込まれる。

 ある種の叙述トリックに似たものがある。小説なら使い古された手法かもしれない。だけど、RPGというのはもともとシステムからストーリーが逆算されるようにして創られたジャンルだ。これもまた語り始めるときりがないけれど、敵を倒してボスを倒す、という行為に意味づけをするためのストーリーであり、その結果「より世界に没入して欲しい」という気持ちが今日までRPGを進化させてきたと僕は考えている。わかりやすいところだとグラフィックをより現実感のあるものにしていくことなんかもその一環だ。だけど、どんなにがんばってもプレイヤーは主人公と乖離する。大冒険であればあるほど、他人事になってしまう。MOTHER2はそこに、プレイヤーの役割を与えることで解決した。コロンブスの卵だ。プレイヤーも主人公と同じようにこの世界でやることがあるのだと。この世界の一員だったのだという、そんなゲーム体験を届けた。

 

 同時に、「これやっていいのかよ」というあまりにも斬新なゲーム体験になった。元来ロールプレイは、自分がなりきるものだ。それはそれで確かに楽しい。主人公としてプレイするのは楽しいし、多くのゲームがそれで十分に成功している。だけど、その矛盾というか、乖離を突かれるとき、そこには圧倒的なリアルが生じる。ゲームの持つ「体験」的性格の新たな可能性を開いたのは、ここだと言ってそれほどずれてもいないだろうとおもう。

 

 とはいえグラフィックが向上し、映画的なゲーム体験が提供できるようになると、なかなかメタ的な演出はできない。そもそもプレイヤーも第三者としてストーリーを楽しもうとするようになってきているのだ。主人公と乖離しているのは前提意識にある。そんな中で、メタルギアソリッド3は凄かった。ストーリーとかは割愛する。ここで話したいのは表現技法だ。メタルギアソリッドのラストでは、愛した師を撃つことが求められる。ラストバトルで大切な人と戦うという点はさほど珍しい話ではない。倒した後に、引き金を引くためだけのイベントがあるのだ。プレイヤーが攻撃ボタンを押すことでムービーが進む。逆に言えば、プレイヤーが引き金を引かないかぎり先には進めないのである。乖離していたはずの、ムービーを観て楽しんでいた観客に、「それはお前だ」と突きつける演出なのだ。この結果、スネークと同じ選択をしたプレイヤーの没入感は最高潮に達し、その後のエンディングはもはや観客席で観るそれとは性質が変わってしまう。僕の知っている他作品だと、The third birthdayにおけるラストでも同様の技法があった。プレイヤーの選択をいやがおうにも意識させる技法である。(さらに言えば実質選択肢は限定されている点もおもしろいのだけれど、今回は本論とずれるので割愛)God of Warで取り入れられたQTCシステム(制限時間以内に正しいコマンドを入力することで派手なアクションにつながる)や、FF13だかでムービー中にポチポチボタン押すやつも没入感を増すためのものだ。しかしながら無意味なQTCも世間には数多くあり、酷評されがちなシステムでもあり、バランスは非常に難しい。

 

 おもしろい作品をどの媒体よりも没入して楽しめるのがゲームのいいところだなあと何年も思っていた僕の前に現れた怪作がLAST OF USである。

 パンデミックもので、抗体を持つ少女エリーを連れて、かつて娘をパンデミックでなくしたおっさんジョエルが、崩壊したアメリカを横断しながらワクチンを作れる病院までというのがおおまかなストーリーだ。

夏秋冬春の四章立てであり、たとえばジョエルが怪我をする冬にプレイアブルキャラクターがエリーになることで彼女の成長を表現するといったおそろしい技法も使っているのだが、僕にとって怪作と呼ばしめる点はラストステージにある。

ワクチンをつくるためにはエリーの脳を必要とする。その命が犠牲になると聞かされたジョエルは怒り狂い、目的地であった病院の人間を皆殺しにしてでもエリーを助け出すことに決める。ノーティドッグの圧倒的なグラフィックによる豊かな自然表現、表情表現、アカデミー賞受賞女優の演技とセリフを取り込んだキャラの動きはなみの映画を超えた没入感をプレイヤーにあたえ、プレイヤーはジョエルと一体になっている。

