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              ゲームとマンガを消費し続けた存在が、人間関係もねらっていくにあたっての備忘録です

スマートフォンについて思ったりすることは

 発達がらスマホをよく無くす。定期とかスマホとか家の鍵とかを無くすと明確に発達を感じさせられるんだけれど、そういう話は気が滅入るし先達がアホほどいるので置いといて。今回はスマホを買い換えるときに感じた違和感と羨望です。

 

 皆さん、スマートフォンを何に使っているんだろう。

 

 スマートフォンが初めて出てきた頃、とにかく「スマホはコンピュータだ、なんでもできる」といわれた。いわれたというか、それは事実なんだけれど、じゃあ果たして実際何ができてるんだろうみんな。スマホ無くして何に困るんだみんな。なあ。おい。

 

 ラインとメール、電話はたしかにそうだと思う。まあ最近は電話を頻繁にすることもないんじゃないかと思うが、人と連絡とれないのは困る。

 

 で、ほかには?ゲームったってどうせツムツムかポケモンGOかシャドバかFGOだろ?

 課金ゲームに一切心動かされない派としてはログインボーナスがもらえないと死んでしまうとか言われると頷くしかないんだけれど、そこまでやりこんでるか世の人々?ツムツムやれなくて死ぬほどつらかったりするか?いないとは言えないけど少数派だろう。

 

 完全に偏見でものを言うが、多くの人たちは日常的には「メール」「ライン」さえあれば事足りると思う。(あとツイッターか)「電話」「路線乗り換え」「カメラ」とかが次にくるが、死活問題にはならない。時計?ライト?いやそんなのスマホでやらんでもなんとかなるだろ?Facebookが常時見れないことに危機感を覚える人間、いるか?よほどの有名人でもない限り、そのほうが危険な気がする。ほかはパソコンでおうちでできると思うだいたい。ウェブストレージなんかを使うビジネスマンなんかはいいとも。だが学生、老人がみんながみんなそれほど使いこなすとは思えない。

 

 検索が楽にできるか、まあわかる。でもできなくても人に迷惑かけたりはあるまい。

 

 つまるところ、ほとんどのみなさんのスマホは性能の無駄遣いだ。

 

 パソコンはまだ比較的大きいから気にする人も多いだろう。だがスマートフォン、普及率もあいまってぼったくられてるだろ案件が目に付く。お前その程度しか使わない機械に月額いくら払ってんだよそのぶん俺によこせみたいなことがよくある。

自分のスマホの性能、価格、通信料を把握している学生はどれだけいるんだろう。意外と少ない。さっさとシムフリーにして浮いたぶんを俺によこせくれないか。

 

 これだけIoTが叫ばれ、ひとりひとつのスマートフォンがある時代に、自分の機体についてすら知らないというのは、あまりよくないと思う。てかぼったくられてる。それとも、そんなにみんな金持ちなんだろうか。だったら俺にもなんかくれないか。

 べつにやれなんて言わないけど、秋葉原であやしい韓国人にサムソン製品やたら推されたりする経験だってやっとけばなんかの役に立つ気もする。知識が身を守るというのは、シムフリー欲しいって言ってるのに執拗にGALAXY勧めてくるやつを許さないということだ。

 

 ところでこれはお役立ち情報ですが、ラインというのは絶世のクソアプリなので徹底して他人の連絡先を海外に横流ししてくれるし、電話番号がないとログインができません。メール連携しておかないと友達があとかたもなく消えるから覚悟した方がいい。もちろん心配しなくても、連携したところで履歴は消える。ついでにパソコン版はノートが見れない。たいへん優秀で文句の付け所のないアプリだ。

 

 閑話休題

 

 五兆円が欲しいという話をしていましたね、話を戻しましょう。もちろんみんなが石油王ならこんな話はしなくていいのだが、遺憾なことに少なくとも僕はアラブから遠く離れた極東に生まれ落ちたわけで、最低限のITリテラシーがないと自分のスマホ料金も払えない。

 どうも通信料だけブラックボックスみたいな家計多いですよね、いくらかかってもしかたないかーみたいな。うらやましいことですが、そこぜったいかなり浮かせるからそのぶん俺にくれよな。

 

 専門的な話はいらないんだよ。俺だってありゃしない。ただ、前提となる広く浅い知識は身につけるにこしたことはない。たいしたことじゃないんだ。微分方程式の解法学んでも直接は一銭にもならないけど、CPUとRAMの言葉の意味を知るだけで何千円も得する可能性があるんだ。

 

 スマホなんて、誰でも持ってるわりに、そこらへんガバガバだよなって思ったという話です。あるいは、五兆円が欲しいという話。

 

 

  

 

 

文体について知っているいくつかの、②

 久しぶりです。4月はなにかと大変でいたずらに神経を使ったり精神に悪いことが多いですが、あんまり深みにはまらないで、気楽にやっていきましょう。やっていきましょう。やっていきましょう。やるぞ。

 

 引き続き文体について。以前は文章を書くにあたってについて書いたように思う。

 

 とはいえ、実際にふだん人が長文を書くことは少ない。かわりに多くの人がやってるのは会話体の短文だ。メール、ライン、ツイッターをはじめとしたSNS。ここで使う文体はフォーマルなものにはなかなかならない。ならないよね?

ラインなどという暴利な個人情報叩き売りインターフェースについては思うところも多いですがそれはさておき。チャットという概念が通信形態を変えたのは大きい。文字の方がリアルタイムでの通信が楽だったから、というのが基本コンセプトだったとは思うけど、結果としてチャット文化は広く定着し、会話文としての文章技術は新しくなりつづけている。

 

 

 表情と声の調子がわからないのに会話をするという状態がそもそも異常なわけだが、それを解決するために顔文字だクエスチョンマークだといったデコレーションが発達したのかと考えると趣深いものがある。アスキーアートなんかが流行ったのも今は昔ですね。絵文字という概念もたしか日本起源だったと思う。日本から逆輸入してiPhoneアップデートで追加されたそうだ。英語でもEmojiって言うらしい。 

 

 文字コミュニケーションの利点はやっぱあれですね、顔が関係ないことですかね。どんなひどい発言してても美人なら許されたりしますよね、あれが排除されるのはありがたい。逆に言えば、自分の容姿に自信があるなら文字コミュニケーションに頼るのは悪手です。あとは頭で一回まとめてから発言できるのは大きいですね。情報をまとめて伝えやすい。そこらへんの必要な文章力とか考えると、一定学歴のキモオタクに優しいコミュニケーション手段といえるかもしれない。

 

 逆に悪い点は口論ができない点ですね。文字だけだとどうしても語調が強くなる。で、しかも悪いことに感情的な言葉って文字数短くてやたら打ちやすかったりする。はっきりいって感情的な言葉って言葉のままだと限りなく情報量少ないから、非常に扱いづらい。

今書いていてラインスタンプとかいう非言語曖昧ぼかしコミュニケーションツールへの言及をしそうになったけどこれはまた別の話で。

 

 書いたはいいものの難しいですね。データ量が少ないぶん文字にすれば一度に大量のことは伝えられるのだけれど。それについて話し相手はどう思っているのかは、限りなく伝わらない。ウソもつきやすい。ウソだと思ってないことが情報不足でウソになるなんてことも日常茶飯だからアレ。のくせに文字は残るんですよね、あれもなんでも消せるようにするのもなんだかなあと思うので難しいところだ。

 

あ、じゃあこういうのはどうだろう。

 

 ここまでぜんぶ爆笑しながら書いた、とか。実はチンパンジーに適当にキーボード叩かせたのかもしれない、とか。

 

文章なんて、そんなものかもしれないと思ったときの恐怖たるや。

春と対人と

おひさしぶりです。

 

四月が始まる。

 

 一年で一番出会いが多く、気分が高揚し、盛り上がる季節だ。一年で一番無意味な出会いが多く、無意味に気分が高揚し、無意味に盛り上がる季節だ。結果として心が疲れて五月病、というケースも多見する。常人でさえそうだ、いわんやオタクをや。

 