だがジョエルの行動は道義的に見れば狂っているのだ。事実、エリーを預かるマーリーン(ジョエルからすれば敵)は決して悪人ではなく、良心を痛めながら必死にジョエルを説得しようとしてくる。しかしジョエルは止まらない。二度と娘を殺させない、かつての父の想いは半ば狂気となってプレイヤーに宿り出す。極めつけはエリーの手術室である。中の医者を殺して手術台のエリーを解放するのだが、このとき看護士は横の机に隠れてふるえ出す。殺さなくてもいいのだ。しかし生かしておいてどうなるか、その時点ではわからない。多くのプレイヤーはここで無抵抗の人間すら殺すという選択をとる。

 ムービーに没入、の次元を超えて、プレイヤーの価値観を揺るがせてくる。人間を救うためにここまで来たはずが、エリーのために全人類を敵に回す覚悟を決めている。プレイヤーの倫理観を歪めるという点では貴志祐介の「悪の教典」に共通するものも感じる。感動して泣いたとかって、画面の中の第三者への共感であることがほとんどだと思う。この作品は、共感ではなく、本当の意味で一体なのだ。

 

 登場人物の表情やそこから伝わる葛藤、技術の進化が可能にした技法だったんだなと思った。「プレイする映画」を標榜したアンチャーテッドシリーズも、THE LAST OF USの製作を乗り越えた4ではさらに臨場感の増した人物描写が見られたように思う。

 

 ここまで【プレイヤーが主人公と世界を共有する】【プレイヤーと主人公が行動を共有する】【プレイヤーが主人公と感情を共有する】という点で雑にまとめられる。どのようにして共感させるのか、体験させるのかという視点がこれまでも、これからもコンテンツの進化の形だと僕は考える。いま【】でまとめたものの中からも、これからも素晴らしい作品は生まれるだろうけれど、それは専門職の職人技であって今回の話とはそれる。

 

 

 で、UNDERTALEはどうだったのか。これは本当にプレイしてほしいのでネタバレはしない。方向としてはプレイヤーが感情を共有する、に近い感動があった。だけどそれがあんなドット絵RPG風味の作品で可能な表現だとは想像もしていなかった。選択肢があるところでセーブ&ロードをしたとき、まさか相手にそのことを見抜かれるとおもわないだろう?UNDERTALEはMOTHERが持っていたユーモアを踏襲しながら、それを凌駕する没入感を可能にしている。敵を探してうろうろするときの感情って「早く来ないかな、さっさとLVあげてえ」だろ?その感情は果たして善なのか、悪なのか、考えたことはあるだろうか?

 

 コンテンツであふれかえった現代で先にいく作品はいかにプレイヤーに体験させるか、これに尽きると思うのですよ。金を稼ぐための近道ではないけれども。それがゲームに許された最強のアドバンテージだと僕は信じているんですよ。いくらでも例はあると思うんですけど、今日はこれくらいにしましょう。

 

 プレイしないとなかなかわからないですよね。僕も冗長だと思います。でもやっぱり自分でプレイしてほしいですね、わからないだろ?ちょっと長いなあと思いながらここまで読んでくれたお前に言っているんだよ。

 

つまらないものをつまらないということは

 キンモクセイも落ちてしまった。
花は好きだ。季節の移り変わりに、てきとうな美しさをくれる。キンモクセイは花が自己主張激しすぎないのがいい。そのくせ遠くからもわかるのがいい。気づかない人には気づかれない高さで、当たり前のように咲いているのがいい。当たり前のような顔できれいに移り変わるものは美しい。雲だったり虫の声だったり風の温度だったり。そういうものが好きだ。とはいえ今回の話とは全く関係ない。


 モラルというのは難しい話でむっずかしい話でtoo difficultな話だから決して140字で話してはいけない。しかし、人間関係をやっていくためには、思考を整理しなければいけないときがある。ときにくだらない話を、一生懸命やらなきゃいけない時がある。削ぎ落とした言及はまあ、やはり、削ぎ落ちてしまっているのだろう。

 面白くないものという概念がある。設定にろくな整合性が取れていないSFや、源氏物語を永久に超えることのできない数多のラブコメ、目的や難易度が方向を見失ったゲームやシーンと音楽が絶妙に合わなかった舞台、横文字だらけの公約や声優へのクソリプ 、n度目に見たデスノートのセリフ入れ替え長文画像や、頭の悪い人が頭の悪いことを悠久に使いまわし続ける光景────