 さて、人間関係をやっていくための文章をこんなに書いておきながら今更だが、本質的に人付き合いとオタク趣味は相容れないものだ。金、時間、すべてが互いを否定する方向に働く。

具体的な話はきりがない。そこには世代をこえた確執と対立が存在し、血で血を洗う戦い(ほとんどオタクの血だが)が繰り広げられてきた。

 

しかしながら、人間関係をやっていくためには歩み寄らなければいけない。

 

 異文化交流を行うときに大事なのは、投げ出さないことだと思う。もう少し言えば、投げ出さないように支えてくれるものがあることだ。ここで恋人とか思いつく人間なら読まなくても問題ない。いなかったとしても、その手の具体例に脳がつながるタイプの思考をしている人間は心配いらない。学生の会話、半分以上は恋バナしてれば何とかなる気がしていて、自分なんか激しい違和感で局所的な希死願望に包まれがちなんだけど、実際何とかなるし、そのたびに首をひねりがちだ。

 閑話休題

支えるもの、というと大げさかもしれない。知識、経験の類だ。わかりやすい俺自身の場合で言うと、たとえば、オタクだってオタクじゃない友達がいる、ということだ。いや一人もいないぜって場合でも、友人の友人はまったく自分と趣味が違うことはあるだろう。

 別にこれだけに限った話じゃないが、俺の場合はそれが異文化交流をする上で、何度となく自分を踏みとどまらせてくれるものとなっている。

 よく、“友だちが 嫌いな奴と 仲がいい”みたいなことで悩むのがいるが、そりゃチャンスだ。おかげで、他にむかつく奴がいたとしても、あのいけ好かねえ野郎の関係者は全員ぶっ殺してやらあ、みたいな考え方を鎮めることができる。

 

 結論から言って、何度でも繰り返すが異文化とわかりあえることはない。少なくとも俺はできない。でも交流しなきゃ人間関係はやっていけない。だから心に指針を持たなきゃいけない。身近な例からゆっくりと広げていけば、相手の価値観に近づくことは可能だ。それは、それを受け入れられるかとは違う。可能なことだ。

 

 これで締めたら良い話で終わるんだけど、最後に、その作業を通じて自分の心が壊れないようにする努力、という話があって。

  自分と相容れない価値観を理解することは、残念ながら、当然ながら、極度のストレスを伴う。ただでさえ好きなこと以外はろくにスタミナを使わないオタクにとって、この作業は過酷なものだ。また、人間関係をやるにはただ相手を理解するだけではなく、相手に無愛想だと思われないようにする必要もある。受け入れることはできない、とは言ったが、受け入れられねーよバーカ、と言い放って良いとは一言も言ってないのだ。いやなものをいやだと言っていいのは自分に関することだけだ。思想、考え方なんてなおさらだ。

 中にはもちろんいやなやつはいやだ!で生きている幸せな人もいるけれど、そういう人は人間関係をやっていこうとするオタクとは別の世界の住人だ。はいそこを勘違いして死んだオタクに黙祷一分。

 

知らない人間と話すときは、決してオタクだなんてカミングアウトするな。死ぬぞ。

 

四月は死月だメメントモリ、常に死を想え。

 

 

できないことが面白さにつながるというお話

 

 今ゼルダの伝説がアツいですね。初のオープンワールドとのことで。オープンワールド洋ゲーでは多いけれど、単にマシンのスペックが上がって広いワールドが作れるようになった、とそれだけではないと思う。

 和ゲー、とくに任天堂。が、なんでおもしろいのか、について。昔かなり面白い視点を得る機会があったので書こうと思う。

 

 それは、名前は忘れてしまったんだけど、オブジェクトによって人の行動をある程度操作する、という考え方だ。例えば駅前によくわからんグニャグニャしたオブジェを置いたり、ベンチに席ごとに手すりをつけるのは浮浪者が寝たり拠点にするのを防ぐためだそうだ。

もとからそうある地形に対してはなかなか疑問を抱かないというかそういうものだからしかたないわけだけど、普段から無意識のうちに行動を制限されているという視点は面白い。住宅がなければ大概のルートは直進できるという話だ。

 これは日常生活のことだから、さほど作為は感じない。作為的な場合もあるって言っても行政レベルの作為。だがこれがゲームだとどうだろう。100%隅々まで作為がある。作為しかない。どうして城から魔王のところまで直進ショートカットできないのだろう?どうして飛び越えた段差はのぼれず、モンスターの出てくるくさむらを通らなきゃいけないんだろう?その行動は一見当たり前で、プレイヤーの選択に見せかけられている。しかしそれは開発者の意図だ。そこに理由をつけるためのRPGのストーリーだ。俺自身はだから開発者が一番楽しいだろなんて思うのだけど、それはまた別の話だ。

 実は、そういった開発者による制約こそが多くのゲームの面白さにつながっているという見方は大事だ。

 たとえば正方形のマップをイメージしてもらいたい。左上がスタート地点で左下がゴールだとして、単に真下に行くだけでクリアできたとしたら果たして面白いだろうか?では右上にある鍵を手に入れなければ扉が開かないとしたら?左下の人物に、話しかけないと鍵を探しにいけないとしたら?

 “できない”ことによってゲームは複雑さを増すのだ。そして任天堂の名作と呼ばれる作品、たとえばマリオ、カービィゼルダといったものは、そのバランスが職人技といえるレベルで調整されている。

 具体的にマリオを例に挙げてみる。マリオの最大の特徴は何かと言えば、ダッシュとジャンプしかできないという点である。そして、“ジャンプの飛距離がそれによって変わる”という点である。ここに“できないこと”と“できること”のバランス調整という概念の極致がある。そういう目でいちど任天堂作品を捉えると、いかに変態チックなゲーム作りをしているかわかると思う。

 Youtubeなんかでも、縛りゲーというものをやっていらっしゃる方は多い。自分にあえて制約を課してクリアするとかだ。ナイフだけでバイオハザードクリアとか、コイキングだけでポケモンクリアとか。マゾかよとか言ってはいけない。できるようになるとチャレンジしたくなるのが人間なのだ。まああれはできるのにあえてやらない、ことにも意味があるから一概に同じ話にはできないのだけれども。

 逆に、制約があるせいで一本道だという考え方もある。しかし、ドラクエの新規性は、それまでどこになにがあるかなんて全くわからなかったゲームが、あからさまな立て札や助言によって進むべき道がわかりやすくなったことにあった。スペック、技術が追いついた今だからこそオープンワールドが叫ばれるが、昔はキャラの容姿もお察しの画質であるからして、会話イベントだ目的だのをしっかりしていることがロールプレイの要だったわけだ。

 

 今や単純なジャンプでゲームを楽しむには環境があまりに複雑になってしまった。それでも、根底にあるものを振り返るのは悪いことじゃない。オープンワールドったって結局は箱庭の延長だ。作意の形が変わっただけで、ユーザーとディベロッパーの関係は変わらない。ただまあ、せっかくユーザーをやるなら、より深く、神と同じ視点に立ったうえで、その手のひらの上で楽しむというのも、案外悪くないものだと、そう思う。

モンハンダブルクロスがでる前にゴッドイーターと

 はじめて、はじめてゲームの話をする。やったぜ。改めましてIriwoです。好きなゲームはキングダムハーツ勇者のくせになまいきだ、などを筆頭に、アクションRPG寄り全般。FFはⅦのCrisis Coreが一番好きで、ドラクエはⅤ、スーパーマリオは2とサンシャイン、ギャラクシー、星のカービィは64と鏡の大迷宮といったところです。グラセフもたいがい好きです。メタルギアもやる。ホラゲーは苦手だ。

 

 モンハンクロスを、やっている。ポータブルくらいからやっていて、3rdで止まってたから3DSは初めてだ。武器やモンスターが変わったのはいいとして、動作が全体的に早くなった。狩技とかいう必殺技もある。

 

………

 

 ゴッドイーターと似てきた?