世の中には、面白くないものがたくさんある。

もちろん判断の基準は曖昧で、僕にとっては面白いことが人によってはつまらないということも当然ある。

だからこそ。おもしろくないものに対する姿勢は注意する必要がある。


いいですか、主観です。


おもしろくないものをおもしろくないというのは簡単なのだ。

ただ、それを人を傷つけずに行うのは難しい。言及はあまりにも安易に行われる。そこになぜ俺が引っかかるのか、まとめてある程度整理できるのかをやっていこう。きっとこれは、人間関係をやっていくうえでも役に立つはずだから。

 
感想を述べあうというのは共感を得るための活動だ。
だから、これはどうしようもなく主観しかないのだ。そこに正義はなく、信念しかないのだということを、まずは心に刻むことが、大切なんじゃないだろうかと思う。

極端な話をしよう。アマゾンのレビューには☆1しかつけずに無限に商品を非難し続ける人が無数に存在する。しかし僕はアマゾン☆1レビューオタクを叩くことができない。彼にとっては本当につまらないものだったかもしれないからだ。どんなゲームをやっても楽しめないとしたら悲しいことだが、そう思うことさえも僕のエゴにすぎない。ある人間が☆1レビューをするその瞬間に生きがいを感じているとしたら、その生き方に何を言えるんだ。なにか言えるほどの何かを僕は持っているのか。僕は、そういう人間だ。


 だけど僕らはその姿、その文を見てまず間違いなく傷つく。
さあ、なんで傷つくんだ?プレイしたこともないゲームの話を読んで、なんで腹が立つんだ?


 共感は確かにあるのだ。そこから始めさせてほしい。共有するべき規範はあるのだ。そこに正義はなく、信念しかないのだけれど。それぐらいは許してほしい。

 これは僕の文章で、
どうしようもなく俺の文章でしかないのだから。



①.おもしろいものをおもしろいということと、つまらないものをつまらないということは対偶ではないのだということ。
人の悪口を言ってはいけません。どうしてなんだろう?悪口を言うと敵をつくって生存確率を下げるから?社会生物としてうまくやる必要があるから?そういう話は別のところでやりましょう。この話に正義はありません。僕はダサいと思うからです。プラスの感情はいくら表出しようとうるさいくらいでその内容についてなかなか不快にはならないものだ。でもマイナスの感情の表出は途端に人を不愉快にさせる。単純に表裏の関係にはないのだ。これ、対人においてもそういう奴なら理解できるんだけど、ふだん常識人らしい人がコンテンツに対しては態度を豹変させるということがあって怖い。


②.否定は反例をひとつ示せばいいということの残酷さを
数学でやりましたね。正しいことの証明は大変なのに、間違っているものは一つ示せばいい。誰かの主張にくってかかるのは簡単なのだ。これを①と対応させる。面白いに対して人はそれに食って掛かろうとは思いにくい。でも、つまらないと言われたら気になるだろう。ならない?俺はなるんだよ。実はこれ自体はもう社会の中にけっこううまいこと組み込まれている。世のすべての主張はこれにのっとって論理が展開されているといっても過言ではない。「あなたはこう思っているでしょう、でも実はだめなんですよ、なんで?って思ったでしょう?それでは説明いたしましょう」これが全世界共通の論理展開だ。つかみとは驚かせることで、対話や理解のためにはどこかしらで相手の感情に対して煽りというか、揺さぶりをかけなければいけないのだ。それは全く当然である。
が、それとただ感想を表明することは軸を異にする。理由のあいまいな過度なマイナス感情の表明は、そのあと相手をもやもやさせる。慎重にするべきだ。共感性を十分に有した友達なんかならともかく、不特定多数に向けて叫ぶようなものではない。