 

モンスターハンター ゴッドイーター 違い」が死ぬほど使い古されているのは重々承知の上自分の言葉でまとめたい。

 

 今やハンティングアクションRPGの二大巨頭として無事に成長してきたこの2つだが、発売当初のゴッドイーターは後追いだからなんとかモンハンと明確な“差”をつけようとしていた。

 アニメ調のイラスト、設定、ストーリーがきちんとある、というのがひとつだ。モンハンはもうなんかとにかく村がモンスターの無限湧きスポットなのかよといった風に村長の言うとおり狩りまくるだけなのに対し、ゴッドイーターは人類の敵たるアラガミを倒すぜ、というそれなりに崇高な目的がある。

 また、ゴッドイーターのほうが圧倒的に速い。モンハンは回避や崖登り、採集に独特のもっさり感があって、そこにリアリティを出していくのが売りだが、それがイライラする人にとってはゴッドイーターのヒュンヒュンステップを踏み、ピョンピョン二段ジャンプとかするのがよかったと思う。

 あとは戦闘システムの差別化もうまいことやっていた。モンハンは“防具”の概念がかなり強く、スキルは防具で発動させる上、武器と違って頭、腕、胴、腰、足と5つも作らなきゃいけない、まあ逆に言えばその組み合わせを考えるのとかが売りだった。のに対してゴッドイーターは防御は“盾”ひとつで行う。武器も剣と銃が戦闘中に切り替えられる。スキルはこの3つそれぞれにもとからいくつかついている。

 

 じっくり考えてやりたいならモンハン、展開の早い戦闘が好きならゴッドイーターという感じだ。

 

 それが、それがだ。ゴッドイーター2、RB、リザレクションとすすみ、モンハンがクロスまでいく間に、両者が近づいてきたような気がするのだ。僕はどちらも高く評価しているのでこれは決して非難ではなく、正当な改良の結果として両者が行き着く先にめちゃくちゃ興味があるのだ。

 

 具体的には冒頭にもか述べたように“必殺技”があること。武器の他に、固有の必殺技からいくつかをセットしてミッションに臨めるのはゴッドイーター2からあるブラッドアーツシステムとほぼ被る。なんというか、モンハンはもっとリアル志向だったと思ってたのでかなり驚いた。例えばモンハンって斬りまくってると刃こぼれして砥石持ってないときつかったり、で、その研ぐのがやたら時間かかったりする。そういう生身の人間感に力を入れていたのが、だいぶ方向を変えた気がする。代わりに、研いだり、重いものをもって走るときとかの速度がずいぶん上がった。

 逆にゴッドイーターは一撃が重くなった。自分でちょっとでもゲーム作ろうとすればわかるんだけど、攻撃エフェクトだけじゃけっこう“軽い”。切った瞬間のフレーム調整が雑だと、切った気がしないのだ。そこらへんのメリハリがうまくなった。

 

 全体的に爽快感がどちらもあがって、一回のミッションにかかる時間は短くなっている。昔のモンハンなんて50分使い切ってなんぼみたいなクエストがバンバンあったのに、今やサクサク進む。俺が泣いたナルガはどこに消えたんだ。

 

 おもしろくなっていると思う。それとは別に、これが時代の流れというか、今の流行りなのかと思うとまた興味深い。先日発売されたFF15も、FFシリーズ初の完全なリアルタイムアクションになった。シミュレーション的なものが廃れたとは一概には言えないが、ライトユーザーは直感的に進められるアクションを求めがちなのかも。シミュレーション的なゲームがスマホでもだいぶ生まれてきたというのも一つなのかもしれない。

 

 ハンティングアクションというジャンルの注目すべき点は、もともとRPGでは目的地への行く手をさえぎるために存在していた“敵を倒す”というイベントを、そこだけにフォーカスして新たなゲームにしてしまったことにあると僕は考えている。つまり、手段と目的が入れ替わったのだ。むしろRPGが生まれる前に戻ったというべきか。“倒すために倒す”というシンプルな構造に落とし込んだ上で、いかにして倒すのか、の幅を広げた。箱庭系ゲームの亜種であり、そこにプレイヤーこそが勇者であるというロールプレイ要素をうまく噛ませることで、全く新しい感触のジャンルになった。そこで求められているものはいろいろあると思うが、今の時代ではそれが“早さ”なのかもしれないと思わされた。飽きっぽくなっているのか、それとも他のコンテンツが増えすぎたのか。説明をつけるのは野暮な分野だ。筋からずれる。

 

 二大巨頭は今後どのように差異をつけ、どのように新しくなっていくのだろう。ダブルクロスをプレイする予定はしばらくないが、楽しみだ。

 

 

 

脱キモオタク話し方チェックみたいな

 日記を書きたいのに日記が書けないまま進んでいく2月が終わってしまった。僕はもうちょいこう、空が晴れてると心まで汚くみえるね春は嫌いだ滅べ花粉みたいなハートフルな日記を書いていきたい

 書きたいことだけっていってもいろいろあって、とりあえず絶対にモンハンダブルクロスが発売される前にモンハンとゴッドイーターの比較の話がしたいので、次回は絶対に、もう無限にされてきたであろうその話を蒸し返します。フォルダ分けみたいな機能も使ってみたいし。オタクの適応行動論もとりあえずこれで一区切り。

 

 文体について雑感を述べてしまった以上熱く書くことも当面なくなってきたので、今回はオタクの話し方についてずっと気にしてきたことを少々。

 

 “話し方”

 

 永遠のテーマであり、人間関係をスムーズにやっていくために欠かせない、数万のものの1つ。(人間関係はむずかしいので数万個くらい単元がある)(全必修)(永遠に再履修し続ける)(誰もお前を愛さない)

 

 さらに言えば、人間関係をスムーズにやってるやつらは得てして意識していないからたちが悪いものでもある。もちろん話し方も文体と一緒で、何が正しいというものでもないというのがまず前提にはある。のだが。

 あきらかに、これは間違ってる、あまりよくない、話し方が存在すると俺は思う。繰り返すが、人間関係をスムーズにやってるやつらは意識せずとも避けている話し方だ。わかるかキモオタク。お前のそれだ。

 今回初出のキモオタクについて少し説明します。キモオタクはオタクと明確に区別できる。アルミ缶とミカンくらい関係ないと思って支障ないでしょう。違いは、人に仇なすか否かです。結局のところ、人間関係をやっていく努力を放棄したオタクがキモオタクになるという理解で大枠はとれると思う。人と交流できなくなった神が鬼として退治されるのにちょっと似ているかもしれない。神よりかはゴミに近い存在だけどな。

 外見とかに言及する学説も主流だが、俺はやはり話し方に注目したい。なぜならおしゃれなキモオタクも確かに存在するからだ。今どきチェックリュックデブwith glassesなんてオールドスタイルなキモオタクは文化遺産だと思っていい。(いるけどね)でも俺昔から思ってたけどそれってべつにキモオタクというよりただのキモいやつじゃねえか。風評被害だ。あと、話し方が一番改善しやすい。人間関係をやっていくための文章なのに、できないことを書く意味がない。俺の知る限りオタクが外見を変えるのは1人焼き肉の50倍くらい心理的負担が大きいと考えていい。サンプル数は2桁以上だ。救われない話だ。

 さて、なにがオタクをキモオタクにしてしまうのだろうか。結論から言うと、“偉そうな喋り”これに尽きる。オタクは詳しい。誰かがそいつの得意分野にボールを当てれば、日が沈むまで喋っていられる。打ち所が悪ければ日が昇るまで喋ってるなんてことも十分ありえる。それはまあしかたない。誰だって知ってることは喋りたくなる。いやなら殴れば黙る。打ち所がよければ永遠に黙ってくれる。そのオタクがそれだけで気のいいやつだったら、まわりの人間はそこまで嫌いになったりしない。ちょっとストラックアウトで当てない練習をすれば大丈夫だ。

 だけどその喋りに、「なんでわかんないの?」ニュアンスが含まれたら危険信号だ。すでにそのオタクは人に仇なす存在として社会から“狩られる”対象に入っている。そして、その態度が自分の得意分野以外にまで広がったとき、オタクはキモオタクへと変貌し、人界を守るために火にくべられる。火の種類には詳しくないけど、たぶん熱い。火だし。