①②はつまるところ、おもしろいは雑に使っても怒られにくいが、つまらないを雑に使うのはアウトだということである。



あまり強い言葉を使うなよ、弱く見えるぞ。
よくいったもので、程度がインフレした罵倒はそもそもがダサいのだ。たとえばちょっと転んだくらいで「マジ最悪死ねふざけんな」とか使ってしまう人って交通事故に巻き込まれたらなんていうんだろうな。言葉の使いすぎというか、結果としては使える語彙の制限、貧しさに繋がるように思う。もとの語彙が乏しいからという卵ニワトリ問題なのかも知れないけれど、それはまた別の話だ。あと、強い言葉というのは本質的にマウンティングするためにあるのだと思う。他人への命令や罵倒、これはつまるところ自分の相対的な地位を高めようとするものに相違ない。ならばそれをコンテンツに適用する人間はなんなのか。モノ言わぬコンテンツに対して罵詈雑言をあびせる意味とは。自分の立ち位置を高くして何の意味が…仮にクリエイターに対するものだとしてもダサいの極み…この行動がダサい2017…というか、それを無意識にしてしまっているとしたら…


 この③は僕が最も危惧する部分だ。ここにはなにかを否定するときに生じがちな自意識がある。なにかを肯定するときには、「これの良さがわからないお前らは愚かだ」理論は生まれにくいのですよ。もちろんないとは言わないよ。あんまりようわからんものを熱心にアピールされて、しかもお前はなんもわかっとらんとか言われたら驚いちゃうけれど。②で扱ったように、否定は肯定に比べてあまりに簡単なのだ。だから攻撃を受けやすい。同様に、なにかを否定するときに「これがだめだとわからないやつはだめだ」というニュアンスをまったく出さずに表現できる人がどれだけいるのか。いや、それを意識して発信する人すら、それを無遠慮に表出する人に比べてどれほどいるのか。
たとえ文章が稚拙だったとしても、否定したいのか批判しようとしているのかなんて一目見ればわかるものだ。雑に扱わない方がいい。ただの感情なら、そこには余計な言い訳をつけないほうがずっといい。
さらに言えば、「わからないやつはだめだ」、発生と同時に「わかる自分はすごい」というニュアンスが生まれる点も大きな問題だ。そのつもりがなくても生まれるのだ。この文章だって僕の全精神を集中して不快感を排除しようと努力してるけれど、それでも長くなればなるほど粗が出てくるのだ。どうしようもなく主観でしかないのだ。コンテンツの是非なんてほとんどないのだ。そして、ほんとうに希少な、みんなが共感して是非のわかるコンテンツに対して「自分はすごい」ってやるのは滑稽を通り越して悲しいものがあるのは言うに及ばない。


権威を笠に着るのはダサい
これはコンテンツだからこそみられるものかもしれない。すこし「コンテンツ」の枠を広げると思想家や政治の話につながって他人の人格否定まで進んでいく。背景知識を紹介することはなにも間違ってはいないと思う。深い知識に裏打ちされた言及には知性が宿る。ただし、一歩間違えればこれも「こんなこと知ってる自分すごい」が滲みだす。その話がどうつながっているのか、たんに知識をひけらかしているだけではないのか、難しい話こそいっちょかみのダサさは際立つ。さらにそれをする人間は(おそらく無意識に)③と結びつけて物事を語りだす。①も、たぶん②もわかっているような人でも簡単にやってしまう。とても正しそうな、まともなことを言っているような、誰かを傷つけるような、それを正当化するような、そんな文を書く人はこのあたりにいる。伝えるのは難しいことなのだ。一定の知識を共有した集団内でする会話なら許されることでも、インターネットで、足りない言葉で、安易に言い及ぶのは知性への反逆だ。





つまりは、





 つまらないことをつまらないというのは感情の問題で、そこには自分のことしか付け足してはいけないのだ。つまらないものがなぜつまらないのかを人に伝えたいなら、相手を馬鹿にしたり、自分を持ち上げたりしてはいけないのだ。
それがきちんとできるなら、どれほど難しいことなのかわかる。それでも叫ぶなら、長い文章が必要になる。言葉を尽くす旅路を。進もうとする覚悟が。



 どうしようもなく僕の主観にすぎない前提に、知らないだれかが喜ぶとうれしいという気持ちがあるんだ。知らない誰かを無意味に傷つけることに対する嫌悪があるんだ。それがきっと、おもしろいとおもしろくないに単なる裏表以上のイメージを持たせているのだ。


 だからおもしろくないものをおもしろくないというときには、誰よりも気を付けなければいけないのだ。できないならば、沈黙して座すしかないのだ。

○○は駄作だとかブロックしてやったとか

結論:おもしろくないものをおもしろくないと大きな声で叫ぶの、マジでダサいのでやめたほうがいい。