 知ってることを喋るのは簡単なのだ。ただ、喋るなら相手の都合も考えなきゃだめで。喋ってるだけの喋りは、伝える気のない話だ。それだけでも人間関係をやるにはアウト臭いのに、それを相手に対してわかんねえの?とは何事だ!こいつは同じ人間じゃねえ!殺せ!と、こうなる。オタクじゃない人はオタクがオタクしてる間、ずっと人間関係をやっているのだ。勝てると思うな。

 

 最後に、ぱっと思いつくキモオタクチェック。もしかして、と思ったらもう信号は赤だと思って間違いない。俺は真っ赤っかだ。がんばろうね。

 

補足説明による自己弁護…もとの説明だってわからない人に補足追加するのは嫌みでしかない

倒置法による相手の意見の確認…基本的に、反語はうざい

会話中の団体への専門知識による殴りこみ…割り込むな、列に並べ

必要のない反論…必要ない

 

 自覚がなければ必死に健常者を真似るしかない。見よう見まねで人間関係をやっていくしかないのだ。生半可な覚悟でオタクがやっていけると思うな。

 まとめると、最初から言ってることは変わらない。どうしようもなく何かにはまれるオタクが、それでも人間関係をやっていくために絶対気をつけなければいけないのは、 

偉そうにしてると刺される

 

そういうことだ。

それだけなんだ。

文体について知っているいくつかの、①

 好きな話 、できる話というのはある程度幅があるはずなんだけど、いちど方向が決まるとなかなか変えづらい。雑記にしたいのに偉そうなことを言いまくったあげく刺されないかビクビクしてるのが現状だ。個人的にはARやリアル脱出ゲームといった体験型コンテンツの盛り上がりをドラクエあたりから追いかけたりしたいし、草間彌生の生命力ハンパねえなみたいな話や騎士団長殺し買うつもりはないけど誰か貸してとか、そういう話をしたいところなんだけれど、今できる話のネタが尽きるまではおいとくとして。後でフォルダ分けなんかしてもいいかもしれない。

 

 さて、目下のボスである文体の話をしよう。 “文体”、それは鎧であり、文字を通じてしか繋がれない人にとって、唯一無二の武器だ。文字は文字にすぎない。しかし、文章を書いたとき、そこには文体が生まれる。これすごくないか!?すごいよね!?同じことを説明するのに十人十色、誰1人として全く同じ言葉を使うことはない のだ。すごいひとつとっても、「すごい」「すげえ」「やばい」、俺の文体でもこれくらいは選択肢がある。すごーい!

 こうして長い文を書いていると、自分の文体というやつを否が応でも直視することになる。自分はどんな言葉を使いたがるのか、なにを避けるのか、それはなぜか。

 存外これはおもしろい。たとえば俺は「○○なんだが。」という結びを執拗に回避している癖がある。代わりに「○○だけれど。」「○○とはいえ。」を多用する。どれを使おうが意味は変わらないはずだ。なのになぜ、そうするのだろう。

 感じが悪い気がする、というのはある。上のほうがより偉そうに聞こえる。譲歩ではなく反語に聞こえる、気がする。あくまで主観だ。でもその結果、俺の文から「○○なんだが」という言い回しは消える。それはその言い回しを使う人の文章と、俺とを分かつ。

 

 文体の意識はそういうことへの意識だ。丁寧に、大切にやっていくといいような気がする。

 これを発展させた話題にラインの文章とか、ひいては会話にも文体みたいなものはないだろうかみたいな話があるんだけど、それをやる気力も時間もないからこのあたりで。

 

 ブログとかいうもの、俺なんかは身を削ってようやく人の目に入るかどうかといったところなので、好きでやってるとしたってほんとうに馬鹿みたいに気力と体力を使う。

 

 狂ってるとしか思えない。

 

 文章を書くというのは、文章で表現するというのは、文章で自分をさらけ出すということは、文章で世界と繋がりたいと望むことは。